39.砂上の楼閣
アグレアス伯の計らいで、エリオット達はそのままジエメルド公爵邸での晩餐のもてなしを受けた。
王城で過ごすようになってからの食事も豪勢ではあったが、輪を掛けて贅を尽くされた上品な料理が並ぶ。
「すっごーーい! 美味しそうー!」
思わず声を上げてしまったエミリーにマリアンヌ夫人は微笑んだ。
「本日は皆さまの労いの宴ですから、礼節は大目に見ましょう。楽しんでください」
「マリアンヌ様、ありがとう! やったぁ」
楽しそうにはしゃぐエミリーの一方で、エリオットはぎこちない笑みを浮かべていた。
平民の頃には決して口に出来なかったような、高級で手の込んだ料理。しかし緊張と今置かれた状況のせいだろう、砂を噛んでいるかのようにまるで味がしなかった。
晩餐が終わり、アグレアス伯とエリオット、ロイドの三人はシガールームへと移動した。騎士ゆえに煙草は嗜まないが、饗された蒸留酒を口にする。
わずかに酒精がまわり少し落ち着いた頃、アグレアス伯はテーブルの上に小さな小瓶を置いた。繊細な装飾がされたそれは、貴族紳士が身嗜みに持ち歩く香油を入れた硝子瓶のようにも見えた。
「聖水です。念の為持ち歩いてください。それから、普段から予め清めておいてもいいですね」
そう言ってアグレアス伯はエリオットが持つ模造剣に目配せした。
エリオットは思わず眉間に皺を寄せる。
「……役目を終えたという話を信じるなら、何故そこまで」
アグレアス伯は優雅に口元に笑みを浮かべた。
「先ほど、心配していらしたでしょう。王都のはずれに出現した不死魔獣の件で。ですからそれは保険です。一体なら、それで充分誤魔化せるでしょう」
落ち着いた声で事も無げにそう語られて、納得しかけるが、それでも胸にある不安が消えるわけではない。エリオットは俯いて黙り込んだ。
「先日のあれは確か王都北東部、ウレリ川沿岸でしたね。あの川は北の山脈を水源として、我がジエメルド領を通り、王都へと流れています。北部は特に川の流れが速い。索敵から漏れた不死魔獣が流れ着いたとしても、不思議な事ではありません」
それを聞いて憂いの色を濃くするエリオットに、アグレアス伯は諭すように言葉を続ける。
「……元々、はじめから聖剣が無かったとしても、同じ事が起きたはずです。ですから、気負う必要など無いのです。それに──……」
それからアグレアス伯は立ち上がり、窓辺へと近寄った。窓の外には、日が沈み月明かりの中に王城が見える。
「新兵に経験を積ませる為、とでも言って、いくらでも遠ざける事も出来ますから。……まもなく私が王国騎士団長に就任いたしますので」
「……!? 待ってください、どういう事です? ライオネル団長は……?」
寝耳に水の話に、エリオットもロイドも目を見開いて立ち上がった。
「ああ、そうでした。祝い事に水を差さぬため、貴方がたには、まだ知らされていないのでしたね」
そう言って振り返るアグレアス伯は、心ともなく失念していたと笑って見せる。
「何でも、今後の聖騎士の扱いについて、陛下と意見の相違で仲違いされたようですよ。あれも頭の固い男です」
ソファに戻るとゆったりと腰を降ろして足を組む。
「彼のような豪傑さも武勲も持ち合わせておりませんが、私も誇り高きジエメルドの騎士団を率いていた身ですので」
「……それは、もちろん承知しています……」
ロイドが応え、二人とも気を落ち着かせる為にソファに座り直した。
ディラン・アグレアス・ジエメルドはジエメルド公爵家の次期当主であるが、併合した際に王家の血を受けており、血筋で言えば今上王家の傍系親族にもあたる。そして武勲は無くとも、古くから魔獣の多い北部で一国を守り抜いた王統の末裔だ。
その貴き血ゆえに前線に出る事は無かったが、王国であった頃から引き継がれているジエメルド騎士団の旗頭であったというのも間違いではない。
身分も立場も、ライオネルが去った後の王国騎士団長を任されるならば、確かに適任だろう。
「それに、こういった立場であれば、より貴方の助けにはなるかと」
──秘密を共有する者が上に居る方が、都合が良いだろうと、そういうことか……。
エリオットは俯き息を整えた。元団長であったライオネルを相手に秘密を隠し通すか、あるいは打ち明ける事に比べたら、いっそのこと気が楽なのは事実だ。そう思えば、幾分か身体が軽くなる気もした。
ジエメルド公爵邸を後にして、エリオット達はエミリーも連れて王城に戻った。
王城の廊下は宮廷魔術師が作った魔術ランプが焚かれ、宵闇の中でも昼間のように明るい。
その先を、天井にも届きそうな背丈の見覚えのある男が歩いてくる。武器商人のゴリアテだ。御用聞きにでも登城していたのだろう。
近くまで寄れば、ゴリアテは少し驚いたような顔をしてにっこりと笑みを浮かべ会釈する。
「おや、お二方、もうお戻りになっていたのですか」
「ええ、そうです……」
王城の廊下とはいえ、誰の耳があるかもわからないこの場で、隠れ郷や剣の話は出来ない。アグレアス伯に相談した後で面会に行く腹積もりであったはずだが、酷く気まずい空気が流れる。
今日のところは軽い挨拶で済ますべきかと考えているうちに、エリオットが今手にしている剣に、ゴリアテの視線が止まる。
少しの沈黙と共に、ゴリアテは表情を消した。
「……そうですか。そちらの道を、選ばれましたか」
目利きの武器商人、それも実物を見た事のあるゴリアテの目は誤魔化せない。ゴリアテが呟いた声は、何の感情も篭もらない硬いものだったが、それでもそこに含まれる色は凍えるように冷たかった。
結局それ以上言葉を交わせぬまま、ゴリアテは立ち去って行く。
今更になって、酷く脆い足場に立たされているような気がして、眩暈がする。重い足取りのまま、ロイドと別れ、エミリーを部屋に送る為に廊下を進んでいると、エミリーが腕にぶら下るようにして抱き着いて来た。
「ねぇ、エリオット。今夜はエリオットの部屋に行ってもいい?」
上目遣いで、頬を染めて見上げて来るエミリーの顔には憂い一つ無い。
──……仮令、器はフローラが与えてくれたものだとしても。祈りによって聖剣をもたらしたのは、彼女だ。
今のエリオットにとって、それはたった一つ残された真実だ。今となっては、それだけが支えでもあった。彼女の献身はこの目で見て来たのだから、間違いない。そんな思いがエリオットにはあった。
──それに、もし聖女であるエミリーが祈れば、いずれは……。
そう思い浮かんで、手にしていた模造品の剣を握り締める。