34.兄と弟①
日が傾き始めた頃街に戻り、領主様のお屋敷の一室を借りて、意識の戻らないギルバートさんを運び入れました。
ドルフさんと聖職者様、それから傭兵の皆さんが傍に付いてくれています。
わたくしも目覚めるまで傍に居たい気持ちはありましたが、それよりも、ギルバートさんと約束した晩御飯を作らなければ。あの時の言葉には驚きましたが、それはまるで必ず帰ると約束してくれたようで、嬉しかったのです。
街で一番大きな食堂の厨房を借りて、料理人や従業員の皆さんにも手伝っていただいて、大鍋をいくつも集めてシチューを作ってゆきます。
しばらくすると複数の馬の蹄の音が聞こえ、外が少し騒がしくなりました。
戸口から覗けば、黒く塗りつぶされた盾を持ち、鎧姿の、体格の良い男性が馬から降りるところでした。ライオネル様たちが戻られたようです。どうやら、あちらの封じ込めは恙なく終わった様子。報告を聞く領主様の表情は、安堵が窺えます。
「ギルバートが、ここに……?」
驚きと戸惑いが混じったような声が聞こえ、やがて急くように屋敷の方に走って行く後ろ姿が見えます。ギルバートさんのところへ向かったのでしょう。
残された領主様は深く息を吐いてから、こちらに歩いてきました。それから、どこか浮かないご様子で誰にともなく語り掛けます。
「ライオネル卿の盾、塗りつぶされていたな……。黒騎士になられていたのか。昼間は他に気を取られて、気付かなかった……」
その言葉に、周囲に居た住民も私兵団の方々も、何とも言い難い表情と沈黙と共に俯きました。
この国や周辺一帯では、騎士の盾には主君の家紋が入ります。黒く塗りつぶされた盾は、その忠誠を誓う主君を持たぬ証。だから、黒騎士と呼ばれます。
わたくしは、ギルバートさんから話を聞いていたので事情を知っていました。でもこの街の方々にとっては、王国騎士団長が自ら助けに来たのだと、そう思っていた事の意味が少し変わってしまいます。
領主様は顔を上げると、ぱんと手を叩いて笑みを作りました。
「さあ、英気を養わねばならん。皆、今日振る舞う晩飯は、豪勢に頼むよ! 食える時にしっかり食っておこう!」
努めて明るく振る舞っているのが見て取れる領主様の号令を合図に、料理の準備に戻ります。
シチューを準備している傍らで、バーバラさんが大麦とアーモンドをバターで煎って、麦芽糖から作った水飴で固めていました。
どうやら、街の子供たちに配るおやつのようです。
「フローラちゃん、下拵えが一段落したら、ギルバート達のとこにも、お茶と一緒に持って行ってくれるかい」
「はい! 小腹が空いてる方も多いでしょうから、昼間のベーグルの残りも持っていきますね」
沸かしたお茶の入った薬缶と、軽く摘めるものを用意して、領主様のお屋敷に向かいます。
ギルバートさんが眠っている部屋に行けば、ベッドの脇の椅子に腰かけているライオネル様の背中が見えます。ベッドの向こうにはドルフさんが、腕を組んで同じように座っていました。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
そっと中に入れば、ライオネル様が振り向きました。
「ああ、ありがとう……。もしかして君がフローラさん?」
「……! はい、そうです」
急に名を呼ばれて驚いてしまいました。ドルフさんから聞いたのかと思いましたが、表情を見るとどうやらそうではなさそうです。
「いや、突然すまない。さっきから、こいつが寝言で名を呼んでいてね」
「ええ……っ!?」
驚きながらもベッドサイドに置かれたテーブルにお茶と軽食の入った篭を置きましたが、聞いた言葉にだんだん顔が熱くなってゆきます。ギルバートさんは、穏やかな寝息を立てて眠っています。ライオネル様がその顔に視線を戻しました。
「ちなみに、フローラさんが八回、俺は二回だ……」
「数えているのですか!?」
思わず少しだけ声が大きくなってしまって、慌てて口を手で覆いました。ライオネル様は困ったみたいな笑顔を浮かべて、額に手を当てています。体格は一回りほど大きいですが、その顔は、ギルバートさんにとてもよく似ています。
「……ああ。兄と呼ばれるのを心待ちにしていたのに。まさか、寝言で聞くのが先とは……」
どこかしょんぼりとした様子でそう口にするライオネル様は、以前に遠くから見掛けた時の、厳格そうな風体とは少し異なって、愛嬌のある方に見えました。奥の方でドルフさんが楽しそうに笑っています。