33.欺くものは何か
二日前の王都、エリオットとロイドは、隠れ郷に辿り着けなかった失意を抱え王宮に戻っていた。
「……エリオット、提案なのだが。もはや俺達だけで抱えられる状況には無い。もう一度ゴリアテ殿を訪ねる前に、後ろ盾であるアグレアス閣下には打ち明けて、ご相談してみないか……?」
塞ぎこむエリオットを気遣うように、ロイドは努めて落ち着いた口調で提案した。
ロイドが名を挙げた相手は、平民から伯爵となるエリオットの後ろ盾となる大貴族だ。伯爵夫人となるエミリーの後見人も務めており、夫人は彼女に対し淑女教育も施してくれている。
エリオットはしばらく俯いたまま唇を噛み考え込んだ。しかし今の状況をこのままいつまでも隠し通せるはずもない。
「事実を伝える事に気が進まないのはわかるが。正直に打ち明けて、助言を請うべきだ」
「…………そう、だな」
再びロイドに念を押されて、エリオットは漸く頷き、立ち上がった。
王城とも遜色が無いほどに贅を尽くされた邸宅の一室で、エリオットとロイドは、齢三十前後の貴族然とした美麗な男を前にしている。
「その状況を抱えているのは、さぞ苦しかったでしょう。よくぞ打ち明けてくれました」
同情を溶かし込んだ、品の良い声音がエリオット達を慰めた。
男の名はディラン・アグレアス・ジエメルド。王国北部の実に七割に当たる広大な領を治める、ジエメルド公爵家の次期当主だ。現当主が健在の為に儀礼爵位としてアグレアス伯爵を名乗っている。
「しかし実のところ、聖剣が役目を終えて、力を失うのは、私も予測はしていましたよ」
「役目を、終えた……?」
「北部の鎮圧が終わったのです。その可能性は十分にあります」
アグレアス伯は緩やかにその表情に笑みを刷く。
「古くから、聖剣の顕現は伝承や民話に、そして近年でも、実際に史実に残っています。ですが、伝えられる活躍の後で聖剣がどうなったか、という記録は全く残っていないのはご存じですか」
「……確かに。聞いた覚えがありませんね。大きな活躍に纏わる話はいくらでもあるのに、その後に関するものは何も……。つまりは、それらの聖剣は果たしてどこにいったのか、そういった解釈ですか……?」
ロイドが問うと、アグレアス伯は頷いた。
「役目を終えた聖剣が、もとの剣に戻っただけではないか──そうは考えられませんか?」
エリオットはそれを聞いてしばらく考えこんだ後で、迷うように顔を上げた。
「ですが、先日も成りそこないとはいえ、不死魔獣が王都のすぐそばに出現しました」
「存じております。しかしながら、そもそも単体の不死魔獣が出現する事自体は、北部の大量発生以前からも稀にあった事です」
アグレアス伯は再び笑みを浮かべる。
「もしそうだとしても不思議では無い、というだけの事。これは予想にすぎません。ですが私は、その可能性が高いと感じているまでですよ」
エリオットの顔に昏い影が差す。もし仮に、アグレアス伯の言葉を真実とするならば、今目の前にある苦悩の種はある意味では取り除かれる。しかし、その事を果たして周囲は認めてくれるのだろうか。
あるいは、自分自身こそが、聖剣を失った先の現実に、耐えていけるだろうか。
沈黙するエリオットに、アグレアス伯は労わるような声を掛けた。
「……貴方の活躍によって、我が領は大いに救われました。もしも貴方が聖剣を授からなければ、私も、貴方がたも、少なくともあと三年は王都に戻って来られなかったでしょう。そして、今よりももっと多くのものが失われた」
それは事実だ。今回の不死魔獣大量発生によって、最も被害を受けたのがジエメルド公爵領だ。だからこそ、こうして率先してエリオットの後ろ盾ともなってくれたのだ。
ジエメルド公爵領は、百年ほど前にこの国に併合されるまでは、ひとつの小国だった。それゆえに、不毛な地の多い北部にありながら、領都も栄えている。
だからだろう、そのかつての王統である、このディラン・アグレアス・ジエメルドを始め、ジエメルド公爵家に纏わる人々は皆、自領の民に安寧をもたらした英雄として、エリオットを誰よりも称え、支えてくれるのだ。
「聖剣喪失の真実は、まだわかりませんが……、我々は大恩ある貴方を、見捨てはいたしません。そして今の状況を、少し手助けする事も出来ます」
エリオットは縋るように頭を上げた。
「それは、どういう意味でしょうか」
問うたエリオットに笑みを向けると、アグレアス伯は侍従に目配せする。
侍従が部屋に持ってきたのは、質の良いベルベットの布で覆われたひとかかえほどある横長の浅い箱だった。
布を取り払えばそこにあるのは、鞘と共に並べられた、見覚えのあるアイビーのレリーフが刀身に彫られた、一振の剣。
「これは……!?」
「聖剣の模造品ですよ。ご覧の通りのね」
確かに、言われてよくよく見れば細部にいくらかの違和感がある。だが遠目では分からないほどの小さな差だ。
「なぜ、こんなものを」
いくらなんでも用意が良過ぎる事に、頭の片隅で疑問が芽生える。
「これは父の望みで造らせていたものです。我が父は武器の蒐集家でしてね。貴族には珍しい事でもありません」
そう言って、アグレアス伯は苦笑いした。
「使いもしないのに、ただ飾る為に名剣を買い求める。聖剣は流石に本物を手元には置けないとあって、早い段階から模造品を用意させていた。愚かな趣味だが、それが想定外に役に立つ時が来たようです」
目の前に差し出された剣に、エリオットは戸惑いながらも手を伸ばす。柄を持ち上げるその手は僅かに震えていた。
「国王陛下はしばらくの間、周辺国に対して何かにつけ聖騎士の存在を誇示したがるでしょう。それもまた愚かではあるが、ただそこに在るだけでも権威を示すのだから、仕方ありませんね」
私邸の一室だからか、不敬も厭わずにアグレアス伯は冷笑を浮かべた。
「愚に付き合わされるならば、その模造品で充分かと」
少なくともそれでいくらか時間は稼げるだろう。言外にそう受取り、まだ微かに震える手で模造品の──偽の聖剣を鞘に納め、自身の傍に置いた。
──仮に、……時間を、稼いだとして。
エリオットはふいに自問する。役目を終えた、その言葉が真実ならば、この先もずっと偽り続けなければならない事にも繋がる。他方、もし他に理由があるのなら……。
脳裏に浮かぶのは、部屋に置いて来た刃の毀れたあの剣だ。仮にその先に真実があった時に、それは果たして取り戻せるものだろうか。ぞわりと背に悪寒が走り、それ以上の思考を拒絶する。
沈黙の降りた部屋に、軽快に扉を叩く音が響いた。
訪れたのはアグレアス伯の夫人マリアンヌと、エミリーだった。
「マリアンヌ、エミリー嬢。わざわざこちらまで出向いたのですね」
「ええ、皆さんに、エミリー様が挨拶なさりたいと」
エミリーは部屋に一歩踏み込むと淑女の礼を執ってみせた。
「エミリー嬢、だいぶ様になってきましたね」
「えへへ! ディラン様、ありがとうございます!」
ぱっと明るい表情になり頬を染めるエミリーが、嬉しそうに笑っている。
「エミリー様、ディラン様の事はアグレアス伯爵とお呼びください」
「はーいマリアンヌ様! ……あ! エリオット、ロイドさん、おかえりなさい!」
エミリーの振る舞いに、マリアンヌが微笑んだまま小さく溜息をついた。
「エミリー様、この場は非公式なので、まだ大目に見ます。ですが結婚式までにはもう少し、頑張りましょうね」
柔らかい口調で諭されて、エミリーは少し悲しげに笑った。
──そうだ……、ここ数日聖剣の事に気を取られて、すっかり忘れていたな。エミリーもこうして努力しているというのに。
エリオットは、淑女の礼を再び披露して見せているエミリーを見つめて、気を落ち着かせる為に大きく息を吐いた。
──少なくとも、今は、彼女と共に築いたこの栄光を、立場を、守らなければ。
そう胸のうちで自分に言い聞かせるが、不安の影はあちらこちらに散らばって消える事が無い。鞘に納まった馴染みの無い剣の柄を握る、その手の震えは収まらなかった。