31.北の異変③
集落の内部に踏み込むと、ギルバート達がまずは聖水の加護が残っている武器を使って住民達の退避ルートを確保した。
今や集落の半分を覆う不死魔獣は視覚と聴覚が無く、動き回る生き物の匂いを目印に襲ってくる性質だ。無機物には反応しないところを見ると、匂いに加えて温度でも感知しているのだろう。
「殺傷能力は低いって話だが、どの程度だ?」
ギルバートが少し離れた民家の屋根にみっしりと張り付いている不死魔獣を睨みながら、私兵団員に問うた。
「鋭い牙や爪は無いからな。その代わり、吐き出す唾液に軽い毒がある。即死するような強いもんじゃないが、ゆっくり時間を掛けて麻痺が全身に回る系統だ、身体が動かなくなり、思考もおかしくなっちまう」
傍らで聞いていた傭兵の男が苦い顔をした。
「牙が無かろうと噛まれりゃ後々厄介てことか。まぁ、動けなくなる前に聖職者に治癒して貰えば何とかなるか」
随行していた数人の聖職者がそれに頷く。
残っている住民の有無を確認して回っていた傭兵が、樽を抱えて戻ってきた。
「こいつを使おうぜ。恐らく山羊チーズの乳清だな。匂いがきついから囮には丁度いい」
樽の中身は黄色く濁った水が入っていた。廃棄予定だったのか、発酵して独特な匂いを放っている。
男達は顔を顰めた後で、柄杓でその水を頭から被った。
「さて……、後は街と逆方向になるべく誘き寄せて……動けねぇようにひたすら潰し続けるだけだ」
「ここまで単純で頭の悪い作戦もなかなか無い、貴重な経験だ」
「褒めてんのか、それ……」
ギルバートと男達は無駄口を叩きながら、発酵の進んだ乳製品の独特な悪臭を纏って不死魔獣の群れに向かい走り出した。
◆◆◆
集落から避難する住民達を乗せて、馬車は猛スピードで街に向かっていた。
「ギルバートさん達……大丈夫でしょうか」
不安を乗せた表情で、フローラが御者台の小窓から遠ざかる集落をじっと見ている。手にはギルバートから贈られたブローチを握りしめている。
「祝福がある。後は祈るだけだよ」
短くそう諭すと、バーバラは壁に飾られていた小さな女神像を取り外してフローラに渡し、ブローチと共に握らせる。女神像は村を発つ日に子供達から贈られたものだ。
「ああ、それから。あいつに今日は何を食わせたいか考えとくといい。こういう時はね、怖いこと考えるよりずっと良いさ。街の厨房、借りられるんだろう?」
バーバラは呑気にそんな事を言って、柔らかく笑った。
◆◆◆
集落に囮役で残ったギルバート達は、今や赤黒い不気味な沼地のような様相と化した中に立ち、肩で息をしていた。
「まったく、再生すんのがっ、早すぎ、だッ」
傭兵の男が息を切らせながら密集した不死魔獣目掛けて棍棒を振り下した。
その向こうではギルバートが戦斧で中型の個体を数匹纏めて薙ぎ払っている。
蛙に似た不死魔獣は見た目以上に厄介だった。何しろ数が多い。
集団で身体に取り付かれると振り払うのも簡単では無い。その上、戦っているうちに出来た小さな傷口から麻痺毒が染み込んで、腕も足もじわじわと鈍っていく。
潰した時に跳ね返る赤黒い腐敗した肉片に全身塗れて、今や男達は酷い有様だった。
「それでッ、この後、俺達はどうする?」
消耗と、手を止められない状況から途切れ途切れに掛けられた声に、ギルバートもまた息を整える間もなく答えた。
「爺さん達が、帰りに、街から追加の聖水と、武器を運んでくれてる。それを上手く使って、端から順次離脱していこう」
ドルフの言葉を信じるなら、最悪の場合は全員一度無理やりにでも馬車に乗り込んでしまえばいい。
そんな事も考えながら、ギルバートは戦斧を地面に叩きつけ、小型の不死魔獣が密集した山を突崩す。赤黒い腐肉が地面に散らばるが、土に還る気配もなくまたボコボコと音と泡を立てて再生していく。
傍に居た傭兵の男は足元が大分ふらついている。麻痺毒がかなり回っているようだ。
聖職者には集落の入口付近に結界を張って待避してもらっている。だが治癒を受けに行かせたくとも、再生を繰り返す無数の不死魔獣に囲まれ、なかなか思うようにはいかない。
今や全身跳ね返った腐肉にまみれているが、戦斧とフローラが作った組紐の周りだけはそれが残らなかった。お陰で手を滑らせずに済んでいる。
──聖水染み込ませたのが効いてんのかな……。
そんな事を考えているうち、どうやら馬車が戻ってきたようだった。
聖職者が集落の入り口に結界を張り、そこに飛び込むような恰好で一人一人離脱していく。
「私の結界はこの規模が限界です。側面を頼みます!」
叫ぶ聖職者に、離脱を終えた私兵団員達が頷き、ドルフ達が運んだ聖水で剣を清め対処する。
ギルバートが殿を買って出て、あと残り二人というところで、しかし傭兵の男が一人、足をもつれさせ地に膝を突いてしまった。麻痺毒が全身に回ってしまったのだろう、そのまま地面に倒れ込む。
「おい、どうした!」
「あと少しだぞ! 立て!」
怒声と共に数人駆け付けるが、男の屈強な身体が災いして、外まで引き摺り出すにも時間が掛かる。
戦斧を振り回しながら視界の片隅でその光景を一瞥し、ギルバートは手近にあった乳清の樽を持ち上げて中の水を頭から被った。
「俺が時間を稼ぐから、その間に!」
叫ぶと、不死魔獣を惹き付けるようにぐるりと駆け回り、それから集落の入り口とは逆方向へ全速力で走り出す。周囲に居た無数の不死魔獣が赤黒い波のように蠢いて、ギルバートを追いかけ始めた。
ギルバートは走りながら、この後どうするか考えていた。咄嗟に動いたものの、追いかけて来る不死魔獣の量が尋常ではない。あの量では、殺傷能力が低い等とは言ってはいられない。追い付かれて押しつぶされたらそのまま圧死するだけだ。
──やばい。どうしよう。……いや、ここで死んだらライオネルに殺される。それに何より……。
疲労と、麻痺毒と、そしてこの状況に思考は混乱を孕みつつあった。そもそも今でさえ、まともに走れている事が不思議なほどだ。視界の端で戦斧に繋いだ組紐が揺れる。
走りながら振り返れば、遠く馬車の屋根にある天窓から身を乗り出して、不安そうな顔をしているフローラが見えた。
ギルバートは民家をぐるりと回り込むように走って不死魔獣との距離を稼ぐと、馬車に向かって腹から声を上げた。
「フローラさん!!」
「……! はい!」
フローラが驚いて返事を返す。
「今日の晩飯は、何ですか!?」
これはきっと麻痺毒のせいだ、自分は何をしているのかとギルバートは一瞬自問したが、何故だかどうしても聞いておきたいと思ったのだ。
「牛肉たっぷりの、シチューですよー!!」
声を張り上げて答えたフローラの表情は、明るかった。無事に帰って来るようにと言われている気がした。
──そうだ。ここで馬鹿やって死んだら、何も出来ないまま、大事な人を皆悲しませる。そういうわけにはいかない。
ギルバートは、距離を確認して立ち止まると、戦斧を振り上げた。
一先ずは一撃を入れて、追いかけて来る量を減らし、後は馬車まで走れば。
「守りたいものが多すぎて、死んでる場合じゃないんだ」
ぼそりと呟いた時に、耳元で何かが爆ぜるような音がした。
それを確認する間は無い。目の前には不死魔獣の群れが作る赤黒い大波が押し寄せてきている。
振り下ろした戦斧の一撃はその波を切り裂いた。だが同時に、裂け目に白く小さな稲妻がいくつもバチバチと音を立てて広がる。
閃く電光はやがて不死魔獣の波を覆い尽くした。
それから地面にぼたりと落ちた腐肉は、風に溶けるように土に還る。霞む視界の中でその光景を最後に、ギルバートの意識は途切れた。