26.恥さらしの義勇②
泣きじゃくるチェルシーを宥めながら、事情を聞いて落ち着かせると、ケビンは目の前に座る王太子アレクシスとその婚約者アマンダに向かって背筋を伸ばした。
「殿下、アマンダ様、チェルシーを助けてくださって、ありがとうございます」
「礼には及ばない……。むしろ、先ほど彼女にも伝えたが、私達がここを訪れたのは、ある意味ではあの男達と似たような理由だ」
その言葉に、ケビンは表情を強張らせる。
アレクシスは護衛の青年に指示を出し、数枚の書面をテーブルに並べた。
「これは……」
目の前に並べられた、様々な金額のフローラの署名入りの借用書に、ケビンとチェルシーは顔を青褪めさせた。
「落ち着いてくださいませ。いくつかはすでに、考えの足りない方々による、誰の目にも明らかな詐欺であると判明しております」
「残念な事にそのような愚者はどこにでもいる。……問題はこちらの、金額が大きいものだ」
そう言ってアレクシスが指さした借用書には、平民の稼ぎでは到底返せない金額が記載されている。
「これ、さっきの連中が言ってた金額です。でも、フローラさんがこんなお金を借りるなんて、とても信じられない……」
チェルシーが涙声で言えば、アレクシスもアマンダも宥めるように頷いた。
「ええ、市井にはフローラさんが借金をして豪遊していた、という噂まであったようですが。それが虚偽である事はわかっております。例えば高額な宝石を買い求めたなら、必ず売却した宝石商が居るはずですもの。調べればわかる事ですわ」
「そうだね。あとの問題は、この借用書のサインが、フローラさんの筆跡と一致するということなんだが……」
それを聞いて動揺するケビン達に、アレクシスは笑みを寄越す。
「それも並べてしまえばわかる事だ」
そう言って、数枚の借用書を並べた。
「筆跡どころか、文字の大きさも幅も、全てがぴったりと合致する。これらは精密な模写だろう。ただ……それは今こうして、横に並べて比較が出来るからこそわかる事だ。何の情報も無く一枚だけ見せられた時に、それを見抜けるかと問われたら、難しいんじゃないかな」
ケビンは頷きながらも、疑問を口にした。
「でも、結局は調べたらわかる事ですよね……?」
「そうだね、調べる力と時間があれば、ね」
アレクシスの言葉に、ケビンは俯いた。こうして借用書を集めて比較できるのは、王太子の権限があればこそだ。それに豪遊の噂とやらが虚偽である事の立証も、アマンダが侯爵令嬢だからこそ調べられた事だろう。
平民であるケビンやチェルシー、当然フローラも、その身分ゆえに、身の潔白の証明が簡単に出来るとは思えない。実際に今日だって、チェルシーは反論もろくに聞いて貰えずに危ない目に遭うところだった。
「誰が、何を目的にこんなことを……? フローラさんを陥れて、得する奴がいるってのか……」
ケビンは憤りを滲ませて呟いた。
「誰の差し金なのか、何が目的なのかは、今まさに調べている。ただ、何に使おうとしたかは、いくつか推測出来る事もある。あくまでも今の段階での話だけどね」
そう前置きした後で、アレクシスはケビンの目を見た。
「例えば……、今日、君は私とアマンダに、最初に礼を述べたね。チェルシーさんを、助けたと」
「チェルシーさん、貴女も、わたくし達の正体に気付いていたのもあるでしょうが、窮地を脱した安堵から、わたくし達への警戒心が無くなっておられましたわね?」
二人の問いに、ケビンとチェルシーは揃って頷いた。
「ではもしも仮に、あの男達が、私達によって予め仕込まれたものだったとしたら、どう思う?」
ケビンは顔を顰めた。
「つまりそんな風に……偽の借用書は、信用させるための自作自演の小道具ってことですか……?」
「先ほど言った通り推測でしかない。だが政治的な理由で聖騎士を囲い込みたい者が居るのは事実だし、その足掛かりに妻の懐柔を考えた者も当然居るだろう。だけど、平民と貴族には大きな隔たりがある。普通に近づいたら、畏れて距離を取られるか、裏が無いかと警戒されるものだろう」
アレクシスの言葉に、アマンダが続ける。
「明らかに自分の字で署名が入った、身に覚えの無い借用書。潔白を証明する手立てが無い弱い立場。そこに現れる、力ある者の助け。……あなた方と同じく、フローラさんも善良な方のようですから、疑う事なく感謝して、信じてしまうのではないかしら」
アレクシスとアマンダの話は、暗に支配階級の関わりを示唆するものだ。
「でも、そんな事があったようには見えませんでした。あたし、毎日フローラさんのところに行ってたから、変な事が起きてたら、気付いたと思うんです。この借用書の事だって、今日初めて知ったし……」
納得いかない様子のチェルシーに、アレクシスは笑みを向けて頷いた。
「企てた者の予定が、途中で変わったのではないかと私は考えている。実際、この偽の借用書は、フローラさんを介さずに、何故か半年前に聖騎士エリオットの元に届けられていた」
「え……?」
呆けるケビンに対して、アレクシスは苦笑いを浮かべた。
「これが作られたのは、およそ九ヵ月ほど前。聖騎士の名声が国中に浸透した頃だね。ところがそのしばらくあとには、街に新しい噂が届いていた。聖騎士の傍に別の女性が寄り添っている、というね」
ケビンは盛大に顔を顰めた。
「……それで、様子を見て予定を変更したと?」
「まぁ、実際は企てた者に聞いてみないとわからない事だけどね」
「目星は付いているんですか……?」
ケビンの問い掛けに、アレクシスは曖昧な笑みを返した。それから、含み笑いと共に辛うじて聞き取れるくらいの小声で囁いた。
「……父でない事を祈っている」
本心なのか皮肉なのか、あるいは悪い冗談なのか、判別が付かず、ケビンは顔を引き攣らせて、何も聞かなかった事にした。
──そもそも平民の下級騎士相手に、そこまで教えねぇよな……。
「それにしても、今日訪ねて幸いでしたわ。小物ですが、手掛かりも捕まえられましたし」
アマンダがどこか楽しそうに笑っている。拷問でもするのだろうか、とケビンは内心思った。
「私達の訪問は、彼らがここ最近になって急にフローラさんを探し始めたのも理由だ」
「先程の殿下の、目的が変わったって話がもしも真実なら、フローラさんにもう用は無いはずですよね?」
ケビンの疑問にアレクシスが神妙な表情で頷き、アマンダが言葉を続けた。
「彼らはここ二三日で騒がしくなりましたの。偽の借用書を作って以降、結局フローラさんには一切接触していなかったのに、急な事ですので、何かあるのだろうと」
「君たちに、何か心当たりはあるだろうか」
ケビンとチェルシーは顔を見合せたが、特別な事は思い当たらない。素直にわからないと答えれば、返ってきたのは柔らかい笑みだ。
「あとは私達で調べを進めるが、安心してくれ、公平を期すが、悪いようにはしない」
それを聞いて、ケビンは顔を上げると再び姿勢を正す。
「殿下、フローラさんの事、よろしく頼みます」
「……君は、王国騎士団の騎士なのに、私を侮ってはいないんだな」
勢いよく頭を下げたケビンに対して、しかしアレクシスはそんな言葉を返した。
「王国騎士団で、私がなんと呼ばれているかは知っているさ。だが、それなのに君は、私に対して今日ずっと真摯だから……」
王族ゆえか言動も相まって実年齢より大人びて見えるアレクシスは、きまりが悪いような表情を浮かべていて、初めて年相応に見えた。