2.別れの朝②
王都の片隅で女神様に祈る日々を送っていた頃、時折届く戦況に纏わる人伝の噂話は、遠く戦地に居るエリオットの無事を知る数少ない手がかりでもありました。
紙は未だ高価で、手紙など平民の稼ぎでは手が届くものではありません。王城の門前に時折掲示される公告は簡潔に戦況を伝えるのみで、風の噂の僅かな情報に縋るしか無かったのです。
それでも、エリオットが聖剣を得て聖騎士になった事も、破竹の勢いで不死魔獣を殲滅しているという武勇も、またたく間に王都に広まりました。
──そして、彼に寄り添うように付き従い、共に活躍する聖女の噂も。
不死魔獣というものは、その名の通り、ただ斬りつけただけでは倒す事が出来ません。
剣に聖水を浴びせかけ、それをもって首を切り落として、ようやく土に還るのだとか。更には一体屠るごとに剣を聖水で清めなければなりません。
手間のかかる討伐ゆえに一進一退を繰り返している中で、エリオットが聖剣を手にしたことで、聖水で清める手間をかけずともアンデッドを倒せるようになったのだそう。
そしてもうひとつ。生身の人間がアンデッドの攻撃で傷を負うと、どんなに小さな傷でもそこから腐敗が広がります。それは激痛を伴い、そのうえ生きたまま腐りゆくという恐ろしい状況に、軽傷でもやがて発狂してしまう者が多いのだとか。
そんなアンデッドに負わされた傷を浄化できるのが、教会に仕える事で加護を得た聖職者や僧侶の方々です。
今回の不死魔獣討伐では、非常に高い浄化の力を持ち、やがて聖女と呼ばれるようになったエミリー様の活躍が、聖騎士となったエリオットの武勇と共に多く語られました。
双方とも大いなる女神の加護を受けた栄誉と、その活躍、そして恐ろしい魔獣を打ち破る大きな希望として、国中の誰もが彼らに注目したのも当然なのかもしれません。
王国を照らす明るい話題は、やがて恐ろしい不死魔獣がもたらす不安を薄れさせるのに一役買ったのでしょう。
そこかしこで語られる噂話は、寄り添い共に戦う彼らの間に育まれる、男女の仲に関する内容が増えてゆきました。
容姿の整った美男美女という事もあり、はじめは羨望と期待を込めて語られたのかもしれません。
そうしてそこには、エリオットの妻であるわたくしの存在が語られる事はありませんでした。
噂は噂であって、人づてに伝わるうち、第三者の願望を込められて歪む事もあるでしょう。わたくしはそう思って、なるべく考えないようにしていました。
『安全な王都でぬくぬくと暮らし、ただ祈る事しかしない妻など、エリオット様にふさわしくない』
──最初に耳にしたそれは、わたくしとエリオットが夫婦である事を知る、誰かの呟きでした。
『聖騎士エリオット様には王都で待つ妻がいるそうじゃあないか』
『ああ、どうせあれだろ? 男が名声を得た途端に名乗り出す、自称の妻』
『そうさね、自称恋人に自称妻、王都じゅう探したら数えるのに両手の指じゃ足りないよ』
街のあちこちで交わされる雑多な噂話の、ほとんどは妻の存在を否定するもの。
実際に、まるで覚えの無い女性が、恋人だと吹聴しているのを見掛けた事もありましたから、街の人々が疑ってしまうのも仕方がなかったのかもしれません。
エリオットが、出征前、あるいはわたくしとの婚姻の前に、実は陰で多くの女性と関係を持っていた、というのは考えられませんでした。
少なくとも以前の彼は、朝早くから日が暮れるまで訓練に励むのを常として、いつだって汗と土埃にまみれておりましたし、物静かで人付き合いもそれほど器用な方ではなかったのです。
そんな彼を愛し支えていた自負が、当時のわたくしにはありました。
だからこそ、聖女様との噂も、信じてはいなかったのです。
風向きが変わったのは、実際に騎士団に所属する方や、その身うちの方々が同様の話をし始めた頃でしょうか。
国に戦況を伝える伝令兵の方々は、定期的に王都に戻ります。そうして任務の報告とは別に、他愛ない会話を王都で暮らす家族とするのでしょう。
そこから漏れ聞こえる話の内容に誰もが注目していました。
過酷な状況であっても寄り添いあい、数々の困難を乗り越えるうち、聖騎士と聖女様の仲は急速に深まっている、と。
それをわたくしの耳に届けたのは、同じく戦地に行った夫の帰りを待つ、騎士の奥様達でした。
はじめこそ不貞だと憤ってわたくしを気遣ってくれた方もおりました。しかし過酷な戦況と、それを打破する聖騎士と、傍で支える聖女という、多くの民にとっての期待と希望の対象だからでしょうか。
彼らも次第に態度を変えてゆきました。
『……同情はするわ。でもね、貴女も弁えた方がいいと思うのよ……』
『ええ、だってあたし達、聖女様のように、何かが出来たわけではないんだもの』
『正しい判断をするべきだわ』
そんな言葉で、暗に身を引く事を勧められる日々。
やがてわたくしの立場を知るものが増えるにつれ、非難の声も増えてゆきました。
『フローラさん、ごめんなさいね、しばらく仕事は休んで欲しいのよ。貴方が悪いんじゃないのよ。ただ、お客様がね……』
針子の仕事は貰えなくなり、行きつけの商店からも、遠回しに来店を控えるよう頼まれて。
わたくしに出来たことといえば、人目を避けて街はずれの無人の教会に通って、祈る事だけでした。
本人の口から直接聞くまでは、なんて、意地を張っていたのかもしれません。
「フローラ、」
エリオットに名を呼ばれ、顔をあげました。
「フローラ、すまない……。エミリーは戦地でずっと俺を支えてくれたんだ。俺はそんな彼女を愛してしまった......」
──そんな話、貴方の口から聞きたくはなかった……。
おかしな話です。今になってそんな事を思うのですから。
怒りも哀しみも、落胆も、全て確かに胸のうちにあるのに、だけど何一つ言葉にならないのは、いつの間にかどこかで諦めていたからでしょうか。
「……わかりました、旦那様」
エリオットを旦那様と呼んだのは、数える程しかありません。
そしてきっと、これが最後となるのでしょう。