15.違和感②
王国の北東部には広大な湿地帯がある。王都の一部として扱われてはいるが、実態は民家も畑も無い手つかずの土地が広がっているだけだ。
その先に北部山脈を水源とするウレリ川がある。
「ウレリ川の沿岸部はこれまでも度々、魔獣が出没していたからな。北部で狩り逃した不死魔獣が流れ着いたとしても、おかしくはない。まぁ、人的被害の無い土地で幸いだった」
隊列の先頭で騎馬に跨る上級騎士のロイドは、視界に広がる湿地帯を眺めて呟くと、小さく息を吐いた。
今は乾季とあって、乾いてひび割れた土が剥き出しの場所も点在している。お陰で馬である程度まで進む事が出来るのは幸いか。
不死魔獣の駆逐に来たとは思えない、場に似つかわしくない豪奢な馬車には国王と宰相が居る。
国王の警護を兼ねる為に、駆り出された兵のほとんどは近衛兵で、王国騎士団からは聖騎士エリオットと補佐役の上級騎士ロイドのみが出向いていた。
国王の鶴の一声で、不死魔獣と戦闘経験の無い近衛兵に、知見を深めさせようという狙いもあるのだという。
宰相に至っては、国内外の来賓客も連れてこようとしていた。流石に人数が増えては万が一の安全の保障が出来かねると、ロイドが必死の抗弁でそれだけは阻止したのだ。
──まったく、見世物ではないんだぞ……。
鬱々とした気分で振り返れば、視界には、およそ戦闘には不向きな、ごてごてと飾り立てられた儀礼用の軍服のまま出陣させられたエリオットが馬上に居る。
「お前も大変だな……」
「報告では一体という話だ。多少汚しても構わないなら、問題無いだろう」
平然とした様子に安堵を覚えながら、ロイドは再び湿地帯の先に目を向けた。
視界の先、川べりの大きな岩の陰に、黒い大きな獣の姿が見える。
形は犬や狼に似ているが一回り大きく、何より異質なのは、額を覆うようにいくつもの眼球がある事と、赤黒い泥のようなものに身体を覆われている事だ。
隊列から離れ先行したロイドとエリオットの気配は察知されていそうなものだが、動こうとする様子は無い。
「不死魔獣の中では小型の部類か。しかし妙だな……」
様子を窺っていると、後方で馬の蹄の音がした。
「ふむ……、陛下もおられるから、万一に備えて周囲も確認させているが、どうやらあれ一体のようだな」
振り返れば、馬上には王都大教会の司教、パウエルが思案顔で佇んでいた。パウエルはかなり高齢だが、馬も乗りこなし老いを感じさせない風格がある。
不死魔獣の駆逐とあって、兵の他に司教を含む聖職者が数名同行しているのだ。
エミリーは未だドレス姿なので、許しを得て国王の馬車に同乗していた。
聖職者の多くは浄化を司るその加護ゆえに、視界の範囲内に不死魔獣が潜んでいるか否かを目視で確認が出来る。
周囲を確認し終えた聖職者たちが、国王の安全の為に念を入れて結界を張っている。
エリオットとロイド、そしてパウエル司教の三人は、音をたてぬよう馬から降りると、国王の乗る馬車が十分に離れている事を確認し、それから少しずつ標的の黒い塊へと距離を詰めていった。
「あれは……まだ……──」
パウエル司教が小声で何事か呟いた矢先、眼球が複数ついた狼のような頭がぐるりとこちらを向いた。それは、歪に牙の生えた大きな口を空けて、地を蹴る。
「来たぞ!」
ロイドが剣を抜き叫ぶのとほぼ同時に、エリオットも地面を蹴って駆け出し、鞘から剣を引き抜いた。
しかし──
「ぐっ……!?」
「エリオット……!?」
聖剣を引き抜いたエリオットは振りかぶろうとしてバランスを大きく崩した。それはロイドがこれまで戦地で見て来た彼の姿とはかけ離れた、違和感のある光景だった。
それでも何とか体勢を整えて、エリオットは、こちらに向かって来る狼のような形をした、その首目掛けて剣を振り下ろす。
ガギンッと、硬い物がぶつかる鈍い音が響いた。
赤黒い狼のような姿の、その首の半ばで剣が止まっていた。
エリオットは眉間に皺を濃くして、歯を食いしばりなんとか聖剣を振り抜いた。それで漸く胴体と頭は切り離され、べしゃりと音を立てて地に落ちた頭が砕ける。
「……こいつは、やはりな。……なりそこないだ」
パウエル司教は遺骸を確認すると、そう呟いた。遺骸は確かに、赤黒い泥のような腐敗した肉が覆っていたが、ところどころ黒い毛に覆われた──恐らくは元の魔獣の身体がそうであったのだろう、犬や狼に似た部位が残っている。
「先ほど、聖剣が光を灯さなかったように見えたのも……それが原因でしょうか……?」
ロイドが小声で尋ねると、パウエルは険しい表情で、わからないと答えるように首を横に振った。
傍らでは、エリオットが荒く肩で息をして、真っ青な顔をして立ち尽くしている。聖剣を握ったまま、だらりと降ろされた腕は震えていた。
ロイドはそんなエリオットを気遣うように視線を投げたが、ふいに息を飲む。
「エリオット、お前……それは……──」
女神を象徴するアイビーのレリーフが刻まれた美しい刀身の、その刃が、毀れて欠けていた。