11.望外の力①
祝勝会を終えて、王城に与えられた一室で、エリオットはぼんやりと聖剣を眺めていた。
戦場で纏っていた淡い光は今は消えているが、繊細なアイビーのレリーフが飾り彫りされた美しい刀身が、月の光を受けて煌めいている。
ちょうど1年ほど前──、討伐作戦の一環で森林地帯に入り、不死魔獣を一体ずつ慎重に討伐していた中で、突如激しい豪雨に見舞われ、エリオットを含む十名ほどの小隊が孤立してしまった。
聖水で清めた剣の加護は、一体倒すと消えてしまう。その場の誰もが成す術を失くした中で、大量の不死魔獣に囲まれて、死を覚悟した。
今際の際に頭に浮かんだのは、王都に居るフローラの顔だったが、その後の記憶は定かではない。
気づけば、不死魔獣の残骸の中に立っていた。そして手には淡く光るこの剣があった。
倒れている仲間に息がある事に安堵して、救助に来た部隊と合流すると、誰もがエリオットの手にするそれを聖剣と呼び、歓喜の声をあげた。
──あの日から、俺の置かれる状況は大きく変わった。
不思議な事に、その剣はエリオット以外の者が手にすると途端にずしりと重くなり、聖水無しでアンデッドを屠る効果も消えてしまう。それこそが聖剣を授かった聖騎士の証と誰もが認め、エリオットは前線で常に先頭に立つようになった。
つい先日まで下級騎士であった自分が、その日を境に上級騎士同然に扱われるようになったが、過酷だった戦況をエリオットが大きく変えた事もあり、感謝される事の方が多く、表立った妬み嫉みや侮りに晒されずに済んだのは幸いだっただろう。
──未だに、何故俺が選ばれたのかはわからないが……。
『お前は、いつだって欠かさず鍛錬に身を置いていたからな、その真摯な行いが、女神様に認められたんじゃないか?』
そう諭してくれたのは、騎士団への入団当初からエリオットをよく気に掛けてくれた上級騎士の一人だ。
──生来からして何事にも不器用な俺が、唯一得意だった剣に夢中だっただけだ。
昔から、鍛錬に熱中するあまり、周りがよく見えていない事も多かった。エリオットは眉間に皺を寄せて溜息をつく。
──そのせいで、気付けなかった事も多い。
苦い感傷を打ち消そうと酒を口にしていると、部屋の扉を叩く音がした。
顔を覗かせたのは数人の上級騎士達だ。
「エリオット副団長、祝勝会お疲れ様です! お休みになる前に報告がありまして!」
部屋に入るなり声を張り上げるのは、この場では一番若いマーカスという名の上級騎士。
彼は王都でも名のある伯爵家の三男で、騎士団ではエリオットの二年後輩だが、剣の才に恵まれた上に貴族家の出自もあって、あっという間に上級騎士となった出世株だ。
叙爵前のエリオットは彼より身分では劣っていたが、聖剣を得たあの日同じ小隊に所属していた為に、エリオットを命の恩人と呼んで慕っていた。
マーカスは、エリオットが座るソファの前までやってくると、日付と細かい数字が羅列された、目録のような書類を数枚ローテーブルに並べた。
「例の件の中間報告書です!」
「……まだ精査されてない、今のところ出てきた情報を羅列しただけのものだ」
マーカスの後ろから、落ち着いた声で補足したのは上級騎士のロイド。
彼は今この場では最年長で、エリオットと同じく準男爵家の出身だが、実力だけで上級騎士に上り詰めた男だ。
エリオットは差し出された書類に目を通すと、表情を歪め、額を手で覆った。
『聖騎士の妻を名乗る女が、夫の名声を利用して、そこかしこで金を借りている』
そんな話が戦地に届いたのは半年ほど前。元妻の性格や気性を思えば、とても信じ難い話だった。
加えてその頃には、身に覚えの無い女性がエリオットの恋人や妻を名乗っているという話も複数聞こえてきていたので、その部類の延長線上であろうと信じて、初めの頃は一蹴していた。
だがそれからひと月も経たぬうちに、エリオットは絶望の淵に追い込まれた。
見覚えのある筆跡で、妻の名が署名された借用書の写しが戦地に届けられたからだ。金額は、それまでの二人の稼ぎではとても返せぬほどに大きかった。
──それほど金に窮する何かがあったのかと、はじめは心配だってしていた……。
だが戦地でその後も耳にする話は、やれ高価な宝石を買った、高級店で毎日飲み食いしている、仕事を辞めて遊び歩いている、果ては間男に貢いでいるというものまであった。
そのような女性ではないと、何度否定しても、繰り返し聞かされるうちに、じわじわと降り積もって心を蝕んでいく。
事実であれば大きな醜聞とあって、騎士団でも一部の耳にしか届いてはいない。しかし疑惑の芽は腹に抱えるうちに徐々に育ち、結局その綻びが引き金となって、妻への信頼が揺らいでしまった。
黙り込むエリオットを気遣うように、ロイドが声を掛けた。
「その目録はあくまでもまだ、王都に居る金貸しの証言を纏めただけのものだ。詐称や、捏造の可能性もある。……冷静にな」
「ですがロイドさん! 少なくとも一件は、署名の筆跡を副団長が確認したんですよね!?」
叫ぶように反論するマーカスを、ロイドは視線で窘めた。
「……まぁ、望外の力は人を狂わせてしまう事もあるだろう。どんなに善良な者であれ、身の丈を超えた名声を得て魔が差す事もな……」
ロイドの言葉に、しかしマーカスは尚も不服と言わんばかりに口を尖らせた。
「そもそもがエリオット副団長と聖女様の功績じゃないですか。何もしてない女が、こんな形で享受していいはずがありません!」
「マーカス……、その辺で止めておけ」
若さと、聖騎士と聖女への敬愛ゆえに視野狭窄に陥りがちな後輩を落ち着かせるために、ロイドはひとまず椅子に座らせた。
後方にもう一人居た上級騎士が進み出て、別の書類をローテーブルに並べる。
「こちらは金の使途を追ったものです。記録が残っていたものだけですが」
彼は名をリチャードといい、近衛騎士を多く排出する侯爵家の次男だ。マーカスとほぼ同期の若手でもある。
差し出された書面は教会への寄付の記録だ。遡れば日付は騎士団の出征直後からあった。
「借金をし始めてからも、細々と寄付は続けていたようですが。何だか逆に小賢しいですよね。離縁に素直に応じたのも、観念したからじゃないですか?」
リチャードは嘲笑を浮かべる。
「国王陛下が副団長との婚姻事実を無効にしてくださいましたから、まぁあとは本人が何とかするでしょう。払えるのかは知りませんが」
「王都から逃げたという話じゃないですか! 大丈夫なんですか!?」
「捨て置けばいいですよ、金貸しどもが追ってくれるでしょう」
全て断定で話を進める若者二人に、ロイドは溜息をついた。
「王太子殿下が、独自に調査してくださるとも聞いている。早計な事は今は口にするな」
諌めたロイドを、リチャードは鼻で笑った。
「あの恥晒しの殿下がですか? あの方もエリオット副団長の粗探しに必死ですよね」
「よせ、不敬だぞ」
この場が王城の一室とあってリチャードは流石に口を噤んだが、気に食わないという顔をしている。
「……不敬と言うならこの女でしょう。僕もマーカスと同意見ですよ。副団長の名声を利用するばかりか、聖女エミリーの功績に泥を塗るなど」
「そうですよ! 聖女様が居なかったら、聖剣だって無かったかもしれないんです!!」
マーカスが同調して再び声を荒らげる。
ずっと黙って聞いていたエリオットは、湧き上がる感情を堪えるように、膝の上に置いた拳を握り締めていた。