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人生奇談  作者: 久我義一
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黄泉路のバス

 これはひょっとすると怪談話かもしれない。ミステリーと取るのもサスペンスと取るのもホラーでも構わない。しかしファンタジーではない。これは果てしなく、現実の境界上にある物語。

 有り触れた人生の袋小路だ。


 ある暑い夏の日の話。

 事の始まりは至って平凡だった。


 ゼミの実地研修の直前。自分、加賀峰笙が使用していた軽自動車がエンストを起こしてしまった。

 ボンネットを開けるも見た感じヒビが入っていてどうにもならない。元々叔父から譲り受けた物なので愛着はそれほど無いが、これほどのオンボロに気づかず乗っていたとは恐ろしい。大事故が起きなかっただけ幸運だったと言えよう。


 これを契機にいっその事、新しい車を買ってみることに決めた。軽に乗っていた半年間の間に貯金も十分貯まったし、そろそろ染みのついたシートも見飽きてきた頃合いだ。

 暑い日はクーラーも効かず、寒い日はエンジンの掛かりの悪さにイライラする。そんな生活ともおさらばするとしよう。


 しかし今度どんな車を買うかはさておき、直面する問題は車を買うまでの足代わりのことだ。

 何故か文化人類学の教授が主催するゼミを取ってしまったばっかりに、休日返上で山奥に行かねばならない事態に陥った。その教授がフィールドワーク専門だったのが運の尽き。

 どれだけ不毛だろうとデスクワークで机上の空論を論じ合っている方が百倍楽だ。大学生としては、けしからぬ意見だろうが。


 遠出の苦労もさることながら、課題自体も酷く面倒なものだった。

 要約すると『昔ながらの製法で工芸品を作って生計を立ててる爺婆にインタビューして、その地に根付く慣習を読み取り、それを他地方の文化や他国の文化と比較し、独自の体系付けを書面上に確立し、それらをまとめたレポートを提出せよ』との事。意味分からん。

 色々と教授に申したてたい事はあったが、友人の千治が意外に楽しそうだったので諦めた。どちらにせよあの偏屈が決めた決定は覆らないだろう。車が故障中だというのに、まったく間の悪い。


 そういう事で俺は次の休日、隣県の村まで行かねばならない。

 ゼミの友人は全員自家用車で行くらしい。俺も乗せていってくれと頼んだが断られた。免許を持っていない奴も相当数いるらしく、定員オーバーに達したとの事。レンタカーという手も考えたが、やはり電車やバスのほうが安上がりだと思い止まる。


 まあそんなわけで、目的の寒村まではバスで行くことにした。




 バス停があるのは寂れた小さな町。既に衰退しきってこれ以上無いほど過疎っているが、村はこれに輪をかけて人がいないのだろう。

 よくもこんな辺境まで来たものだと思う。見渡しても見渡しても娯楽になるものが何も無い。せいぜいあの寂れた建物のパチンコ店ぐらいか。


 他にでかい建物は廃ビルばかり。それも二、三棟しか立っていない。他は更地になっていた。無論過疎が進んだ町に開発計画がある訳もなし。あの土地は建物が建つ事も無く、このままずっと放置され続けるのだろう。


 この町は既に死んでいる。そう考えるとまるで廃ビルが墓標に見える。落ちる影には陽炎がひしめいて、生者をじっと見ているのだ。

 ふと我に返り、馬鹿馬鹿しい考えだと頭を振る。日差しが強いせいか、湯だった頭で意識が遠くなりそうになる。帽子でも被ってくれば良かったかと軽く悔やむ。


 振り向くとそこはボロボロの駅舎。この町に来て最初に降り立った所だ。その下ならば日光を避ける事ぐらいは出来るだろう。しかし同時にそこは軽い密室みたいな所で、行き場の無い熱気が閉じ込められていることを知っている。唯一の頼りが扇風機だけの空間には好んで戻りたくは無かった。

 駅舎に戻るぐらいなら、今こうしてる様に木立の影に入って出来るだけ涼むことを選択する。


 そうして縋る様にして目の前に建つバス停を眺めた。バスが来るまであと十分。そう、十分間も外の熱気に照らされなければならない。


 黙っているとセミの声が耳に入ってくる。暑い。首筋を拭うと袖口が途端に湿った。そろそろ夏本番。夏季休暇も直前だった。


 ――――セミの音が煩い。


 ぼんやり時間を過ごそうとするが一度気になったセミの泣き声がいやに気になる。耳に入る雑音の所為でさらに暑さが増したような気さえする。携帯を見るがまだ三分も経っていなかった。


 ――――ああ、暑い、煩い。


 煩わしさから携帯電話を手に取る。気を紛らわせるために友人と話をしようと思い立った。


『やっ、笙。どうしたんだい?』


 電話に出た声はひたすらに暢気そうだった。この暑さと無縁そうな明るい声が少し恨めしい。


「千治、暑くて煩くてしょうがないよ。何とかしてくれないか」

『うーん、僕に出来る事なら力になるけど。具体的に何をすればいい?』

「そうだな、セミの撲滅かな」

『笙、セミの寿命は一週間なんだよ。その一週間の命を奪うなんて可哀想だよ』


 困ったような声音で言う千治。笙は少し笑ってしまった。容易に泣きそうな顔でこちらに訴える千治の顔が想像できたからだ。


 『セミの寿命が一週間』というのは俗説らしいが、わざわざ指摘するほど野暮な性分はしていない。そうだな、と相槌を打って話題を変える事にした。


「バスを待ってるんだが退屈でな。何か気を紛らわす話題でもくれないか?」

「話題ねえ……。そういえばそこのバス、実は良くない噂があって……」

「……幽霊でも出るのか?」

「いや、あまりの寂れ具合だから廃線が検討されているらしいんだ。小耳に挟んだ情報によると一日に一人の割合らしいよ」


 それは酷い。確かに良くない噂ではある。良くない方向が致命的に間違っている気もするが。


「なら早く来てもいいはずだよなあ、バス。もう時間なんだが……」

『本当?うーん、もしかしたらやる気をなくした運転手さんがスト起こして本日運休かもしれないね』

「嫌な事言うなよ。もしゼミに間に合わなかったら、俺あの頑固爺にどんな宿題出されるか分からんぞ?」

『あー、まあそうなったら……ご愁傷様?』

「こっちにまで迎えにきてくれる優しい配慮は無いのか?」

『え、え~!どうしよう、僕が連れて来てもらった立場だし、車も免許も持ってないし、それに代わりに迎えに言ってって友達に頼むのもおかしいし……』


 もの凄いあたふたしている。そこまで俺の言葉を真に受けなくてもいいと思うが。根が真面目な分、物事を真剣に捉えすぎなのだろう。おかげで凄く気分が紛れている。

 すると、丁度いいタイミングで、陽炎の奥からバスが現れた。


「お、ようやくバスが来たみたいだ。居残りさせられずに済みそうだな」

「ほんとに!?あ~良かった!』


 まるで我が事のように喜ぶ千治。……すごく気恥ずかしい。これが彼の性分なので仕方が無いといえば仕方ないが。


「それじゃ、現地で」

『うん、またね』


 簡単なやり取りを経て、通話を終える。そして目前にバスが停車した。

 停まったバスは白の基本色に赤のライン。高校通学の時に良く利用していたのと同じ型だった。

 ドアの縁にある錆、曇りきったドアのガラス、ステッカーや塗装は所々剥げている。相当年季が入っているらしい。日光を背景にしていて薄暗いため、実態よりさらにボロく見える。


『いらっしゃいませ。整理券をお取りください』


 ドアが開き、ひび割れた音声が響く。向かいの窓から差し込む日光がわずかに視界を眩ませた。


 さて、ようやく目的地へ出発か。


 少々高い足場に乗って、手元近くに出された整理券を取る。そして一歩踏み出し。


 気がついた。


 バスの乗客全員に、じぃっと、見つめられていることに。


「――――えっ?――――」


 ――――誰を?


 …………俺を?


 そう、周りのみんなが――――。


 バスの中には、たくさんの乗客がいた。

 それらの誰もが俺を見つめている。


 髪を染めた若者、中年の女性、初老に差し掛かっただろう夫婦らしき二人、制服を着た中学生、そして運転手まで。


 そしてそのほとんどが、感情の浮かんでいない顔をこっちに向けている。

 セミの音が、――遠く聞こえた。




 こちらを見つめる目、目、目。彼らはただ見つめているだけだ。

 ただそれだけのことが、たまらなく恐ろしい。背筋が凍る、足が竦む。何も悪いことはしていない筈なのに、許しを請いたくなる光景。


「…………あ、いや…………あの…………」


 思わず何か言わなければと思って出た言葉。どもって、哀れなほど萎縮し、まるで意味を成していない呼びかけ。

 言葉が尻すぼみに消えかけた時、ぼそりと一番近くに座っていた老人が何か言葉を発した。


「…………どこまで?……」

「えっ!?」


 ほんとに唐突だった。不覚にも悲鳴に近い叫声をあげてしまった。


「…………どこで、降りるんだい?」


 ほとんど失礼な態度に怒った様子もなく、ただ淡々と聞き返す老人。目深にかぶった帽子に隠れた目は、それでもこちらを向いている。その真意は測れない。


「え、あ…………宮の里、です……」


 ―――――すっ――――……


 返事を境にほぼ全ての乗客が目線を逸らし、唐突に空気が弛緩する。

 その温度差に声こそ出さなかったものの、再び驚く。


 ある者は窓の外、ある者は自分の手元、ある者は目を瞑って空を仰ぐ。老人は顎を上げ、目線を運転手のほうに向けた。まだ見続けているのは入り口近くの席に座る女児ぐらいだ。

 何故かバスの運転手が確認するように頷き、ドアが閉まる。途端に昔見慣れていた光景へと車内が変わったように感じた。先ほどの光景は何かの夢だったのではないかと思えるほどに。


 しかし席が乗客で埋まったバスは更なる疑問を抱かせる。

 千治の言では乗客率が一日に一人ぐらいだったはず。しかし現在バス内には三十人ほどの乗客が乗っている。しかもそれぞれの身分は見た感じバラバラ。共通項無くしてこの人数はありえないと思うが、ならば彼らはどういう関係性を持っているのか。

 そんな思索をしている内に、バスが発車した。


 ――――自分は何か、とんでもない世界に迷い込んでしまったのではないだろうか?


 バスは聞いていた話と、まったく違う様子を見せている。閑古鳥が鳴くどころか、座る所さえない。

 しかも乗車した際、こちらをじっと見つめてくるし。行き先を告げると一転、乗客は興味を無くしたかのように顔を背ける。

 彼らは全員通夜のように押し黙り、車内には響くエンジン音以外の音が無い。


 ――黄泉路へ向かうバスの話を知っているだろうか――?


 もしかして自分は、あの世行きのバスへ乗ってしまったのではなかろうか。

 笑えない冗談だ。状況が状況だけに一層そう思う。


 誰かに状況説明を求めるべきだろうか。しかし話しかけるには、少々第一印象が不気味すぎた。彼らに話しかける気にはなれない

 ならばこの窮屈で息が詰まりそうなバスを三十分近く、ずっと立ちっぱなしで我慢しなければならないのだろうか?そう思って思わずため息が出そうになった時。


 ぽんっと、肩を叩かれた。


 それだけで背筋は凍りつき、息が一瞬詰まる。

 引きつる頬のままに後ろを振り返ると、手の主は先ほどの老人だった。いつの間にか立ち上がっていたらしい。帽子に隠れていた顔が今は晒されていて、相当年季が入った表情が目に映る。


「……君は、何用で――宮の里へ……?」

「えっ、…………だ、大学の、――ゼミで、」


 消え入りそうな声に、辛うじて返事を返す。

 老人は、ほう、そうかそうか、と頷きを返した。


「うん、大学はほんに人生のためになる学問を教えてくれる。くれぐれも勉強を疎かにしてはならんぞ……」

「は、はあ……」


 老人は幾度かうんうんと頷くと再び座り直し、ぶつぶつと独り言をつぶやき続けた後、押し黙ってしまった。もはやこちらに関心を向ける様子は無い。


 ――――訳が分からない。いったいこの老人は何が言いたいんだ?

 また車内を沈黙が支配する。会話があった後なので一層気まずい。


 バスはアスファルト道から徐々に、一面田畑が広がる道へと曲がっていった。舗装されているのかいないのか。土や石がまばらに散らばり、ほぼ荒地に近い道を行く。


 田畑の中には時折農作業をする人達が見えるが、それ以外に人の影は無い。当然のことながら、そのような作業をする人はほぼ中年か老人で、若者の姿など絶無だ。

 当然と言えば当然だろう。今日は休日。こんな田舎と呼べるような辺境に住んでる若者はほとんど街に繰り出しているだろう。手伝いのため農作業に勤しむ若者がいる可能性ならあるだろうが、ここらの道を練り歩く若者などまずいない。


 なのに、何故だろう?


 行く先に見え始めた看板一つのバス停に、ラフな格好の若い人の姿が見えるのは。

 サングラスにオーディオプレイヤー、肩にはでかいケースひとつを担ぎ俯いている。間違っても農作業の休憩中などには見えない。


 同じ大学のゼミ生で彼も村に行くのだろうか、などと思考する。だが記憶を検索しても、こんな人物をうちのゼミ内で見かけたことなど無い。

 それに近くで見てみれば、自分よりも若そうな顔だちをしている。娯楽施設もない村へ行くバスとは不似合いな青年。


 ――――やはり、この満員バスの乗客の関係者だろうか。


 バスが停車し、予想通りというか、その若い人が乗り込んできた。

 整理券を取った後車内を見渡し、座るところが無い事を確認したのか肩を竦めた。

 その間にバスのドアは閉まり、一人の乗客を増やして出発する。


 新たに乗り込んだ青年は辺りを見回した。彼は本来の招かれ人であるためか、笙が乗り込んだ時とは打って変わって乗客の反応は無い。

 しかし彼はそんな無反応が気に入らなかったのか、大仰に両手を広げ良く通る声で話しかけ始めた。


「オイオーイ、なーに暗くなってんだよ。もっと明るくいこーじゃないのー、こんな雰囲気じゃあ気が滅入っちゃうよ?」


 今時の若者という格好に合った明るい声。車内に初めて生きた声が響く。それは明らかに、バスの乗客らの空気とは一線を画す。


 その奮起を促すような声に対する答えは、冷たい静寂だった。

 変わらぬ反応に青年は困った顔をする。


 ちらほらとその青年を見る人はいるが、決して彼とコミュニケーションをとろうとしない。

 まあ、常識的な反応だろう。いきなりそんな呼びかけに元気よく応じる者は普通の人でもほぼいない。


 そもそも彼のテンションに応じれるような人物が車中にいれば、雰囲気があそこまで暗くなっていたことも無かっただろう。余りの痛々しさに背筋が一気に寒くなった。


 ただそれでも、重苦しい空気に圧死寸前だった俺にはありがたい。不気味な薄ら寒さと比べれば、新鮮な空気を久しぶりに吸った気分にもなる。

 と、現実に深呼吸をしたのがまずかったか。


「おや、君も同じ行き先かい?」


 ぐりん、と青年が首だけこちらに向けて、尋ねてきた。

 ――――興味持たれちゃったよ。


 不用意なアクションへの自戒は後に回すとして、笙はしどろもどろに返答した。


「えっ?いや、宮の里までですけど……」

「ん?宮の里?…………宮の里、宮の里――――ああ、なるほど!!君こっちの関係で来た訳じゃないんだね?」

「……?こっちの関係?」


 聞き返すも、若者は一人でうんうん頷いて自己完結をし、詳しいことを話さない。


「なるほどなるほど。そりゃそうだよねぇ~。バスに人が乗るのは常識だよねぇ~、う~ん、…………ん?」


 と、訳の分からない納得の仕方をしていた青年は、こちらの祭儀の視線に気づいたのか、とたんに困惑の表情を浮かべた。


「あ、あ~、……まあ気にすることは無いさ。僕たちはちょっとしたイベントのために集まっただけで、」


 青年の顔から表情が消える。


「――――君には全く全然一欠片も関係が無いからね」


 感情の篭らない声で、これ以上踏み込むことを許さぬ声音で言い切った。


 暗に詮索するなと言っているのは分かった。先ほどまでおちゃらけていた態度の分、その温度差は決定的で寒気さえ覚える。

 笙は背中に嫌な汗を感じながら黙り込んだ。やはりこのバスの関係者。笙の脳裏には搭乗時の乗客の視線が浮かんでいた。

 と、その青年がいきなり表情を歪めた。


「…………ああ、駄目だよ駄目駄目。下がる下がる。そう、もっとホットに、ファンキーに、熱く熱く、リー、リー、リー!!しんみりした空気は大嫌い、ネガティブはノン!テンションが低いと運も低いし喜びも嬉しさも低くなる!!」


 激高したように独り言を叫ぶ青年。頭を激しく振り、文字通り自分を鼓舞している。

 そして、そんな彼の様子にも無関心なバスの乗客。彼を諌める者は誰もいない。

 彼の独演は続く。


「楽しいこと楽しいこと。ヤーヤーヤー!ゲームでもカラオケでもビデオ鑑賞でも朗読会でも楽しいことはみんな好きだよヤーハー!!――――そう、そんなわけで――――もっと楽しいことを話そうよ!!テンションが上がる熱い話題!うん、そう、そうだね。…………とりあえず君の身の上話が聞きたいなあ。うん、楽しそう。と、いう訳でぇ。君が嫌がらない範囲で教えてくんない!?」

「…………は?」


 いつの間にか独白を会話に変え、矛先をこちらに向ける青年。


「……はあ、あの、残念ですが、身の上話と呼べるような話は持ち合わせていないので――――」

「ああ、いやいや。そんな堅苦しい人生録みたいな話じゃなくていいからさあ。こう~、なんつーの?そう、趣味とか、そんな話題でいいんだよ。一つ二つあるでしょ?目的地に付くまでの暇つぶしだと思ってさ」


 ぺらぺらと喋り捲る青年に圧倒され、充分に口を挟む暇が無かった。強引に話を持っていき、勝手に会話を強要する図々しさは怒りを通り越して呆れを齎す。


「いえ、確かに趣味はありますけど、話すような面白い話題でもないので……」

「え~?面白いって、ぜって~。囲碁でも将棋でもパソでも動画でも読書でも何でもさあ、話題広がるよ、絶対?」

「はあ、いえ。本当に、人に話せるような話題ではなくて」


 若干強めに発言した。そう、趣味に関してはある種の不文律で、あまり口外しないことにしている。別に守らなくてもいい決まりごとだが、普段ちゃらんぽらんに生きている分、このぐらいの自己に枷た規則ぐらいは守りたい。

 この言葉でさらに深く追求されるかな、と思ったが、その言葉ですんなり彼は引き下がった。


「うーん、そっか。まあ、あえて人に話したくも無い話があるしね。そりゃ仕方ない。うん。俺も趣味のギターでは話せない失敗談が沢山あるしさ。そう、ギター、ギターなんだよコレ。いいだろ?お年玉全部使ってゲットしたんだぜ?触ってみたい?弾いてみたい?ダメーーッ!!」


 オーバーリアクションでバッテンを作る青年。この人ほんとは何歳だ?

 しかしここまで傍若無人に振舞われても腹が立たない。彼の振る舞いは一見他人の心に土足で強盗に押し入るようなものだが、その実、取るべき距離は取っている。

 答えるのが嫌だといえばあっさり引き下がるし、こちらが忌避するような話題は避けて話す。どうやらそれらは計算的なものではなく、無意識に行っているらしい。生来の性格ゆえか、放つ雰囲気も騒々しいというより賑やかな人という印象が強かった。


 要するに、それは彼の人徳なのだろう。計算された態度では無い、明るい態度を自然に振舞える生来の本質。よくグループの中心にいるようなタイプだ。そういう人間の周りは、いつも賑わっている。


 ――――少し、違和感を感じた。

 今日は休日。若者なら、親しい友人とどこかへ連れ立って遊びに行きそうなもの。その中心人物のような人間が、こんな辺境で一人バスに乗っているという不思議。

 そして、そんな人間が時折見せる不安定な精神。


 俺は頭に浮かんだ疑問をそのまま、気軽ささえ感じさせる口調で言い放った。


「ところで。まだ学生みたいですけど、今日は一人で?学校の友達とかは――――」


 言葉が途中で止まる。

 青年の態度が、自分の口を閉じさせた。


「――――――へ?………………学校?…………。学校……学校…………ああ!学校、あ、あは、あははははははは!学校、そうか!学校生活か!あは、はははは……は…………は……………………」


 見るからに挙動不審な動作と言動。青ざめた顔から放たれる言葉は笑い声が混じるも動揺を隠しきれない。何かを誤魔化すかのように笑い続けた。

 だがそれもぴたりと止まり一転、不気味な沈黙へと変わる。


「…………え?……あの……?」

「………………違うんだ…………。違うんだ…………」


 ポツリポツリと、さっきとは打って変わって低い声で呟き続ける青年。

 陽が落ちるように、変化は劇的だった。


「違う、違う、違う…………。この前はちょっと気分が悪かっただけでそんな事言うつもりなんて無くてただ相手にするのが億劫で面倒で今は違うんだだから大丈夫だよなのになのに違うやめてくれそんな他人を見る目でこっちを見るな友達だろやめろやめろ違うんだ違うんだやめろ違うやめろ違うやmtgやうだjdやf亜slがだあああああああああああああ!!」


 大声をあげられた瞬間、自分は殴りかかられると思った。それぐらい気迫の篭った、渾身の雄叫びだった。さすがにバスの乗客も全員、例外なく彼に注目する。


 だが彼は予想に反し、縮こまっただけだった。

 胎児のように体を丸め、周りの外界すべてに怯えるように体を震わせている。


「………ちが…………だ……や……………………………」

「――――――」


 訳が分からない。一体どういう事だ?さっきまでハイテンションの塊だったような人間が、急に対人恐怖症が発症した様になっている。


 俺がすっかり困惑していると、バス内の人間の一人、体格のいい中年男性がこちらに寄って来た。


「大丈夫か、どうしたんだ?」


 彼はこちらに来るなり体を屈め、縮こまった青年と同じ目線で彼を見据える。


「…………そうか…………そういえば、そうだったな……」


 彼は何を知ったかそう呟き、すくっと立ち上がった。


「少し、こちらで休もうか」


 そう呼びかけ、青年に肩を貸した中年男性は彼を後部座席へと送った。

 連れられて行った彼は落ち着きを取り戻したのか気絶したのか、ぐったりして成すがままになっている。取り合えず錯乱からは立ち戻ったみたいだ。


 その連れられて行く様子を見送る。気づくとバスの乗客は視線を既に戻していた。ただ一人を除いて。


「あまり気にしないでいいわ」


 ふと、隣から落ち着きのある声をかけられる。

 声の主は隣にある席から。小学生ほどの女児を連れた女性。

 落ち着いた雰囲気で、声をかけてきた分ほかの乗客とは違うが、現実離れたしたような雰囲気は同じだった。見た感じからして隣の席に座る少女の母親だろう。少女の方は興味心身でこちらを見ている。


「彼にはちょっとした事情があるの。気にしないであげて。あなたに咎はないし、彼もあなたを恨んだりはしないわ。そういうものだから」

「は、はあ……」


 その人の言っている事は全くもってチンプンカンプンだったが、向こうで介抱されている青年に深刻な様子はないようだ。今は茫然自失の状態に見えるが、先ほどよりはとても様子がいい。

 ちらりと見た感じ薬を飲んでいたようだが、何かの病気持ちなのだろう。恐らくは精神的な……。


 どちらにせよこの女性の言うとおり、こちらにほとんど責はない。下手に謝りはせず、復帰すれば気軽に挨拶すればいいだろう。本当に病気なら、謝るのはむしろ失礼だ。

 走行するバスは畦道を抜け林に入る。ここから本格的に山入りするのだ。目的地の寒村は近い。


 先ほどの青年の事もあり居心地の悪さが増していた。こうなると早く目的地に着くことを願うばかりだが、焦る分だけ時間が遅く感じる。


「…………おか~さん、暇だよぅ」


 そんな時、そう言い出したのは、先ほどの女性に連れられた少女だった。言葉通り、思いっきり不満を顔に出して所在無さげに足をぷらぷらさせている。


「もう少しの辛抱よ。ちょっとの間だから、我慢してね」


 眉尻を下げ、困った風に諭す女性。少女もあまり自己主張する方ではないのか、顔の不満をそのままに黙ったまま足をぷらぷらさせ続けている。

 母親の方もそれには申し訳なく思っているらしく、飴玉をバックから数個取り出して少女の方に、「どれ食べる?」と勧めている。


「…………ん、こっち…………」


 少々無愛想に迷っていたが、美味しい飴の誘惑は耐えがたかったらしい。差し出された飴を受け取り、包み紙を取って口に放る。

 無表情だった顔が、しばらく舐めている内、自然と綻んでいく少女。それを横からほっとした表情で眺めている母親。見ていて微笑ましくなる光景だ。


「――あなたも、いかがかしら」


 その母親がそんな事を、こちらに振り向きながらが言った。


「…………いえ…………」


 少々油断しすぎていたようだ。何とはなしに二人を眺めていた自分。こちらに話題を振られるのは予想してしかるべきだった。

 そんな風にちょっと狼狽していると、少女までもがこちらに注目しだした。


 ――――そんな興味心身な目でこちらを見るのはやめてほしい。


「…………いる?」


 娘さんにまで勧められてしまった。まあ、そんな無垢な瞳で勧められては断れない。


「……いただきます」


 と、母親の差し出していた飴玉を受け取った。にっこりと笑う母親と少女。なんか知らないが、負けた気分。


 先ほどまであった殺伐とした雰囲気が嘘のようだった。

 訳の分からない満員の乗客によるプレッシャー。謎の爺さんによる謎の言葉。急に豹変した青年のギャップ。不可解な出来事の連続に緊張していた神経も、ここに来てすっかり弛緩した様だった。


 しばらく飴をなめ続けて大人しくしていた少女だったが、元来落ち着けない性格なのだろう。急にきょろきょろしだした。


「……ん~?これなーに?」


 と、人見知りする風でもなく、好奇心を示した少女の対象は、鞄からぶら下がった一つのストラップだった。緑色をしたアザラシのような物体。


「ん?ペットボトルに付いていたおまけだ」

「ほ~、ふ~ん」


 などと呟き、窓側の席から懸命に体を伸ばしてストラップを触ってくる。言葉少なだが、異様に関心を示している。


「あ、こら。す、すいません」


 母親が慌てて少女を嗜める。


「いえ、いいですよ。……なんだったら、あげようか?」

「え?いいの?…………でも…………」


 と、教育が行き届いているのか矜持の問題か、難色を示す少女。だがその手がストラップを離さない事から、すっかりこのアザラシが気に入ってしまった様子だ。


「いいよいいよ。どうせおまけで貰った物だし。似たようなものは他にもある」

「本当に、いいんですか?」


 と聞いてきたのは母親の方。少女の方はすっかり貰う気で、目を輝かせている。


「いいですよいいですよ。飴のお礼だと思ってください」


 と言いながらストラップを外し、少女に手渡す。

 少女は喜色満面の笑みでそれを受け取り、席に戻ってそれを掲げている。


「……どうも、すみません。ほら、千尋。このお兄さんにお礼を言いなさい」


 千尋と呼ばれた少女は笑みのままこちらに振り向き、「ありがとうございます」、と礼儀正しくお礼を言った。


「良かったわね、千尋」

「うん」


 と返事をする少女は、ストラップにもう夢中になっている。

 母親の方は自分の娘の頭を撫で、ふと、表情に翳りを見せた。


「?」


 何故?と心中で疑問符を作る俺に対し、その母親は改めてこちらに向き直った。


「本当に、重ね重ね礼を言いますが、ありがとうございます」

「い、いえ。そんな大した事はしていませんから」


 そんな風に改めて礼を言われれば、こちらが恐縮してしまう。ただでさえ自分は、他者から礼を言われるのに慣れていないのに。

 その時、すっと、女性の顔つきが真面目なものになった。


「……もし、よろしければ………………」

「……え?」


 女性の口が開いたまま止まった。時間にして数秒。

 閉じたと同時、ゆっくりと娘のほうへ首を向ける。

 少女の方は、怪訝に母の方を見ていた。首を傾げ、キョトンとした顔で見つめ返している。

 ふっと母親の顔が柔らかくなり、こちらに顔を向けなおした。


「……いえ、何でもありません。……宮の里へ行くのでしたね?」

「え、えぇ」

「あそこはバス停が崖の近くでもあります。どうぞ、お気をつけて下さいね」

「……はい」


 ――――結局、彼女が最後に何を言おうとしていたのか聞きそびれた。また彼女はそれ以降、接してくるような素振りを見せなかった。


 バスは次第に、急な勾配の多い山間へと差し掛かる。少々揺れバランスも悪く、曲がりくねった道も多い。車酔いしないか心配だ。


 そんな中、……実にバランス良く、のしのしと歩いてくる人が一人。

 先ほどの青年を介抱していた男性だ。体格にマッチした優れたバランス感覚で、こちらへと近づいてくる。


「先ほどの彼は眠ったようだ。放心状態も脱したようだし、もう大丈夫だろう」


 彼はそう逞しい声で宣言した。なんというか、明らかに体育会系だなあ。


「君は、彼の知り合いかい?」


 そう聞いてきたので素直に応える。


「いえ、今日このバス内で初めて出会ったばかりです」

「ほう?そうかそうか。一期一会、縁というものは大事だ。出会った中で友が出来るというのは良いことだし、その縁を大切にする事もまた然り。……と、私が言えた事ではないし、言うような状況でもないな…………」


 照れくさそう、というより、なんだか申し訳なさそうに頭を掻く男性。俺は軽く、「はあ」、とだけ返事をした。


「君は宮の里へ行くんだったね?どうしてあんな寒村へ?」


 と、先ほどの老人と同じ事を聞かれた。男性の表情は既に変わり、今は友好的な笑みを浮かべている。


「ええ、大学のゼミで、住んでいる人達へインタビューをしに行くんです」

「ほう。学科は?」

「文系、人間科学科です」

「ふむふむ、よう分からんが、なんか難しそうだなぁ」


 ひょうきんな顔をして頷き続ける男性。なんとなくユーモラスな人だ。


「俺は、大学は体育科の出だったからな。勉強なんかさっぱりだった」


 印象どおりの人だ。見れば分かる、と言っても過言ではない。

 礼儀として、こちらも質問し返した方がいいだろう。


「――――、そちらは、どうしてこのバスに?」

「うん?」


 青年の件があるから明確な答えは期待していなかった。ただこの人なら、何らかの形で応えてくれると思った。先ほどの青年のように錯乱する事もなさそうだし。

 予想通り、少しの間言葉を選んだ素振りを見せ、明確な一言を答えた。


「そうさなあ。一言で言うと、償いに、だ」

「償い?」

「おっと、ここから先は言えんよ。まあ何だ。後で分かるようなことだ。その時になるまでお楽しみ、って事でな」


 男性は明朗快活に笑った。


「?はあ……」


 後で分かる?この先の寒村と、何か関わり合いがあるのだろうか?楽しみにするには、償いという言葉は少々不穏だ。

 だがこの質問を繰り返しても、彼は何も答えそうには無かった。それに、もう目的地は目と鼻の先だ。


『次。宮の里、宮の里です』


 繰り返されるアナウンス。正面を見てみれば、坂を上り切った所にぽつんと置かれたバス停の標識。

 着いたのだ。ようやく、ゼミの課題地へ。


 これから課題を行うのだ。バスなど交通手段でしかないが、彼はまるでバスに乗ることこそが主目的の様に感じ、早くも疲弊していた。

 バス内のボタンを押し、降車を知らせる。


「おっと、目的地に着いたのか。ここでお別れだな。暇つぶしに付き合ってくれて、ありがとう」

「あ、いえ。そんなことは」


 返事に、にっこりと男性が笑う。

 そして、バスが止まった。


 手を振ってくる先ほどの女性と娘、男性に手を振り返し降車口まで向かう。

 途中、最初に会った老人の席を過ぎ去った。彼はじっとこちらを見つめ、ゆっくりと会釈をした。


 ――――今のは、別れの挨拶だろうか?

 運転席へとたどり着き、料金口に整理券とお金を投入する。




 これで、お終い。


 不気味だった、このバスともお別れだ。

 タラップを降り、久しぶりの地面に降りる。


 軽く周囲を見渡すが、駅前と同じで日差しが強くセミがうるさい。開けた場所で、道路の行き先に林は無く、青々と茂った山々が連なっているのが見える。この先がカーブになっているのだろう。


 その見渡すついでに、今まで乗っていたバスへと振り返った。

 まだドアは開いており、その先に運転手が見える。

 彼はそっと、帽子を脱いでお辞儀をした。


 は?と疑問に思うと同時、ドアが閉まり再びバスは発車する。


 何の深い意味も無い。ただでさえ不可解なバスだった。最後の最後まで不可解なのは当たり前だ。

 ――――ただ、予感はある。このままで終わるはずが無いだろう、と。ここまで自分を翻弄し続けたバスだ。


 不可解は、続いている。


 じっとバスを見送る視線の先、後部座席に、先ほどの青年の姿が見えた。眠りから覚めたみたいだ。

 彼は弱々しく手を振って、自分へさよならの挨拶を送っている。

 最初に出会ったときのハイテンションが嘘のように。

 バスはどんどん加速して、彼の姿もやがて小さくなっていき、


 ふと、なくなった。

 青年の姿が?

 そう。

 何で?

 当たり前だろう。


 バスが崖の奥へ消えたんだから、彼の姿も消えるに決まっている。



「…………う、……え…………?」


 そして破壊音。

 ひしゃげる様な音が断続的に響き、一際大きな音を立てて止まる。


 一瞬の硬直後、我に返る。そして急いで駆けた。バスが落ちていった崖へと。もはや自分が駆ける意味は無いけど、だけど、そうしなくてはいけない気がした。


 やがてたどり着く。そこはガードレールだけで守られた、急カーブの絶壁近く。


 壁面には木々などなく、生えているのは僅かばかりの草ばかり。落ちていったバスを途中で受け止めるだけの力など無く、バスは、重力に従い、落ちていった。


 下には惨劇が広がっている。

 ひしゃげた車体。

 原形を留めぬ、壊れたスクラップ。

 その正体を知らぬ方がいい、赤い染み。

 それを前にして、ただ自分は意味もなく呆けていた。あれは確かに、黄泉路のバスだったと思いながら。




 当日のゼミは結局中止になった。

 携帯で呼び出した警察は意外に早く辿り着き、レスキュー隊が出動する騒ぎとなった。


 俺はすぐに、警察の事情聴取のため、パトカーで市内に逆戻り。

 携帯で千治に連絡を取ったところ、村の方でも情報が伝わっていて、大きな騒ぎになっているとの事だった。警察はもちろんのことカメラマンやレポーターが押し寄せ、課題どころではなかったそうな。


 事件の結果、バスの乗客全員・30名余りが死亡。高所から落ちた衝撃で、彼らはほぼ即死だったらしい。


 事故原因調査の結果はまだ出ていないが、少なくともバスの整備不良とかはないそうだ。聞き込みによると当日、運転手の調子が悪いということも無く、また天気も快晴のため主立った推測は初期に軒並み排除。


 残った予想は『運転手の目が逆光で眩んだ』、『車内で乗客による何らかのトラブルが起き運転を誤った』、『単なる不注意』など、何の面白みも無い推理がワイドショーの専門家たちによって語られた。警察の方はまだ進展が無いと表明している。


「…………とまあ、これらがテレビで報道されている一部始終だね。事情聴取はどうだった、笙?」

「事故……、俺が降りる直前の車内の様子とか聞かれたな。当たり障り無く答えるしかなかったけど」


 事故から二日後。笙の姿は大学のゼミ室にあった。

 今この部屋には笙と千治の二人だけ。クーラーの効いた室内で両者はパソコンに向かい作業をしていた。


「大変だったね。目の前であんな大惨事が起きて」

「……まーなー。今回はちょっとショックが大きい。……少しばかり話した人が死んだのがここまでくるとは思わなかった」

「…………やめるかい?」


 千治が聞いたのは今している作業のことだ。ゼミの課題などではない。

 千治はあるホームページのログを探していた。既に本物は警察によって閉鎖されているが、ログだけは有志が保存したものがある。笙はそれを探していた。

 他でもない、事件の真相を自ら知るために。


「……ログもいつまで残っている分からない。さっさと見つけよう」


 笙の先を促す返答に千治は振り返った。


「……もう見つけたよ。これだ」


 見つけたページは『黒い集い』。国内に数多ある自殺サイトの内のひとつだ。

 そこには数多の自殺志願者たちの思いの丈が綴られていた。


 たとえば、会社が倒産し全てを失った老人。

 たとえば、躁鬱病を発症し、三回の治療と再発を繰り返し、疲れ切ってしまった青年。

 たとえば、夫が死去し、女手一つで子供を育てる気力も無くなってしまった婦人。

 たとえば、友人を誤って殺してしまい、自首する勇気もなく、当て所もなく彷徨っていた精悍な男性。

 たとえば、廃線に伴いリストラされ、生甲斐だった運転手を辞めさせられ絶望してしまった初老。


 もうお分かりだろう。

 バス転落は事故ではなく、集団自殺だった。


 連絡を密に取り合い互いの特徴を知るまでに親しくなった集団自殺サイトの。故に彼らの中に俺というイレギュラーが混ざったのはとても奇異だったのだろう。全員こちらを見つめるほどに。


「発案者はバスの運転手。最期ぐらい寂れた路線に満員の乗客を乗せたかったのかな。それが止めとなって廃線を前倒ししちゃったのは皮肉と言ったらいいのか……」

「覚悟してたろうさ。どのみち彼はバスに乗れなくなる。運転手という仕事が彼にとって命に代わるものならば、死ぬのは早いか遅いかの問題だ」


 想像してみて欲しい。

 生涯仕事一筋で、他の生き方を知らない男がある日突然、解雇通告を受け取る。採算の取れない路線をいつまでも保持していく訳にはいかず、しかも最近はすっかり衰退したバス事業。一本バスを無くす事により、人員も削減しようと言う訳だ。子供の頃からの憧れで、その夢が叶った後でも運転手一本。趣味も副業も妻も作らず、文字通り人生であった運転手を辞めさせられた男に、この先の生は無意味に等しかった。ただ、自殺しようにも、この世に未練は多すぎた。せめて、そうせめて、最期は辺境の路線に追いやられ寂れてしまったこのバスに、乗客を沢山乗せて死出の旅に行きたいと願う。

 こう思うのは狂った思想だろうか?


「僕には分からないな」

「俺にも分からん。自殺したいと思ったことがないからな」


 千治がログを凝視し、ポツリともらした。


「笙、彼らは本当に死ぬべきだったのかな」

「……さあな」


 あのバスで会話した人たちの生い立ちはログと重ねあうことで知る事ができた。恐らく合っているだろう。


 何もかも失った老人。社長を任じていた経験則か勉学の大切さを説いていた。何もかも失ったとしても、過去だけで生きていけただろうに。


 テンションの落差が激しい青年。躁鬱病というハンデから人間関係を上手く構築することが出来なかった。ギターは関係構築の取っ掛かりとして努力し学んだスキルだろうに、結局自ら水泡に帰してしまった。


 飴をくれた親子連れ。あの時言いよどんだのは――――推測するのはよそう、今となっては毒としかならない。子を生かせたい心中は気力の代わりとはならなかったのか……。


 体格のいい男性。後のお楽しみといっていたが、説明責任も果たさず逝ってしまった。死は逃避に過ぎないという結論は彼に出せなかったようだ。


 ――最期に敬礼した運転手。結局、本当の乗客は俺一人だった。彼は気づいていただろうか。バスとは目的地へ行く手段であり、目的を果たす手段ではない。バスと共に朽ちる彼らは結局、大勢の車掌に他ならなかった。


 ――――まあ、俺も課題をこなすという目的は果たせなかったわけだけど。



 最後のプリントアウトが終わり、排出された紙を受け取る。

 そこには『黒の集い』のログを編纂した文章が書かれていた。

 丁寧にバインダーに閉じ、その背に『バス』とだけ書いた。こうしてまたひとつ、自室にコレクションが増えることになる。


「……笙、これを続けるのは辛くない?」


 千治が遠慮がちに声をかける。これというのが何をしているのかはすぐ分かる。


「関わらない人でも、これだけ多くの人の終わりを知るのは辛いと」

「千治。これは俺の唯一の趣味だ」


 あの青年にはっきり言うことができなかった俺の趣味。それが、


「人生の蒐集。逆なんだよ千治。俺は人の終わりにしか興味が持てない」


 ……いつからそうなのかは分からないが、笙はゲーム、読書、スポーツ、ファッション、いろいろな娯楽に興味を示すことができず、ただ人の人生にしか興味を抱くことができない性質だった。

 ゆえに、彼は様々な人の終わりを蒐集している。どのような人生を送り、どのような結末を迎えたのか。彼の部屋にはその『人生奇談』が数多収められている。


 ただ今回の様な、人の終わりに自分が関わる事態は特殊ケースだった。先ほどまで会話していた人が死ぬというのは、並々ならぬ衝撃を笙に与えた。正直、辛いといえなくもない。しかし、


「俺は楽しいと思った。見知った人間が死んでもこんな感情を抱ける俺は人でなしさ。千治もいつ抜けてもいい。こんな俺個人の娯楽にいつまでも付き合っていても、良い事はないぞ」


 笙はあくまで諭すように千治に語りかける。趣味を知ってなお付き合ってくれる得がたい友人だからこそ、彼を振り回してまで蒐集の協力はさせたくなかった。


「……人でなしだとは思わないよ。笙は興味の向く先がちょっと人と違うだけさ」


 千治の笑いながら返答した。


「笙は大事な友達だし、いけるところまでは付き合うよ」

「……物好きだよなあ、お前」


 笙はバインダーを脇に抱える。彼に手伝ってもらった人生蒐集は既に十以上。そしてこれからもその数は増えそうだ。


「じゃあ、まだ当分付き合ってもらうか」


 背伸びをし、固まった体をほぐす。

 本日の人生蒐集は、これにて終了した。


「帰りにどこか寄るか?大したもんでないなら奢るぜ」

「あ、そういえば」


 ぽんと千治は手を叩いた。


「実地が中止になったから代わりの課題が出されるんだって。先輩が過去に提出した課題レポートの効率編纂。レポート最低十枚だって」


 嫌な単語の羅列が聞こえた気がした。


「……ナニソレ」

「要するに複数のレポートを一つにまとめろってさ」


 課題は中止で終わらなかったらしい。時間を無駄に潰す面倒臭さに、笙はため息をついた。


「辛いね全く」

「自殺しないでよ?」


 冗談めかして千治が笑う。


「しねーよ」


 笙はパソコンを振り返り、未だ画面に映っているログをみる。


「まだ楽しいことが残っているなら、自殺なんてするもんじゃないよな」


 マウスを操作しパソコンの電源を落とす。

 画面に残っていたログは跡形もなく消え、真っ黒に塗りつぶされた。



 ところで、もし俺の降りる場所が宮の里より先立ったとしたら。

 運転手は乗車拒否しただろうか。それとも自殺自体を思いとどまっていただろうか。

 ――――もしくは、死体がひとつ増えていただろうか。


 その可能性は否めない。

 決して――――。

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