表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
毛利勅子の生涯(完結編)  作者: 木楽名優芽
1/1

女児学校創設

すっかり意気消沈していた勅子のもとに、それを覆す目出度いニュースが飛び込んできた。

宣次郎に男の子が誕生したのだ。最初はそれがどうしたという程度のものだったが時世は戦時下、宣次郎は脂の乗った男盛りの二十八歳、だが昼夜問わず出動の要請があり宣次郎の縁談は延び延びになって未だ正室はなく、だからといって女性環境に不自由はなく、かみじ、文路、秋路と宣次郎に衷心を捧げる女性は数多いてそのうちの秋路が十九日、男子を出産したのだ。宣次郎は居館の敷地内の長屋の一角に住んでいて、出産は信頼の置ける家臣・桜井愼右衛門の家を借りて行われた。秋路は出産後居館に戻され、生まれた子は宣次郎の子として認められた。だが生母の秋路の身分があまりにも低く、正式に秋路を母と見なすことははばかれ、子は元美の養子とし、その結果勅子が母親となったのである。

この年にして母親とは、始め勅子は面食らったがこの降って湧いたような慶事に欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した。

その子の名は興丸(おきまる)と命名されたが、生涯名に栄誉とされる英の字を冠することが約束され、またの名を英之輔といった。何事においても動じない勅子ではあったが、赤子の親ということになるとちょっと勝手が違う。しかし興丸は血縁がなくても育てなくなるほど色白の珠のような子であった。勅子は早速興丸に二人の乳母を付けた。乳母たちは自分の子より大切にした。産母の秋路も勅子が母親になったことを、まるで我が子が生まれながらにして手柄でも立てたかのように誇りにした。勅子が秋路から興丸を渡された時、恐る恐る手にした興丸は両手にすっぽり埋まり込むほどに小さくて、そのむっちりとした手足に一つとして欠けることなく指が揃っていることに感動し、そのどこが動いても不思議な生き物を見ているようで何時まで眺めていても飽きなかった。勅子が抱くと興丸は見えない円らな瞳で勅子を正視する。その眼は体中で勅子を信頼している証しの目であった。興丸の動きはまだぎこちなくそれがまた滑稽で、この世のものとは思えない宝物を授かったようであった。あくびをしても笑えたし、おしっこを飛ばして勅子の着物を汚しても以前の勅子と同じ人かと思える程寛容だった。それだけに興丸もその愛に答え、勅子が少しでも傍を離れると勅子を目で追い、それはこの世でたった一人頼れて信じられる人を探し求めているようで、それが勅子にはたまらなく愛おしかった。

勅子はそんな興丸を誰彼なく見せたくてどこへ行くにも興丸を連れて行った。

とうとうまだ頭も座らない興丸を父に見せるため徳山に連れて行くことにした。この訪問は越後の死で悲嘆に暮れる父を多いに元気づけ喜ばせた。勅子は興丸を実の親以上に慈しみ育てた。実際宣次郎は相変わらず保守か急進かで紛糾する藩の保守側の鎮撫隊に属していて、その先鋒隊の惣奉行として東奔西走すれば親の務めを果たすどころではなかった。百日の祝宴も父親不在は避けようがなく、だが父親抜きでも元美夫妻は決して手を抜くことなく盛大に催行した。お手柄の実母の秋路も末席ではあるが宴席に付かせた。儀式に落ち度はなく滞りなく済ませたが、生後間のない子を立て続けに外出させて連れ回したり大勢の人の集まる行事の主役を務めさせたりしたのは重荷だったか、興丸は百日の祝いが済むと熱を出しぐったりとしてしまった。子育てに経験のない勅子は年甲斐もなく慌てふためいた。すぐさま厚狭毛利のかかりつけ医である長谷川玄道に使いをやった。玄道は体調を崩し遠出は控えていたが無理をして興丸の診察に出向いた。だが興丸の回復は手間取り、玄道は病の身であり、興丸の容体が上向いたのを機に再度の病気に備え勅子は興丸を連れ萩の家臣の村田の家を改造させそこへ一時的に住むことにした。いちいち萩を往復していては、道中はならず者が潜んでいていつ襲われるとも解らない物騒なご時世だ。萩への通院は遠過ぎた。

その甲斐あって興丸はすくすく育ち、愛情を注げば注いだだけそれに応えた。勅子にも産みの母以上に懐いた。実の父親である宣次郎にもどことなく父親としての風格が備わっていった。


勅子が興丸の養育に没頭している間に、世の中は大きく動いて大政奉還されていた。幕府は政権を朝廷に返し、武士は武士でなくなったのだ。時代は明治へと移り厚狭毛利は禄を失った。しかし勅子とてこれまでの政権の在り様が良かったとは決して思っていない。だから政権が朝廷に返ればこれからは万民の生活が向上することを信じ、それで自分達が多少の犠牲を払うのはやむを得ないと受け入れた。

身分剥奪も一時の辛抱であって、いずれ能力さえあれば取り戻せると思った。新しい時代はそういう期待を予感させる雰囲気に満ちていた。何もかもが変わろうとしていた。文武両道が尊ばれた時代も終わり、世は武力でなく学問に優れた人材を必要とするようになっていた。これも新しい時代を軌道に乗せるには必然で、とにかく西洋を追い越すには先進国に優る能力を有することが先決だった。外国勢は必ずしも戦いを好みはしない。理屈が通れば納得する相手である。知力には知力を持って生まれたばかりの新政府を助け、新国家確立のための協力は惜しまない、世はそういう気運に満ちていた。

折しもそんな中元美に秀才の誉れ高い旧藩士・渡辺安雅の長男・親忠(ちかただ)の噂が耳に入る。厚狭毛利の旧家臣にも逸材の若者と評判を博している二十四歳の岩本勝之助がいるにはいたが、既に彼は岩本家の養子として養成所に学びそこで大躍進をとげ将来を約束されていた。しかし親忠の方は秀才と目されながら支援する者が誰も現れない。そうそう優秀な人材がいるわけではないというのに、このまま支援する者が現れなければ親忠の才能は埋もれてしまう。厚狭毛利も彼を支援できるほどの財力はない。武士の身分を剥奪されてこれまでのような禄はなくなり、自分達の生計もこれからどうすればいいのか先は不透明だというのに、他人の若者を支援している場合ではない。親忠の支援など夢のまた夢であった。元美と勅子はそれがやりきれない。みすみす能力のある人材を埋もれさせてしまうのを切歯扼腕(せっしやくわん)して悔しがった。

だがその時ふと勅子に名案が浮かんだ。弟の藩主・元徳のコネで朝廷から金を出させる一計だ。元美も親忠の支援には乗り気であった。父親が手掛けたものの廃止となっていた教育の場である朝陽館を領地の厚狭に再興した人であり、教育の重要性は早くから提唱していた人である。その位だから最初食指を動かしたのも元美公だった。奥方も共に集う宴席で、半分冗談めかして

「留学でもさせれば、きっと一角の者になるに違いない、うちに跡目がいなければ、うちで教育させたのだが・・・」と漏らしたのが勅子の教育熱に火を付けた。自分から言い出すのは憚れたが公が言い出しっぺなら渡りに船だ。親忠に海外の進んだ教育を受けさせてこれからの日本の役に立つ人材を育てるのが自分に託された使命に思えた。親忠は渡辺家の長男だが父親も息子の出世には積極的で口説けばどうにかなりそうだった。是が非でも親忠に賭けたくなった。その後親忠に会ったが、ただ優秀なだけでなく自分の考えを的確に論理的に表明する聡明さを持ち合わせていた。彼の説得には人の心を動かす力があった。まさに時代はこんな人を待っていたのだ。彼の瞳には必ず遣り遂げる信念のような輝きが見て取れた。親忠は間違いなくこれからの日本を背負って立つに相応しい青年であることを予感させる。それには先ず親忠を正式な養子にする必要がある。大枚を注ぎ込むには、いくらまだ実権を掌握しているからといっても元美は隠居の身、れっきとした跡目の宣次郎がいるのに宣次郎に無断でというわけにはいかない。宣次郎は与えられた仕事は卆なくこなしこれといって不服はないが、海外留学で学びこれからの日本を背負って立つに相応しい器かというと、そこまでの力量はない。元治一年宣次郎には子が出来た。元美の子として養子縁組し勅子の可愛がりようからして後継者としての地位を不動のものにした。それを覆すのはあまりに酷だ。しかし残された時間があまりない自分達にできることを今やらなければやり残して逝った先達に対し申し訳が立たない。揺れに揺れたがその一念がどうしても拭えない。半ば執り付かれていた。後の世のため先人達がやろうとしてやれなかったことを成就させることが使命に思えてきた。口火を切ったのは元美だったが、公は世間に迎合する常識の人で人情家、公然たる跡目の宣次郎をさておき、いくら優秀だからと言って人形の頭をすげかえるように今更後継者をかえるようなことはしない。だが直情的で一途な勅子は、自分の信じる道を簡単に諦めることはどうしてもできなかった。自分に子がないならせめて能力ある子を世に送り出したい。

「宣次郎殿に話をさせてください、少しでも難色を示せば諦めます。」と勅子は先ず公に持ち掛け、それから公の同席のもと宣次郎の説得にかかった。宣次郎は薄々察していた。自分にとって不都合な情報は想定外の所から想定外の早さで耳に入るものだ。公の方ならまだしも、宣次郎に記憶はないにしても二人の結婚式以来見知る勅子の性格は重々心得ていた。

「遅れている日本は、先ず欧米に追い付かねばなりません。のんびり構えているわけにはいかないのです。一時でも早く先進国に追い付いて、少しでも多く先進国の文明を吸収しなくてはなりません。追い付いて先進国と肩をを並べ、不平等条約を解消させるのです。

そのためには親忠殿のような能力ある人を、埋もれさせてはならないのです。わたくしは親忠殿に外国で進んだ学問を勉強して貰い、これからの日本のために役立って欲しいと思っています。あの方はそれが出来る人です。必ず遣り遂げる人です。留学させればきっとあの方は、何かを学び取って帰られるでしょう。だからわたくしたちは、身代をあの方に注ぎ込もうと考えているのです。例え身代を注ぎ込んでも、あの方はそれ以上のものを持ち帰るはずです。わたくしは私利私欲で言っているのではありません。これは維新をやり遂げた人たちの思いばかりでなく、それを願いながら命を落とさねばならなかった方々の思いを代弁してもいるのです。わたくしの亡くなった兄もその一人でした。

まだまだやりたいことはあったはずですし、遣れた人でした。それなのに日本のことを考えて犠牲になられました。その後命に代えて守った藩の存続は叶いませんでしたが、それもこれも皆日本の将来のことを考えて断腸の思いで選んだ道です。我々の心は一つ、日本のより良い将来を考えてのことです。

残された者はそれをつないでいかねばなりません。私利私欲に囚われていては出来ないことです。

兄がやりたくても出来なかったこと、残されたわたくしたちにはそのうちの一つでも引き継ぐ責任があると思うのです。ただひたすら後世に託すしかなかった兄のことを思うとわたくしは兄の意志を引き継がないわけにはいかないのです。本当にご自身でおやりになりたかったに違いありません。それを人任せにして逝かねばならないなど、心残りで無念で心から残念だっただろうと存じます。

惜しい人を亡くしました。兄ばかりではありません。

生きて活躍して欲しかった方々の命が、お国の将来のために多く失われていきました。だからこそ、わたくしたちは犠牲になられた方々の命を無駄死ににさせてはならないのです。あの方たちの思いを繋ぎ、実現させねばなりません。それが残された我々の使命なのです。松陰殿を慕う志士の方々はそういう無欲で国を想うところに共感されて付いて行かれたのだと思います。

何もしないなら生きている価値はない。だがやることがあれば、生きて全うすべきだと門下生の方々に遺して逝かれました。

自分に出来ることが有れば、それは何としても全うすべきです。今、わたくしにできることが有るとすればこれです。わたくしは世間のためにお役に立ちたいのです。これまで何不自由なく過ごしてきた御恩返しをしたいのです。それには宣次郎殿、あなたの協力が必要なのです。解ってください。後継者としてのあなたに、何一つ不足は有りません。責任はきちんと果たされています。それなのにこんなお願いをすることが、どれほど酷なことか、こんなお願いをするわたくしも、とても辛いのです。

それでもやらねばならないのです。外国に負けない日本にするのは我々生き残った者の責務です。

お願いです。宣次郎殿、あなたのお力をお貸しください。」

繰り返し繰り返し想いを切々と訴えたあと、勅子は座布団を降り結い上げた髪の先が畳に触れそうな程頭を下げ宣次郎に頼んだ。

「よして下さい、母上、頭を上げてください。

私に、親忠ほどの力量は有りません。」

「その代わりと言っては、何ですが、興丸はわたくしが責任を持って跡継ぎに致します。わたくしが我が手で育て、命に代えても跡目にすることを誓います。それだけはご安心ください。」

勅子はすかさず興丸を餌にした。

「解りました。私は相続を辞退いたします。」

宣次郎も人の子、これまでの長い間、当然跡目を継ぐと思えばこそあの幕末から明治に移行する幾多の難局を乗り越えてきた。それがこれからという段になって、相続を取り消すなどトンビに油揚げではないか。こんな理不尽、罷り通ってなるものか、これまで信じて疑わなかった後継者としての地位をいきなり奪われて不服でない訳がない。しかし幼い頃から知っている勅子の性格も見抜いていた。自分の信じる道は何が何でも貫く人だ。宣次郎も母親は違っても元美公と父親は同じ、温和で気の弱い性格はどこか似通っていた。

「ありがとうございます、宣次郎殿、この通りです。」再び、勅子は頭を下げた。

勅子は誰かにこのような頼みごとをするのは生れて始めてのことだった。だが勅子も必死であった。

「お約束通り、興丸はわたくしが責任を持って育てます。跡目は命に代えても継がせることを誓います。」

「解りました。相続を譲ります。」

同席した元美が口を挟む余地はなかった。

だが緊張がほぐれて一段落すると、この人には勝てないと思うのだった。すんなり身を退いたものの宣次郎は気持ちは不承不承だったであろう。これを知らされた僅かな家臣の面々は、いくら親忠が優秀とはいえこんな理由で相続を交代させるとはあまりに薄情で、同情もしたが上のすることに口出しは出来なかった。しかしいくら上のすることとは言え歯切れの悪さは引継ぎでもたつく。堂々と公表できない事情柄家臣団にも納得のいく説明がなされなかったか、親忠が引き継いだ後も家臣は宣次郎にも同じ仕事の連絡をして、二人は同じ役職に同時に現われて周囲を慌てさせることが何度か有った。そんな気まずいことがしばしば繰り返されて宣次郎はまもなく体の不調を理由に身を退いた。

明治三年・六月二十一日、元美公がそれまでの名・能登改め一格と称することにしたのを機に、後継についての詳細には触れず、後継者は徹之祐とだけ臣下には知らされたのであった。かくて宣次郎は後継者としての座を退き、親忠が名を徹之祐と改め、十一代厚狭毛利の領主となった。

そうして将来を見込まれ跡継ぎとなった徹之祐であったが留学といっても容易ではない。元徳を通じ朝廷からの援助を頼んでいるが、まだ何一つ実績のない徹之祐への支援に色よい返事はない。

そこに来て明治四年新政府が、欧米諸国を歴訪する岩倉具視使節団を乗せるイギリス郵船の空きに国費で留学するエリートに加えて広く一般から私費留学生を募集した。津田梅子の父が幼い梅子に私費を投じて同行させたあの船である。同郷からは既に厚狭毛利の旧家臣・岩本勝之助が軍艦学・砲術を学ぶためにイギリスのニューカッスルに留学することが決まっていた。岩本勝之助は十六歳の時長崎洋学校に入塾、二十三歳で東京召登巳海軍学校に学び海軍省、海軍稽古士官となっていた。そして明治三年三月二十三日に行われた海軍学校大試験では見事合格、それもそのはずこの手の学習は頭に叩き込まれていた。とはいえ大試験は地理、理科などの学習書で、四人の教授が列座して英語で質問して日本語で答え、或いは日本語で質問して英語で答えるという難易度の超高いものである。同じく厚狭毛利の旧家臣・井上省三は木戸孝允の推挙で政治・軍事を学びに既にドイツに渡っていた。だから勅子はどうしてもこの船に同乗させたかったのである。井上省三と岩本勝之助の二人は共に二十四歳、国費で充分な生活費が約束されていた。しかしまだ十八歳の徹之祐に国費援助の許可は下りなかった。しかしこの機会を逃せば次は何時になるか解らない。焦った勅子は旅費を工面するため萩の家屋敷を急いで売って金にした。急いだ分家屋敷は買い叩かれ、旅費の工面がやっとであった。それでもあとはいずれ朝廷から調達することにして見切り発車で徹之祐の留学を決行した。無謀ではある。かくて徹之祐は意気揚々とイギリスに向けて旅立ったのであった。

この話はその後半ば美談半ば呆れられてどこからともなく漏れ伝わり、厚狭毛利夫人はあの広大な萩の家を二束三文で売り払い養子の留学費用に充てたと厚狭村内に知れ渡った。

新政府の方針は積極的に西洋人を雇い先進国である西洋からの文明を取り入れ、すべてを西洋化することであった。散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がすると長い都々逸(どどいつ)(流行り歌)の最後のここだけ取って歌われたのもこの時期である。よって文部省も西洋人を教師に採用し西洋の教育システムを取り入れ国民皆学を理念に学制が頒布された。


厚狭領内の船木でも船木区長に任命された兼重慎一がまず手掛けたのが小学校の設立であった。

兼重慎一は江戸期まで厚狭毛利の家臣であった。

兼重慎一は藩校の明倫館に学ぶ頃から突出して俊才の誉れ高く二十四歳で本藩に出仕、出仕すればしたですぐに頭角を現わし、父親の友人である村田清風の藩政改革の補助的役割を担う存在となった。

父・新兵衛は在職中奢侈に溺れる藩の財政を立て直そうと当時の藩主斉元に忠告したところ、斉元の怒りを買って逼塞を言い付けられその後家に引き籠もって読書三昧の生活を送っていたが、藩の要職を担う仲間達とは依然交流を保っており、藩財政改革を成功させた村田清風とは最も親しい知己であった。

その縁で引き立てられた慎一であったが、その後は独自の才覚で躍進をとげ右筆・政務役・用所役・手元役・軍制用係へと累進する。生来謙虚で表立って自己顕示することはないが、どの役職も堅実に着実にこなし存在感があった。

明治になると大津代官を任された。黒子的存在に徹し決して手柄を誇示するような質ではないが、剛毅な父親譲りの遺伝子は確実に受けており、仕事に向かう姿勢は常に真摯で意欲的であった。

その意欲を形にする人でもあった。先進国の後を追う形で始まった明治では、先ず西洋に追い付くこと、国が富むことが課題であった。それはある種強迫観念となって国民に執り付いていた。慎一もそのうちの一人で何かしたい焦燥感に駆られていた。だから明治二年大津県令に任じられて赴任し、一面繁茂する自生の桑が目に飛び込んできた時、、一瞬にして養蚕業が閃いた。その頃の思想は陽明学が主流で精神性に置ける日本人の統一性には目を見張るものがあり、その陽明学の神髄である考えたことは実行に移さなければ意味がないという”知行合一”の精神に基づき、ただちに実行に移すべく二俣瀬に群馬県より指導者を呼んで養蚕学校を設立したのである。そしてそこで自らの妻を学ばせ模範となって生徒を集めた。やがてその手腕は知る人ぞ知る所業となる。

だがその頃から積み上げてきた栄光に水を挿すが如く災難が降り掛かる。明倫館で館内一の秀才とうたわれ招来を嘱望された長男・欽十郎が夭逝したのである。その丁度一年前の明治元年に母親を亡くしたばかりであった。続いて妻のトメが心労から寝つき不帰の人となった。しかし慎一自身の活躍は依然続いて養蚕は軌道に乗る。慎一の仕事が次々成果を挙げる一方で私生活の苦労は絶えない。女手を失い手は掛からなくなったとはいえ、男の子三人を抱えて職務を全うするのは無理がある。男手一人では傍目にも忍びなく、トメが死んで間はないが強く勧める人があって後添えを娶った。

それが河北ツルであった。

それから二年、男の子ばかり続いた家系に待望の女児が誕生した。五十六歳にして初めて得た女の子はそれはそれは可愛くて、慎一は兼重家に春を告げるために現われたように思えた。春に先駆け清楚な芳香を放ちながら咲く梅は高貴でさえある、その花にちなんでその子に梅子と名付けた。

梅子は期待に応えすくすくと育った。しかも秀才の誉れ高った長男の生まれ変わりかと思える程知恵づきが早く慎一夫婦を喜ばせた。その時丁度船木区長として赴任した慎一は、自分が何時までその任に就いていられるか解らない、ここが最後となるかも知れない、そこで在職中に女子専用の学校を開設することを思い付いた。時代は新しく明治と改まっていたが、依然封建主義思想は根強く、女に学問は不要、女にとって学問はなまじ有害とまで言われていて、この風潮をどうにかしなければこの利発な梅子が学問を必要とする年齢に達した時、速やかに通学出来るかどうか不安だ。もしその時自分が生存していなければ庇護者のいない梅子はどうなるかと思うと矢も楯もたまらなくなった。一般論がそうだから、船木のような偏狭な田舎ではなおさらだ。白眼視され孤立して学問どころではない。そこで慎一が女児も堂々通える学校を造っておきたいと考えても不思議はない。

それが明治五年のことである。明治五年と言えば東京横浜間に日本で初めて鉄道が開通して、近代国家の幕開けを誰の目にも見える形となった年である。文明が怒涛のように流れ込み学制も頒布され船木にも小学校が設立された年だった。区長となった慎一は計画に向かって着々と準備を進める。片田舎の住人の気質をことごとく知り尽している慎一は、まずは計画実行の足掛かりとして、船木の住まいを厚狭にも広大な土地を占有する造り酒屋で船木のほぼ中央にある富豪・倉重酒造の家を借りて住むことにした。それから山口藩知事に宛て伺書の提出である。男女共学の不便を切々と訴える要望書は当然予測される女子専用の学校設立に対する世間の猛反発に極力配慮していて、その謙虚な人柄の滲み出た書簡が藩知事の心を動かし要望書はすみやかに受諾された。女児学校開設の地固めは着実に進められた。次は校長の確保である。村の気質はよく心得ている。下手に並みの人物を校長に据えれば猛反発されること間違いない。

士農工商で上下関係が体のすみずみまで沁み渡っている庶民に、有無を言わさず承服させられる人物とくればこの人をおいて他にはいなかった。

慎一は勅子に白羽の矢を立てた。勅子は慎一にとっても雲上の人だ。だが慎一は説得する自信があった。西洋では既に男子の母でもある女性に教育は必要であるという考えが主流で、これまで女性を無視した日本の封建社会のあり方に疑問を抱かないわけはなかったし、この西洋的考えを熟知する勅子が賛同しないはずもなかった。たしかに勅子は雲上の人だが、出自の良さを笠にそれを拒絶するような分らず屋でもない。それどころか版籍奉還に続いて廃藩置県と身分はおろか収入源まで断たれて武士といえどもこの先暮らし不透明な状況下で、唯一の財産である萩の出屋敷を手放し頭脳明晰な青年だからといってその対価として受け取った浮き米二百五十石を全部注ぎ込むなど、日本広しといえどもそんな太い度量をした女性は他にはいない。

だが夫妻にはそればかりでなく、別の理由もなくはなかった。元美公には文久一年、初の攘夷戦となった攻撃で後れを取って咎を受けた負い目があり、それがずっと尾を引いていた。その後紆余曲折はあったものの結果として、あの時決行したメンバーが維新をおこして正義派と称す彼等の世となり、元美公の立場は冷遇されたままだ。一門六家の世襲で藩の重責を担い藩の正統派である俗論筋に従って、高杉晋作等率いる改革派の彼等を時には敵にしてきた正統派の元美としては居心地は悪い。幕府の顔色を見ては幕府側に付いたり朝廷側に付いたりして藩の政治堂は場当たり的な対応で頼りないが、それでも当時藩の実権を握っていたのは彼等で、それに従った元美に責任はないのだがその顔色を窺いながらの対応が、命がけで勝ち取った新しい政治堂の面々からすれば気に入らなかったのだろう敬遠されていた。

元美もあの失策の穴埋めは試みた。四境戦争では、高杉晋作に敢えて危険な小倉口の最前線をかって出た。そして自分がしゃしゃり出ては目障りだろうと代わりに宣次郎に戦わせた。宣次郎は激戦に耐え善戦していたのだが、運悪く将軍崩御によるうやむやの休戦で講和による決着となり結局武勲にはつながらなかった。公としては国に対する忠誠心は誰にも引けを取らない自負があるというのに遣ることなすことが不発でこれが不本意であった。どこかでその汚名を雪ぎたい一念はずっとあるのに、どれも鳴かず飛ばずでパッとしなかった。そこにきて時代は激動し維新が成功するともはや戦の世ではなくなった。そこで徹之祐で一矢報いたいと考えた。どこかで手柄を立てなければ厚狭毛利は埋もれてしまう。そこへきての慎一からの要請であった。これで新政府への顔が立つ。公は元来リベラルな人柄で、勅子が女だからといって自分に先んじることを疎ましく思うような狭隘な人ではない。話のわかる人だ。慎一が礼を尽くして頼むと要請を聞き入れ決断は勅子に(ゆだ)ねた。

慎一は勅子を遠目に見たり噂に聞くことはあっても一対一で対峙するのは初めてであった。たしかに高圧的ではある。しかし一朝一夕にして身に付くものではない優美な気品が備わっており、それに圧倒されそうになった。そしてやはり会って見なければ解らないものだ。勅子は女性の地位向上にはかねてより強い関心があり、女性の教育に関して男の慎一が新しい道の開拓に乗り出すことに感謝した。そして自分で良ければと前置きしたうえで協力を惜しまないことを確約した。深窓の奥方の偏見を覆す謙虚な物言いであった。慎一はその謙虚さに感動した。この人を悪く言う人があれば、生きてきた環境が誤解させているのであってこの人に罪はない。そう思わせた瞬間だった。一途で純真で子供のようにきれいな心をしていた。慎一はそんな勅子を利用しようとしている自分が恥ずかしくなった。これを単に利用するだけでは許されないような潔白な清い心を勅子の中に垣間見て、必ず成功させて勅子の手柄にしなくてはならないと心に誓うのだった。

こうして女子校は誕生した。

これからは勅子との二人三脚である。

勅子を校長に吉敷から多羅間しん、小野みつ二人の授業生を呼び寄せ勅子が教師に教育した。

校舎は郡役所の隣のお茶屋・長谷川太郎右衛門の長屋に少し手を加えただけの粗末なものだが、念願かなって手中に収めた学び舎である。希望に胸膨らませ、何物にも代えがたい宝物を得たようで心は豊かであった。畳の間に黒塗りの長机を並べ一テーブルに三・四人が座った。

生徒には清末毛利・元純の三女・達子の顔もあった。彼女を呼び寄せたのは厚狭毛利の手腕である。いずれ達子は徹之祐の嫁にする約束で入学させた。しかしさすがについこの前まで格式高い家柄のお姫様を、平民の皆と同じ席というわけにはいかない。敷居を隔てた前列の下り向きに一人だけ蒔絵入りの机に座らせ授業を受けさせた。

生徒は五・六歳から十五・六歳までいて年齢に一貫性はなく七人からのスタートである。近隣の者ばかりでなく寄宿の者も受け入れた。山口・宇部・豊浦など遠方からの生徒もいて、夜は机を片付けそこに布団を敷いて寝かせた。勅子は汚い廊下を隔てた長谷川家の本宅に屏風で仕切っただけの部屋に間借りして住んでいたが、夜中庭の隅の暗闇の(かわや)に行くのを恐れる子がいればその子に付き添った。とにかく実子のいない勅子は子供が心底好きであった。可愛い仕草をしたり可愛い物言いをすると思わず”可愛い”を連発して抱き締めた。

本は半紙に墨で書いたものを使い、石盤や算盤、紙筆を用いた。午後からは伺書に認めたとおり女子校専用の課目である裁縫や養蚕、機織りを教えた。授業形態は厳格なものではなく至ってのんびりしていた。勅子は主に国語を受け持ち、熱が入れば行儀作法に一日費やすこともあった。もともとが一途な性格である。子供達の教育にも一途であった。熱が入ると我を忘れて取り組んだ。慣習でこれだけは外せず佐藤というお付のおばあさんを従えてはいたが、食事は野草などをおかずにして、これまでを知る者を驚かせるほどつましい食事に甘んじた。だが身なりだけは決して崩さず品位を保ちそれだけでも生徒に与える影響力は大きい。勅子は勢いで校長を引き受けたものの何しろ初めてのことで運営は手探りであった。ただ人から後ろ指を指されないように誰からも認められる優秀性を輩出するために無我夢中の体当たりでいくしかなかった。幼い子供を預かりはしたものの、その扱い方もわからないまま引き受けていた。

或る夜のことだった。五歳の千代は体が大きい上に知恵付きも早く、親も千代が親元を離れて寄宿するのを何の心配もなく送り出し、一方千代も納得して出立してきたはずなのに、夜になって近くの郡の役所の高い木の上でフクロウが心細い声を発すと、つられて千代も里を恋しがって泣き出した。

大抵は年上の子が下の子の面倒をみてなだめたりすかしたりしてどうにかその場を治めるのだが、その日千代の我慢は限界を超えたのだろう、とうとう上級生では手に負えなくなって、手に余った上級生が助けを求めて勅子の部屋までやってきた。こうなると勅子とて手の施しようがない。ただただ母が恋しくて泣く子に道理を言って聞かせても無駄である。ほとほと弱り果てて泣く千代の顔を見ればその顔は赤子である。こんな時英之輔の乳母がオッパイを与えていたのを思い出した。勅子は着物の前をはだけるとただ泣きじゃくる子の口にそっと乳房をあててみた。すると千代は目を閉じたままその乳首にしゃぶりつき猛烈な力で吸い始めた。全身をしびれるような官能が走り、勅子は自分が女であることを思い知った。と同時に母と子を繋ぐ強い絆を感じた。まさに乳房は命綱でもあったのだ。切っても切り離せない母と子の強い絆をしかと受け止め、ここでは自分が親代わりとなって、この子を守らねば改めて決意するのだった。

翌日千代は恥ずかしそうに(うつむ)いてまともに目を合わせるのを避けていたが、明らかに心を開き前より親近感を持ったのは確かであった。

その次の日の朝、勅子は少し肌寒かったが青空がのぞいて気持ちのいい天気だったので、近くの住吉神社に散歩がてらに子供達を連れて行った。散歩は子供達をより近付けた。散歩は好評で授業の効果も上がった。

次は少し離れた瑞松庵に足を延ばした。大人の足で行けば四十分位の所を子供連れだと一時間半位は掛かるだろうか、道ばたの草の名を教えたり摘み取ったり、勅子が誰もが知っているわらべ歌を歌いはじめると誰からともなくそれに合わせて歌い出した。瑞松庵はこじんまりとした可愛いお寺だ。急な石段を上がり茅葺(かやぶき)のキノコの傘のような山門をくぐるとすり鉢状の底のような空間に本堂があって、ぐるり取り囲む急な斜面には上れる道が付いていて、そこを上がって高みに立つと今歩いて来た道が辿れてその先に学校が見えた。遠くに目を泳がした。靄に霞む山々の連なりが見渡せた。

あの山を幾つか超えると萩がある。良きにつけ悪しきにつけ萩は勅子にとって結婚後の長い期間をを過ごした思い出の場所であった。若き日の夢と希望に満ちていた頃、やはり良かったというべきか、眺めていると何とはなしに涙がこぼれた。過ぎし日々が愛おしく思い出された。哀しかったこと事も辛かったこともみな懐かしかった。遊昌院や大蔵や瑶光院もいた。みんな勅子に暖かい眼差しをそそぎ孫を待ち望んでいた。勅子はここに来ると心が和んだ。ここが好きになった。見れば子供達もくつろいでいる。子供達も親が恋しい気持ちを我慢しているのが察しられて心が一つになった。ここから見る空は青く澄んで大きくてどこまでも広がっていて心も大きくなった。まかないの女中が遅れておにぎりを届けた。梅干しの入った白いおにぎりに沢庵、季節の煮物が添えられていた。ここに来ると子供達は全員が姉妹のようだった。回を重ねるうち、千代も母を恋しがって泣くこともなくなった。

或る日千代が恥ずかしげに勅子を見上げて、

”オッパイさま”と呼んだ。

勅子はその当意即妙の呼び名に驚きとおかしさが込み上げて、可愛いやら滑稽やらで思わず声高らかに笑った。何と呼んでいいか迷った挙句に口を吐いて出たのだろう。幼いながらもちゃんと勅子を敬っていて、その心根が勅子にも届き怒るに怒れずその呼称を容認した。千代が言って咎められないのをいいことに、年上の子も親しみを込めて真似するようになった。それからは勅子のことを”オッパイさま”と生徒は呼ぶようになった。勅子は全く気にしなかった。みんなが家族のように慣れ親しんでくれればそれで満足だった。

だが授業では手を抜くことはなかった。しつけにも手抜きはなかった。幼い時身に付けた正しい教えは大人になっても失われることはない。正道に導くのが訓導である勅子の仕事である。その心意気を子供達もちゃんと理解していた。子供達は素直だった。尽くせば尽くしただけ、その愛に答えた。

思えば元美にはいくら尽くしても心が逃げていた。それが不思議だった。何か肩透かしを食っているような虚しさが付きまとっていた。そのことに常に疑問を抱きながらこんなものだと諦めてきた。元美は優しい。勅子に苦情一つ言わない。言葉も丁寧で褒めるべき時には素直にほめる。しかし二人の女を使い分けているという思いはどうしても否めない。勅子は正室だ。愛情もランク付けされていいはずなのに二の次のような感じがしてならない。勅子に対する誠実は上滑りしている。それがずっと不満だった。だが勅子はそれをいつも自分に非があると責めてきた。自分が細かいことにこだわり過ぎるからで、くよくよ考える自身を諌め夫婦分業でそれぞれの役割を果たしていればそれでいいのに邪念が生じるのは、自分に学びが足りないからだと言い含めてきたが、じつはそれは自身を偽っていただけで、こうして子供達と接して打てば響く、こんな充足感があることに生れて始めて気付いたのだった。勅子が元美との間に感じる隙間風は、二人の女を使い分けている公に問題があったのだ。公に投じた愛は公の中で雲散霧消して月並みな好意と成り代わる。そうして戻ってくる公の反応は誠実を欠いていた。


勅子の行う指導は試行錯誤の手探りにもかかわらず、一生懸命が伝わってどの子も必死に学び、勅子の子供時代がそうであったように乾いた砂地が水を吸うように吸収していった。そこで自然に口を吐いて出た歌が、

”学ぶ子のすすむ悟りにひかれつつ惜しき年はも知らで越えけり”であった。

学校は盛況であった。口伝えで生徒の数は次第に増えた。子供達は強く正しく賢く育った。子供達が理解出来なければ、それは教える側の教え方の落ち度であって教師側の責任である。勅子はそう言って教え方も日夜工夫した。そう若くもないのに頭を使い気を遣い体も使えば体力も消耗した。授業生も二人共うら若き十八歳、まだ完全に大人とは言い切れずこの二人にも勅子の指導が必要である。特に小野みつは若い時の寿賀を彷彿とさせるような器量よしで周囲から持てはやされて要注意人物であった。しかし学校の順調な滑り出しに浮かれている隙を突くかのように事件は起こった。平素より明治になっていきなり男女同権になったといえどもけっしてそれを鵜呑みにして軽はずみな行動を取らないように注意してきたのだが、隣の郡役所の男の職員が雀の足に恋文をつけて飛ばしたのである。それが小野みつに宛ててだったから大騒ぎになった。学校の教師たる者がそんなふしだらでいいのかと早速口さがない村人たちは陰口を叩き始めた。罪作りは男の職員なのだが、気を惹く側に原因があると、閉鎖的でまだ封建主義の抜け切らないその時代、そんな場合非は女に有るのである。そしてそういう堕落した教師を認可している勅子に責任はあると転嫁され上に立つ勅子の品性まで疑われ、勅子は有らぬ疑いに激怒した。これまで真摯に取り組んできてそれに揺るぎない自信を持っていた勅子だったが真逆な世間の評価に、一体自分は何をしてきたのかと思うと情けなくなった。自分の教育方針に間違いはない、正しいと信じて実践してきたし自信もあっただけに落胆は計り知れなかった。教える教師に迷いがあっては子供達は座標軸を見失い付いて行けない。教師がこれでは一体生徒は何を指針に学べば良いのか。

順風満帆に事が運んでいただけに、この横槍は勅子を慌てさせた。小野みつが若い頃の寿賀に似ていたこともその慌て振りを助長した。果ては妾か、妾にするために子供達を厳しく教育しているのではないと怒り心頭した。こうなると一途な勅子を止めようがない。自分に訓導の資格はない。学校は即時閉鎖、教師を辞めると言い出した。勅子の目覚ましい活躍でしばらく慎一の出番はなかったが、ここにきてようやく慎一の出番が回ってきた。

説得は慎一の得意分野である。訓導たる者、人の噂に動じない精神も身に付ける必要があることを説き、自身さえ正道を貫けばそのうち心無い噂は解消されよう、じっと我慢してその時を待つよう諭したのであった。これでこの件は落着し危機を乗り越えたのであったがとにかく騒動であったことには間違いない。

そこにきてまた新たな問題の勃発である。学校経営に気を取られて気にはなっていたが徹之祐への仕送りがなおざりになっていた。朝廷からの援助金の口添えを元徳に頼んでいたのだが。元徳は腹違いの弟で禁門の変では藩主の次期後継者である元徳を生かすために同腹の兄である元僩が犠牲となって詰め腹を切らされていた。その元徳は本藩の家督を継ぎ廃藩置県で東京の野田に居を構えることとなり、藩が爪に火をともすように切り詰めて非常時の際のために蓄えていた撫育金を、このことは隠されてきたが誰もが知る公然の秘密で七百万両は金のない朝廷に寄付し残りの三百万両を元徳が持参して東京へ移っていた。そういった隠し財産を持つ元藩主や豪商に、金のない新政府の面々は目を付けた。日本を外国並みの経済国にするには先ず金融資本が不可欠である。金を持つ民間の豪商や元藩主に出資させて私立ではあるが、伊藤博文がアメリカの銀行のネーミングをそのまま頂戴して国立銀行と名付け銀行の設立に当たった。その設立を主導したのが渋沢栄一である。その時出来た銀行はすべて国立銀行といい区別するのは番号だった。例えば十八銀行とか。国立銀行は資本金の四十%を金の現物を正貨として準備すればその一・五倍の通貨・太政官札が発行出来た。この太政官札は通貨として発行されたがまだ信用がないので、金と交換できる兌換紙幣に換えられる付加を付けた。すると太政官札を手にした者は信用のない太政官札を手元に置いておくのは不安で兌換紙幣にして正貨に換えたのでたちまち銀行は立ち行かなくなった。そこで今度は金には換えられない紙幣を流通させる銀行にした。

三井、住友は明治八年までに創られた銀行の生き残りである。

元徳も出資してそのうちの一つの銀行の頭取となっていた。そしてその時期は明治十二年、百五十三の国立銀行が出来るまでの過渡期にあり、こちらも手探りで意欲的に生き残りをかけて奮闘している真っ只中であり、姉といえども地元から朝廷への働きかけを頼まれても新政府には長州の元家臣も多く居て顔が効きはするが、こういった類の陳情は山ほどあって再三催促しなければ後回しになる案件だった。

ところが勅子も学校経営に忙殺されてそれどころではなかった。忘れていたわけではないが、延ばし延ばしにしているうちに熱中している時の流れは速く月日は思いの外経っていた。

徹之祐が体を壊し戻されてきたのだ。徹之祐は養子になってまだ日は浅く気心も知れない勅子に送金を催促するには気が退けた。しかも家屋敷に家財を売り払って旅費を工面した経緯も知っており元美の収入源も断たれた今、この上送金まで頼むのが無理難題であることは解っていた。元家臣のよしみで同じくドイツに留学中の井上省三に生活費を無心して当座をしのいだこともあったが、しかしそれにも限度があって遂には海を越えてイギリスに留学中の元家臣・岩本勝之助にまで借金を頼んでいた。徹之祐は彼を目標にしたこともあり、そのよしみで頼ったのだがそれにも限りがある。何度か彼等を頼り食いつないでいたが、政治学を習得するには十年は掛かるだろうから達子との縁談も一たんは解消するとまで彼等に吐露していたのに、食べるものにも事欠く生活苦は体を(むしば)み、意思の疎通もままならない遠い異国の地では乗り切ることは出来なかった。

勅子は取り返しの付かないことをしてしまった。どうにかして回復させなければと焦ったが結核は思いの外重症化していて、快方に向かうどころかのっぴきならない状態まで悪化していた。

帰国後、多少体力を取り戻した所でとりあえず達子と結婚させたものの病状は一進一退を繰り返すようになった。一女を儲けたがその後また悪化し、将来を嘱望されていたのに期待された才能は発揮できないままだった。

勅子はこれには頭を痛めた。迂闊であった。渡辺安雅の長男を養子にした時は前途洋々たる未来があった。必ずや立身出世させるはずであった。その期待された頭脳を開花させることなく病に倒れさせた責任のすべては勅子にあった。しかしこうなってしまったからには徹之祐の病の治癒は医師や達子に任せるしかない。


それにしても学校は順調だった。勉強に限らず目に付くことすべて、掃除などの手解(てほど)きまですれば翌日のカリキュラムの予定を組む仕事は毎晩夜中にまでずれ込んだ。だが勅子は寝る間を惜しんで子供の世話に当たった。その甲斐あって学校は口伝(くちづ)てに評判を呼び生徒は日に日に増えた。教室に敷ける布団の数も限られて船木の空いた家の部屋は寄宿生で埋まった。七人から始めた生徒数は三十人になっていた。希望者は後を絶たず、この勢いでいくともっと増える可能性がある。こうなると必要なのが新しい校舎である。入学希望者全員を収容できる校舎が要る。勅子は優秀な生徒を輩出して希望者をもっと募り実績を積んで県に陳情する計画を立てた。

これには慎一も賛成である。勅子は金の有難味をこの時ほど痛感させられたことはない。領主の奥方として鎮座していた時は緊縮財政といいながら実際に金の遣り繰りをしたわけではなく、出掛ける時は休憩などで駕籠から降りれば、傘持ちが傘をさしかけ勅子の頭上に日陰を作ったものだが、しかし今は違った。いちいち傘など持ち歩けば面倒だ、傘もささずに化粧品は高いので買い控えれば日焼けで顔も浅黒くなった。切り詰められるところは切り詰めて倹約し徹之祐の食事代に回した。結核にこれといった特効薬はなく滋養のあるものを食べて体力で克服するしか治る見込みはない。しかしそのような食べ物は手に入れるのが非常に困難で高額であった。勅子は徹之祐には償いきれない負い目を抱えてしまった。いくら忙しかったとはいえ徹之祐を不治の病にまで追い詰めた罪は重い。謝っても謝りきれるものではない。良かれと思ってしたことが裏目に出てしまった。前途有望な青年の将来を摘み取って、ただの落ち度では済まされない。どうにかして再起させねばならなかった。しかし達子と結婚に漕ぎ着け一女を儲けたまでは順調だったが、それからが一向にはかばかしくないのだった。

その一方で学校運営はすべてが快調に運んだ。勅子が自分の体のことも顧みず働く効果はてき面報われて、事は思い通り運んで恐ろしくなるほどだった。くたびれても休んでいる間はなかった。遣らねばならないことが山積していて、体を動かしている方が体も逆に軽くなった。船木の部屋は狭くて荷物は最小限に抑えてきているので必要なたび、しかしそれも日曜日に限り厚狭まで歩いて取りに帰った。着物の裾が擦り切れても着物を新調するなど有り得なかった。

身嗜みを崩すのは自身の精神に反し常に規範に則った身のこなしを心掛ければ、裾はすぐに擦り切れた。それでも幼い頃に否定されては身に付けた着物の裾をひいて歩くおひろい歩きは止められず貫いた。だから裾は汚れるしすぐ擦り切れる。その修繕は夜なべ仕事だ。夜なべは油代が掛かる。しかし昼間だけでは時間が足りなかった。とにかく時間がなかった。時間がないという観念に急き立てられて目の前の仕事を明日に持ち越さずその日のうちに終わらせた。立ち止まって考える間もなかった。

だがこれまで生きてきてこれほど充実したしたことはなかった。

生きている実感がした。

元美公の妻として君臨していた時にはなかった充足感である。学校設立に尽力したのは勅子だけではない。慎一がいた。二人で築いた学校である。しかし創立してからは勅子一人が切り盛りした。慎一は勅子の運営手腕を尊重し一切口出ししなかった。何も言わずただ遠くからじっと見守っていた。

その眼差しは勅子をほのぼのと温めた。遠くから見守られている安心感があった。だからといって慎一を頼りにするなど考えられなかった。逆に慎一を煩わさないようにした。お互いに思いやる気持ちは双方に伝わって、慎一は勅子より二歳年上、父でもなく兄でもない、二人の間を流れる空気感に、もし元美でなくこの人が夫であったならと思わせるような人であった。

俸禄が廃止されて売れるものは何でも売って金にした。だがたった一つどうしても手放せないものが勅子にはあった。徳山から嫁ぐときに持参した書見台である。書見台はこうして武士社会から離れてみると勅子にとってあの華やかりし頃の象徴のようで自身を形成している一部のようであった。何をさせても秀でている勅子を手放しで自慢した今は亡き父のこと、嫁入り前母と共にこの図柄を選んだ時のこと、書見台を前に目を閉じれば栄華を誇っていたあの頃の様々なことが走馬灯のように思い出される。書見台は珠玉の一品である。究極の技巧の駆使が透けて見える。黒い漆に本藩とは微妙に異なる嫁ぎ先である厚狭毛利の表と裏の家紋入りの蒔絵が施されている。

そこに異質な菊の御紋が目を惹く。何故か、何故こんな所に菊の御紋?

そこで毛利家の歴史を遡れば天皇家との所縁が顕彰される。正親町天皇から破格の貢物に対し菊の御紋を下賜(かし)された所以(ゆえん)のあったことを。

だからといって毛利家も何にでも菊の御紋を入れたわけではない。特別のものに限りだ。勅子自身、恐れ多くて勿体なくて使わずに来たのだが、その唯一の宝物を勅子は或る日、さり気なく持ち出し慎一に差し出した。

勅子の人柄を知り抜いている慎一は、それが勅子にとって何を意味するか書見台に込められた想いは痛いほどに解っていた。目頭が熱くなったがそれ以上の動揺は厳禁であった。

慎一は表情を変えず辞退した。書見台は慎一にとって必需品だ。しかしそのような代物を受け取るわけにはいかなかった。

だが拒み続けるのも勅子に酷である。

慎一は恐縮して受け取った。

学校がすっかり軌道に乗った頃、元美が寿賀を伴って見学に来た。元美は相変わらず無神経だ。勅子の感情を全く無視している。元美とすれば(やま)しい気持ちは微塵(みじん)もないのである。悪気のない元美に誠実に欠けるといくらかいつまんで説明しても、これまでの二人の歴史からいって無駄なことはよく解っていた。勅子は厚狭に帰ってからそれがはがゆかった。だがそんなことはもう、どうでもよくなっていた。

それにしても慎一と勅子は何かしら共通するものを抱えていた。仕事では抜群の成果を上げながら家庭的には何故か不遇であった。

明治九年梅子の知恵付きは並外れていて、五歳にしてこれなら学校へ通うようになれば当然もっと伸びるだろうと慎一を期待させた、その矢先のことだった。熱を出し、ただの知恵熱で二日もすれば熱は下がるだろうと高を(くく)っていたら、熱は長引きそれも高熱でなかなか下がらない。特効薬があるわけではなく、薬草を煎じて飲ませ解熱を待つか、冷たい井戸水をたびたび変えて頭を冷やすしか治療法はない。あとは熱が下がるのを祈るしかなかった。

そこで甦るのがまさか死ぬとは思ってもみなかったのに、あっけなく逝ってしまった欽十郎のことである。慎一は慌てた。あの二の舞だけはさせてはならないと。だが高熱は一向に下がる気配を見せない。いたずらに時ばかり経って、これでは体力を消耗して小さな梅子の体が持たない。しかしこれといって手の施しようはなくもはや絶望的であった。残る手段は神仏にすがるしかない。

最初ツルが近くの住吉神社でお百度踏んで治癒祈願をすると言い出したのだが、夜の神社は物騒だ。女ひとり行かせるわけにはいかない。ツルには片時も離れず看病をさせ慎一が取って代わった。男とて迫り来る魑魅魍魎(ちみもうりょう)の気配漂う深夜の境内は不気味だ。だがそんなことを言ってはいられない。魑魅魍魎も梅子が治ると思えば怖くはなかった。一心に梅子の回復を祈ってお百度を踏んだ。幾晩通ったであろう。慎一の精神力も尽き果ててもはや気力のみで石畳を歩いた。梅子の息のあるうちは望みある。その間は何としても止めるわけにはいかなかった。帰ると精も根も尽きて眠りこけた。

或る朝目が覚めると、梅子がぱっちりと目を見開いていた。奇跡的に一命を取り留めていた。だが喜んだのも束の間、梅子は立てなくなっていた。あまりの高熱に脊髄を損傷して下半身が麻痺してしまっていた。

梅子は利発で慎一夫婦の自慢の子であった。だが一転して奈落の底に突き落とされていた。下半身不随では自立できない。これから先、どうして生きていけばいいのだろう。不覚であった。梅子に取り返しのつかないことをしてしまった。慎一は絶望の淵に佇み茫然自失となった。しかし歩けないだけで熱が下がって具合のよくなった梅子は、気落ちして沈み込む慎一に何も知らず微笑みかける。その微笑みは天使のように無邪気であった。そうだ、この世で頼れる者は自分達の他にはいないのだ。全幅の信頼を寄せる親がしっかりしないでどうする。

慎一は微笑みに応えながら自分自身を叱咤(しった)した。いくらいい仕事をしても梅子がこれでは意味がなかった。女児小学校は梅子のための計画だった。だが皮肉にも梅子はとても一人でその学校へ通うことは出来ない。不純な動機を悔いた。

勅子も将来のある徹之祐を台無しにしてしまい、二人共似たような過ちを侵して贖罪を抱えたのであった。慎一の落胆は大きく仕事が手に付かなくなった。慎一は二つのことが同時進行できない自分の性格をよく心得ていて、仕事をすれば梅子のことがお座なりになる、梅子を放っておいてまでする仕事など無意味であった。梅子への贖罪を決意して船木区長を辞した。そんな父の気持ちを察した梅子は、その夜慎一を元気づけようと父の背に小さな手を当て撫でた。その仕草に相好を崩して喜ぶ慎一、それを見て梅子は肩をもみ背中をなでて父の反応をうかがった。幼い梅子の心根が嬉しい慎一、せめてもの報恩に手応えを感じる梅子、父娘間を優しい時が流れた。

しかし元来努力家の慎一である。まもなく梅子を介抱する手順が定まり、四六時中ついて世話する必要がなくなると、自立心旺盛な梅子の邪魔にならないように、貧しくて学校に行けない子らに学びを提供する塾を開いた。

慎一のように謹厳実直を地で行くような存在は勅子にとっても励みになる。勅子も着実に段階を上げて勇往邁進していた。次は上質な学力を付けた子供達の育成である。そして県の教育機関を司る歴々に披露し船木女児学校の格上げを計らねばならない。勅子の目指した誇り高きレディーの育成、早いピッチで目標に近付きつつあった。

教育への情熱、それを形にして示すため訓導の一ヵ月の俸禄四円の中から嗜好品の一切を断ち、徹之祐への贖罪の意識もあって空腹をしのぐだけの粗食に耐えて徹之祐の食費にまわし、さらにその中からこつこつ貯めた三円を県の学資金にと、授業生、生徒と共に船木から山口まで徒歩で教育会議に出席して献金した。県の関係者はこれには大いに感激した。勉学指導のみならず日夜寝食を共にしての指導には並々ならぬ苦労があることは誰の目にも明らかだった。それが正当に評価されたのである。県は感謝状を授与した。勅子はこれを一番に慎一に伝えたかった。この喜びを分かち合えるのは慎一をおいて他にはいない。勿論元美も報せが届けば喜ぶには違いないことは承知していたから建前として一番に知らせたが、やはり真っ先知らせたかったのは同士の慎一だった。この輝かしい業績は教育関係者ばかりでなく近隣集落にも広まった。続いて悲願の新校舎建設の認可が下りた。県から三百六十円の補助金の出資も約束された。

さらに忙しくなった。とても三百六十円程度の補助金で希望通りの校舎が立ちはしない。早速金のある有志に学校建設の趣旨を説明して寄付を頼んで歩かねばならない。勅子も勿論だが、慎一にも授業生にも関係者の皆で手分けして一円でも多く資金集めをしなくてはならなかった。県下で最初の女児学校である。県下一にするのだと意気込んだ。陰口を叩く者もいた。没落して金がないから生活費の足しにするのだと。だが実子のいない無欲の勅子の熱意の前にはそんな勘繰り通用しなかった。そんな発想は自身の心が汚いからで勅子の熱意に押されて掻き消された。

寄付は予想を遥かに超えて一四九〇円の寄付金が寄せられた。二階建て、ガラス張り六十二坪の画期的な近代建築の校舎の青写真ができた。授業内容ばかりでなくこの建物に憧れて優秀な子が入学を希望すること間違いなかった。地鎮祭が執り行われ大工仕事が始まった。授業をする勅子の鼻に傍らで木を削るいい香りがした。新築の匂いである。それには木組みをする小気味の良い木槌の音がして、まさに夢かなう過程の心地良い時の流れ、授業にも一層身が入る。

それが明治十一年十月二十日の雲一つない日本晴れのことだった。勅子は念願かなって夢見心地であった。そこへ突然徹之祐の訃報が届けられた。厳しい夏を越し気候は穏やかで過ごしやすくなっていた。病状は快復へ向かうかに見えていた。同じ船でイギリスに渡った旧家臣の岩本勝之助はここのところ音信不通で行方知れずだが、同じく旧家臣の井上省三はドイツ人の嫁を伴って帰国し、軍事や政治について学ぶより先ずは殖産興業で国力を付けることからと目標を変え、日本初の毛織物工業に着手し期待されていた。徹之祐にも本来ならこのような活躍の場が与えられるはずであった。遣れる子だった。その萌芽を摘み取ったのは自分なのだ、自傷の材料はいくらでもあった。後から後から湧いて出た。

気丈な勅子といえども人並み以上に憐情のある女性である。表には出さないが内攻する質である。あまり自分を傷付けないでほしい、しかし慎一もそういうことを上手く表現できない質で、勅子が自力で乗り越えてくれることをじっと祈るように見守るしかなかった。

「わたくしが死ねばよかったのです・・・・。

わたくしは徹殿に取り返しのつかない罪深いことをしてしまいました。」

唯一勅子の漏らした弱音であった。

「今、奥方様に逝かれましては、付いていく者が指針を失ってしまいます。念願かなって学校建設が認可されたというのに、残された者は一体どうすればいいのですか。仮住まいから抜け出して、これからではありませんか。そんな無責任なことをおっしゃるものではありません。

造ったからには日本一の女児学校にしなくてはなりません。優秀な子を集めて一流の子を育てるのです。やがてはその子達の子が、我が国の頭脳となるのですから。

それは一朝一夕にできるものではありません。我々に残された時間は僅かです。そんな中で我々は西洋化していく日本人から日本人としての魂が失われないよう教育し伝えていかねばなりません。知識も勿論ですが、日本人としての心を正しく伝えるに相応しい人は、奥方様をおいて他にはいらっしゃいません。

哀しんでいる間なんかないのです。」

そうであった。自分に残された時間はもうあまりないのだ。これからどれだけことが教えられよう、それには時間はないのだ。

「そうでした。わたくしには、それを全うする責任があるのでした。」

勅子はそれに気付かせてくれた慎一にお礼を言いたかった。だがちょくこもまたそういうことを言い馴れてなくて、心の中で深く頭を下げた。

慎一も弱音一つ吐かないが、家には梅子という一人では用も足せない手の掛かる子がいたのだ。だが梅子はそんな五体不満足な体でありながら、健気に笑い、懸命に生き、慎一に生きる勇気を与えていた。そして幼いながらも慎一の苦しみを心得ていて、毎晩頼みもしないのに肩を揉み背中を撫で足を揉むそうである。勅子もそう聞いては一人塞いでいるわけにはいかなかった。空景気だろうが何だろうが立ち上がり慎一が言ったように知識の伝授に加え、日本人の魂を伝承することが生き残った者の使命なのであった。それからも勅子はがむしゃらに働いた。そしてその合間を縫って勅子は建設現場に立った。

そこに立つといい香りがした。無数の柱から沁み出す瑞々しい木の香りが鼻を突いた。新しい教室で子供達に教える自分の姿もあった。木はまだ生きているような芳しい香りを放った。まるで生命の集合体のようだ。開花させることなく逝ってしまった徹之祐もまるでそこに立って勅子を励ましているようだ。維新に命を賭けた若者もいた。彼等に代わって自分がやり遂げなければならないものが見えた。

授業の手を省くわけにはいかなかった。わずかな油断で足を掬われる、これまで生きてきた中での教訓であった。勅子は自分の持ち得る全知識をすべて子供等に注ぎ込む覚悟であった。だからその姿は何かにとりつかれたようだった。

ゆっくりと流れていた時が急にスピードを上げてきた。

瞬く間に暮がやってきて、子供達を国元に返すことになった。子供達を一人残らず里へ返すと、あの喧騒が嘘のような静けさが勅子を取り巻いた。仕事を何一つ明日に回していなかったので、ぽっかり穴が空いたようにすることがなくなった。押し詰まると大工も仕事を休み、木槌の音も止んで勅子も久しぶり厚狭の居館で正月を越すことにした。

久しぶりの厚狭は厚狭で懐かしい。

もう自分は厚狭の住人ではない、旧知の家を訪ねる客人だと思えば何のわだかまりもなかった。厚狭には英之輔もいたし長年勅子に付き従って働いていた村もいた。近所には呼べば何を置いても駆け付けるジィの二歩俊祐もいた。彼等を思い浮かべれば会ってみたい顔ぶればかりだ。そうなると矢も楯もたまらず一路山陽道を厚狭に向かって歩き出した。

途中降り出した雪は止まなくて断続的に降る。それでも勅子は持ち前の気丈夫で歩き通した。

やはり厚狭は落ち着いた。もう廃藩になって武士ではなくなったけれど子供の時から慣れ親しんできた正月飾りをこれまでのしきたりに則ってしつらえられたのを見ればほっとした。

厚狭で正月を過ごすことにしたのは正解であった。

これまでにない心から楽しい正月であった。何の気兼ねもなく広々とした部屋に一人きりで大きく手足を伸ばして寝たのは何日振りだろう。少しばかり御神酒も入って熟睡した。心地よい疲れが全身を襲ってすぐに意識は遠のき目覚めた時は夜は明けていた。何と気持ちいいのだろう。元美公もこの頃では好きな投網漁に明け暮れて考えることもなくのんびり暮らしていた。禄は途絶えたけれど家臣達への支払いも無くなって収入源を案じる必要も無くなった。昔のよしみで近隣の農家の持ち込む野菜に自分の漁があれば食べる物に事欠くことはなかった。あれこれ欲しがれば金も必要だったが、あるもので我慢すれば生活出来なくはなかった。好きな投網漁で生計の助けになり屋敷の連中が喜べばこれほど報われることはない。大漁の時は懇意にしているジィの二歩俊祐のところにおすそ分けを持って行けば、その夜はそれを肴に宴会である。飲めや歌えで日は経った。だから周囲も厚狭毛利は潤沢に金があるとまでは思わないが、収入を断たれて困窮している元家臣ほどにはないとみていた。現に厚狭毛利の領地を分ける話になった時、昵懇の仲で内情に通じているジィが新政府から秩禄と公債が入りその後殿には小野田セメントの株があるから山の分配は省いてもよかろうということにしたくらいで、元美公は遣り繰りには全く無頓着で無欲なのであった。金は無尽蔵にあるくらいに思っていたかもしれない。元美公に限らずどの武士も骨の髄まで沁み込んでいる意識の改革には苦しみ、そこから這い上がれずに没落していった者も少なくない。

勅子の至福の時もやがては終わりが近付いて、正月六日引き留める元美公に別れを告げた。

元美公は船木に戻れば忙しい勅子が厚狭でくつろぐ様子に満足して、もっとゆっくりしていけばいいとしきりに引き留めるのだが、帰省していた子供等が追々帰り、大工仕事も始まれば受け入れ準備もして置かねばならない、朝の内に勅子は厚狭の居館を発った。

厚狭への帰館は一人だったが、新しく建つ校舎の建築現場の様子を勅子が興奮気味に語れば皆はそれを見たがり付いて行くことになった。英之輔を連れジィを連れ、女中の村まで連れての大人数になった。あれから雪は降り止んでいたが街道とは言え昼間でも伸びた雑木が幾重にも重なっておおい被さり夕闇のような山道を歩いて帰るのだ。ふかふかの腐葉土に雪が(のり)のように粘るぬかるみに、下駄をとられて歩き難くなっていた。雪道を全員転びそうになりながら山道を進み、勅子と村はとうとう一度ずつ思い切り転び、医師の長谷川玄道の家まで来た時駕籠を雇って帰ったほどだった。

だが翌日になって、帰るまでは何事もなかったのにその夜勅子が激しい痙攣(けいれん)を起こし嘔吐し倒れて意識不明の重体になったことを知らせに、二歩俊祐が厚狭の居館にやって来た。

重症の脳溢血であった。その後おぼろげに意識を取り戻したものの左手が叶わず寝たきりで、医師の玄道始め周囲は厚狭へ帰って養生することを勧めたが、勅子は意識が戻ると建設現場から離れることは出来ないと主張して譲らなかった。果ては私は死んでも厚狭には帰らないと言い張る。厚狭での暮らしは短かったが、本能が抑制できないのは学びが足りないとする武家の正室としての葛藤を克服できなかった恥辱が一瞬甦ったのだろう、勅子にしてみれば生涯唯一の汚辱であり苦い思い出しかない所である、骨は船木に埋めて欲しいと言うのだった。

依然意識は朦朧として夢うつつである。だが倒れてから二十日余り経ち一月も終わりとなった頃、勅子の容体は奇跡的に持ち直し筆が持てるまでになった。

だが体から張りつめたものが抜けていく。

これは一体どうしたことだろう。

勅子はこの世に生を受け子を産んだこともなければ何一つ生きた証しを残していない。

生きた証しは学校だけだ。だから学校だけは全うしなければならないのに、体の縛りが解けていく。

すべての力が抜けていく。果たさねばならないのに張り詰めていた責任が消えていく。

しかしもう、何もかもどうでも良かった。すべての欲が体から抜けていく。

だが責任が果たせないなら、せめて言い残して置かねばならなかった。筆を所望した。

最後の力を振り絞り遺書を書き始めた。

その数十五通に及んだ。志半ばにして逝く無念に加えやり残したことの継続を頼む書のどの中にも英之輔のことを頼むのを忘れなかった。勅子は遺書を書き終えると力尽きたかのように筆を落とした。

まだ空は満天の星の冴え渡る明治十二年二月二日の早朝であった。

母が呼び父が呼んだ。

勅子の意識が声のする方角に向かって彷徨い始めた。

やがて一面金銀砂子のかかった花園の、高みに待って迎える文殊菩薩のもとに召されて行った。

                                        終わり

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ