馴れ初めの二十四時間(2)
気がつくと僕は自分の部屋にいた。ひとけが少ないせいか、いつも寒い。毛布の肌触りと温もりが、手放すにはあまりに惜しい。冬場の朝の寝具というのは、何物にも代えがたい宝だと思うし、多くの賛同を得られるんじゃないかと半ば確信している。
カーテンの隙間から薄い日射しが射し込んでいる。いつもの光景、いつもの朝。
それと、鮮烈に記憶に刻まれている、少女。
「夢……」
妙な夢を見た。実のところ、僕は人恋しいのかもしれない。あんなもの、中途半端に都合よく作られた幻想だ。二次元の少女となんら変わりはない。たとえどんなに理想的でも、どんなに人間味があろうと、現実で助けてくれるわけじゃない。
結局のところ、僕が生きなければいけないのはこの現実なんだから。
「さむ……」
今日から十二月。世間はクリスマスに年末年始にと躍起になるんだろう。子供にとっては楽しく、大人にとっては辛い時期。対極の意味で忙しいのだろうが、それもこれも僕には何の関係もない。
惜しみつつも布団を抜け出し、室内用の上着を羽織ってカーテンを開く。
「はぁ……」
息が白い。さすがにそろそろ暖房を入れるべきかもしれないし、一刻も早く学校に行くべきなのかもしれない。どちらにしても僕の寿命が一日縮まるだけ。だったらどちらだっていい。
「ぅん……?」
ふと気づく。
窓の外の世界が、いつもとは違っている。
いや、外だけじゃない。家の中もそうだ。まるで僕の部屋と同じように、静かで人の気配がない。
もう一度外を見る。二階にある僕の部屋から見えるのは、住宅の屋根と通勤に忙しい電車。街のシンボルとして建設された、小さな時計塔。
「人がいない……」
道路にも、住宅の二階にも、家々の庭にも、人間の気配は一つもない。電車は駅のホームで止まっており、いくら待っても動きはしない。ただ、大きな時計の針だけが虚しく回転を続けている。時間を知りたいであろう人間はいないのに。
本当に誰もいないのか……? それとも僕は、まだ夢を見ているのか……?
自分の頬をつねるときちんと痛い……ついさっきもこんな風に確認をした。そして、現実なのか夢なのかがかえって曖昧になったのだ。ちょうど、今のように。
けど、今回は違う。天啓が舞い降りるように、僕は判断材料を悟った。
「あの子は……」
そうだ。これが現実なら、どこかに彼女がいる。非常に癪な話だが、僕はあの変な女を探さなければならないらしい。
夢で見た不思議な少女を探す……そう聞けば劇的な物語の一つでも始まりそうだけど、あんなのを求め、探さなければならないなんて、どんな罰ゲームだろうか。
……仕方ない。僕は外に出られる格好に着替え、自室を後にした。
ちなみに僕は家の外に出ないだけで、自分の部屋で全ての時間を過ごしてきたわけじゃない。食事はきちんと食卓で摂るし、風呂も行く。当然、トイレが部屋にあるわけでもない。だからこの廊下の寒さも、靴下の上から足の裏を刺す冷たさも、久しぶりでもなんでもない。
階段を下りていく。
徐々に、徐々に。一歩ごと一歩ごと、それが嗅覚を刺激する。炊き立てのご飯と、味噌汁の匂いだ。他の料理の香りもしないではないけれど、それらを真っ先に感じる。そして耳に届く、油の跳ねる音。
本当なら警戒して然るべき状況なのに、身体は勝手に安堵を覚え、精神は彼女の存在を予感していた。彼女であってほしいと一瞬でも願ってしまったのは、僕の一生の不覚だ。
台所に近づくにつれ、調理の音ではない何かが混じり始める。
「……歌?」
どうやら、歌で間違いない。それも、僕がよく聴いていた曲だ。ただ、それとはだいぶ声質が違うようだけど。
歌に惹かれるようにして歩を進めれば、はたしてその人物はそこにいた。
黒いセーラー服の少女。背を向けている彼女は人様の家の食材を勝手に使い、勝手に料理をしている。エプロンをしているのは本来褒めるべき点なのだろうが、それも他人の物を勝手に着用しているに過ぎない。
僕は低く言う。
「……何してる」
「おはようございます。見ての通り、朝食を作っています」
軽く振り返り、こともなげに言う少女。
「それはわかってる。なんで君が家にいて、朝食なんか作ってるんだ。しかも我が物顔で」
「私は、朝食をきちんと摂ることを推奨しているからです」
どうやら彼女は、それで答えたつもりらしかった。問答は終わりだと言わんばかりに再び調理に戻る。僕はため息を引き連れて食卓につき、頬杖を追加する。これとまともにコミュニケーションを取ろうとするのは、やめる方が賢い選択なのかもしれない。
とはいえ。
母親が僕の為に作ってくれることに比べれば、少なくとも見た目だけは可愛い少女が僕の為に朝食を作ってくれているというのは悪くない。
機嫌よく歌を口ずさむ背を見られるのも同じく。残念なことに、正面に回ると無表情なのだろうが。
「こんなところですね」
彼女はフライパンの上の何かを皿に乗せ、白飯と味噌汁をよそって、三つの食器を器用に持って僕の前に並べる。おかずはシンプルに目玉焼きとウインナーだ。
冷蔵庫を開け、醤油を取り出す。目玉焼きに何をかけるか、というのは派閥が存在し、しばしば議論が起きるらしいが、僕は醤油派。悔しいが、彼女の判断は正解だ。
「どうぞ」
「……ありがとう」
礼を言わないのはさすがに子供っぽい。
僕の言葉を聞き届けた彼女は淡々と自分の分も用意し始める。無論、僕は待ちの姿勢。二人前の料理が出揃ったところで、少女は抑揚のない声で言った。
「では、いただきましょう」
「ちょっと待った」
「何かお気に召しませんでしたか?」
そうだけど、そうじゃない。
僕は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。目的のものを探し……思った通り、それはそこにきちんと存在していた。
「あった」
「それは?」
「ポテトサラダ」
昨夜作って、冷蔵庫に入れた記憶は正しかったらしい。ラップをはがし、ひと欠片つまんで口に入れる。……大丈夫。昨日のままだ。
それを食卓の真ん中に。少女はじっと僕の手元を追い、最終的にサラダを見つめる。
「野菜がないのはよくないだろ」
「そうですね」
僕とは目も合わせない。そんなに珍しいものでもなかろうに。
無視して「いただきます」を言い、勝手に食べ始める。一拍遅れで、彼女も。だが、ポテトサラダを食べていない時であっても、視線は一々テーブルの真ん中へ送られている。……文句があるなら言えよ。
そう思っていると、
「これは、あなたが?」
問われた。僕が作ったのか、という意味だろう。
「そうだけど。美味しくなかった?」
「いえ。美味しいです」
「それはどうも」
じゃあなんだ。食事の手は止めることなく、僕は少し悩む。君の作った料理も美味しいと言うべきか否か。結論が出るより早く、彼女の方が続きを放った。
「意外に思ったものですから」
「意外? 僕が作ったことが?」
「いえ」
僕だって料理くらいする。むしろ、家にいる時間が長い分、それくらいしかやることもない。不思議なことはない。
彼女の目が、まっすぐ僕を射抜く。
「死にたいと言いながら、健康には気を遣うことがです」
「……」
答えようがなかった。たった今言われるまで、まるで気づかなかったからだ。
思わず手を止めた僕に、彼女は無感情そうな声で言った。
「私は嬉しいです」
僕は憮然。彼女もそれ以上何も言うようなことはなく、食事を再開した。
僕は、どうしたいんだ。死にたいんじゃなかったのか。それとも……。
「あの」
「……ん?」
じっと僕を見る視線。この少女に見詰められると、応じざるを得ないような錯覚を覚える。どこか人間的ではないからかもしれないし、見た目だけはいいからかもしれない。
「食べないのでしたら、私にいただけないでしょうか」
「食い意地張ってるのな。プログラムって言ってたくせに」
そう言えば。プログラムってことは、この少女は人工知能だとか、アンドロイドだとか、そういうものなんだろうか。
「人の身体で食事を摂るというのは初めてですから」
「……これは僕の分だから、おかわりが欲しいなら自分で作ってくれ」
「わかりました」
料理が出来るのに、食事はしたことがないというのは奇妙な話だ。もっとも、そんなことが些末に感じられるほどには彼女自体が奇妙なのだが。
僕は食事を続けつつ、再び料理を始めた背中を改めて観察してみる。
黒いセーラー服は相変わらず既視感。思い出せないのは変わらないが、心惹かれるデザインをしている。背丈は僕とほとんど変わらないが、僕の方がやや高い。清流のように流れる黒髪は腰に届くかどうかという長さがあって、この寒いのに白磁のように白い生足を晒しているのは、実に学生らしいと思う。
何度見ても、最終的に抱く感想は同じだ。あまりに、あまりに僕の好みと合致し過ぎている。一周回って寒気すら覚えるほどに。あくまでも見た目だけに限って言えば、僕の理想をそのまま持ってきている。中身は人間としてズレているが、完璧なルックスといいバランスを取っているようにも思えてくるから不思議だ。
自称プログラム。僕の不具合を修正するために現れ、何故かこうして朝食を共にしている。
おかしな状況であることは間違いないが、彼女にどこか興味を抱き始めていることもまた、否めなかった。
「あなたもおかわりしますか?」
「な……っ!」
彼女が不意に振り返り、僕に問う。なんてことはない質問。なんてことはないセリフのはずなのに、僕は息を呑み、戸惑う。熱が顔に集まるような感覚に焦り、言い訳を探す。
「どうされたのですか? お身体の調子でも?」
「い、いや、なんでもない。ちょっと悩んだだけ。お味噌汁とご飯だけもらう」
「そうですか」
タイミング悪く彼女のことを考えていたのと、あれがノーモーションで話しかけてきたのと、あのルックスのせいだ。エプロンをして、料理をしながら、僕のことを「あなた」なんて……そういう意味じゃないのはわかっているけど、僕は心乱されている。男というのは、かくも単純な生き物だ。
だから、彼女が脈絡のない話題転換をしてきたことは、この時に限っては実にありがたかった。
「意外と言えば、あなたが私と過ごすことを選んだのも少し意外です」
「……は? 僕はそんなこと望んでないぞ」
「そんなはずはありません。そうでなければ、私はここにいませんから」
そう……なのだろうか。
混乱する。さっきのこともそうだ。僕が本心だと思っていることは、本心じゃないのか? 何が本当の望みで、どうしたいんだ?
結局、僕のことを一番理解していないのは僕自身なのかもしれなかった。
少女は僕の対面に座る。僕には味噌汁とご飯を。彼女自身はそれに加えてスクランブルエッグを。僕は逃げるように味噌汁をすすった。
「なあ、どうして誰もいないんだ?」
「あなたが望んだのがそういう世界だからです。あなたは、人が怖いのでしょう?」
ああ、怖いとも。
今度は自分の認識ときちんと一致していて、余計にわからなくなる。
「ですから、ここには私とあなたの二人だけです。これから一ヵ月間」
「一ヵ月……一ヵ月、君と暮らすのか」
「はい。あなたの不具合を直すために」
不具合、ね。
死にたいと思うのが生き物として間違っているという彼女の理屈はわかる。けど、それを修正しなきゃいけないというのは納得できなかった。僕の人生経験が浅いからかもしれないし、何か別の理由があるのかもしれない。
「どうして生き物は生きなきゃいけないと思う?」
「哲学は苦手です」
「僕だって哲学なんか知らない。君がどう思ってるのかを聞きたい」
この、不思議な少女の考えを。
思った通り、彼女は即座に回答をくれた。
「生物全般に関して言えば、生きる為に生み出された存在自身が生きることを否定するのは、システムの不具合、あるいは故障です。定められたプログラムを実行していないのなら、廃棄よりも先に修正するのが道理でしょう?」
おおよそ聞いた内容だ。彼女にとって命を自ら絶つというのはバグのようなものらしい。人と物が同列に扱われているような物言いだが、不思議と不快感はない。僕が自分自身に価値を見出せていないからかもしれないし、命は尊いだとか、人間として大事なものがどうだとか、うんざりするような綺麗事を並べていないからかもしれなかった。
「ですが」
逆接。
「あなたに関して言えば、私がそう望むからです」
「君が?」
「私はあなたにまだ死んでほしくありません。だから、生きているべきです」
「自分勝手な理屈だ」
僕も彼女も、いつしか食事は終えていた。ようやく陽が昇り始め、明るさを増していく。この分なら今日は晴れるだろう。
それから、少女は言った。
「私のエゴですから」




