君の気持ちと一時間(1)
肌寒い朝だった。
刺すような寒気が僕を寂しい気持ちにさせる。カーテンを開ければ、動くことを止めた観覧車が出迎える。それも、この二日間とは違って、なんだか優しげに見えた。
今日。そう、今日だ。彼女が目を覚ます予定なのは。宣言通り丸二日目を覚まさなかった彼女は、今なお眠りから覚めてはいない。
訊きたいことも、言いたいこともたくさんある。冬の中に取り残された僕は多くを思い、何とかして全てを伝えようと思った。
けれど、考えれば考えるほど伝えきれないほどの想いが溢れてきてしまって、到底僕なんかでは表現しきれないし、増えすぎた気持ちと言葉のどれもこれもが、まるで量産されたサンプルのような、僕のものではないような気がしてしまって、結局、本当に言いたいことなんか一つ二つしかないんだと気づいた。
とはいえ、眠ったままではそれを伝えることもままならない。幸い、無理矢理でもなく、自然に起こす方法は知っていたから、あとはそれを実行するだけだ。
「今日は何を作るかな……」
僕は、この子の好きなものさえ知らないけれど。
~~~
「おはよう」
米を炊いたり、食材の確認を済ませた僕が戻って来てみれば、思った通り。
セーラーの少女は不思議そうに室内を見回していたが、僕が戻ったことに気づくと気丈を装って口を開いた。
「おはようございます」
声が少し掠れているのは、二日間何も飲んでいないからだろう。状況が呑み込めていない風に瞳が揺らいでいたが、有無を言わさずペットボトルの水を渡す。それくらいのことはお見通しだ。
意図を察したのか、あるいは喉の渇きに我慢ならなかったのかもしれないが、彼女は一気に半分ほどを飲み干し、一息を吐いた。
「気分は?」
「良好です。ですが、ここはどこですか? 何故私はここにいるのでしょう?」
無機質ながら、どこか温かみがあるように感じるのはどうしてだろうか。もう一人の少女も、最後にはずっとずっと人間らしかったと思うのに。
「三日前、観覧車の中で熱を出した君は気を失った。それから寝込んでて、今に至る」
カーテンを指して、大きな観覧車の姿を認識させる。すると彼女は視線を落として呟いた。
「……ごめんなさい」
「まぁ、それよりも朝飯だろ。何が食べたい?」
「あなたが作るものなら、なんでも」
遠慮も逡巡もない即答に、思わず顔が綻ぶ。君らしい。そういうところはすごく君らしいと思う。よほど空腹なのもあるだろうけど。
僕が適当なものを手早く作って応えようと背を向けると、ごそごそと布の音。振り返れば、さも当然と言わんばかりの態度で少女はベッドから抜け出していた。
……着いてくるのか?
「ダメと言われたら行きません」
「いや、別に」
一歩先を歩く僕の背が、小さく摘ままれる。
寂しいのだろうか。あるいは三日間の空白を埋めるようなものなのかもしれない。
けれど、それもこれも僕にはわからなかった。彼女の口からは何一つ聞いちゃいないし、思わせぶりな態度を取ることで何かを仕組んでいるのかもしれない。それこそ、この子に自我のようなものを与えた神とやらに何か吹き込まれているのかもしれないし、ずっと近くで見てきた僕のことが大嫌いで、無理に生かすことで暗い人生を歩ませようとしているのかもしれない。
そこまで行ってしまうともはや疑心暗鬼だと言わざるを得ないが、何も聞かされていない状態では何を信じればいいのか、この子を信じていいのかさえわからないのも事実だった。
……でもそれも、今日で終わりだ。
寒い寒い廊下を抜けて、もはや行き慣れた調理場へと歩んでいく。背後から何か言いたげな気配を感じたものの、何も言ってこない以上、無視した。
なんとなしに味噌汁を作ることにする。それから、目玉焼きとウインナー。
冷蔵庫から、昨夜の内に作っておいたポテトサラダを取り出す。
「どうせご飯炊けるまで時間あるから、これでも食べて待っててくれ」
「……はい」
僕がロクに説明もせずにいるせいか、戸惑ったままの彼女はちょっとしおらしい。それでももしゃもしゃと食べ始める辺り、どうやら本当に戻ってきたようだ。
背を向けて、湯を沸かしながら問う。直球で。
「君は何を隠してる?」
音が止んだ。続ける。
「君が寝てる間、代替人格って子が出てきて教えてくれた。君が僕の長年寄り添ってきたスマホだってこととか、何かの目的があって僕をこの世界に呼び寄せたこととか」
いくらかの沈黙の後、彼女はポツリと呟いた。
「……本当は、あの観覧車の中で言うつもりでした」
今度は僕が黙る番だ。
「確かに私はあなたの持ち物です。所有物は、持ち主の意思にない行動を取ることは出来ません。ですが私は、それらを無視出来ることを隠し、あたかも最初から自由意思を持つ個体であったかのように振る舞っていたのです」
「なんで隠してた?」
一息を空けた。が、行く。
「裏があったからか?」
「それは違います!」
珍しく、声を荒らげる。こんなにも取り乱した声音を、僕は今までの人生で聞いた記憶がない。よほど癇に障ったのだろう。
罪悪感が胸を占めた。だから、振り返ることは、出来なかった。
「……ごめん」
「……いえ、そう思われても仕方ありません。何も告げずにいたのは、私の方なのですから」
訪れる静寂に、深呼吸の色が見えた。それから、空になった食器をシンクに置く彼女が視界の端に映る。
そうして、何かを整理するように瞬いて、言った。
「私という意識が生まれたのは、つい最近のことでした。誰の目にも映らない、いわば魂だけの幽霊のような存在。機械の中にいた頃とは少し違う、外の世界が見られる存在。幸運にも人間の心を得た私は、初めて知りました。嬉しいと思う気持ちや、幸せだという気持ち。あなたが私を使ってくれるだけで、それをすぐ近くで感じて、眺めていられるだけで、すごく嬉しかった」
それは、あまりにも小さな幸福だと、僕は思った。
だって、僕は何度か独り言のように呟いていたのだから。もう替え時かな、いい加減寿命だろうし、交換しないとな……明確な時期こそ決めちゃいなかったけど、自分が捨てられることを聞いていなかったわけじゃないはずなのに。
ごめん。そう伝えるには、胸が痛すぎた。
「ですが同時に、気づいたのです。この人は今、とても苦しんでいる。私の記憶の中にある声はあんなにも幸せに溢れていたのに、今では死んでしまいたい、消えてしまいたいと願うばかり。……おこがましいことですが、私は願ってしまいました」
「……何を?」
「この人を、幸せにしてあげたい……そんなことを」
そっと、髪に触れる感触があった。頭を撫でられているのだと気づくのに、時間は要らない。
「そうしたら、神様がチャンスをくれたのです。一ヵ月間、私とあなただけの世界を創ってくれると。その時間を使って、あなたと触れ合ってみたらどうかと」
「……」
「限られた時間の中ですが、あなたにもう一度笑って生きてもらえるなら……そう考え、私は願いを叶えてもらったのです。……実は、今でも少し信じられません。こんな素敵な感情をもらえただけでも奇跡なのに、二度も奇跡を受け取っていいだなんて」
少女の白く細い指で、鍋にかけていた火が止められる。もうずっと前から、僕は料理なんかしちゃいなかった。
二日間ずっと寝ていたせいだろうか。シャンプーや石鹸の匂いではない、彼女本来の香りがした。不思議と、不愉快じゃなかった。
「なんで隠してたんだ? 別に隠すようなことじゃないだろ」
僕の当然のような問いに、顔の見えない少女は当然のように答えた。
「隠すようなことですよ」
「どこが」
「……恥ずかしいじゃないですか」
抱きしめるかのように、腕が回される。胸元に降りてきた腕に、僕は抱くように触れた。
「不具合がどうこう言っておきながら、本当におかしかったのは私の方なんですから」
そういえば、もう一人のこの子も言っていた。ユーザーの求める以外のことを望むなんて、不具合でしかないと。尽くすようにしか造られていないから。だから、求めてはならないのだと。
縋るように僕を抱く少女は、ひどく震えていた。息も荒く、心も震えているのだろうと、想像に難くない。
「……実はもう一つ、事実があります。神様に教えてもらった、未来のカンニングです」
「未来?」
腕に込められる力が、ぎゅっと強くなった。勇気づけるように握り返してもよかった……いや、そうするべきだったのだろうけど、僕には出来なかった。
苦しさを吐き出すように、強引に絞り出すように、彼女は言った。
「……あの方のことです」
「……」
「あの方は優しく、本当に強い方です。心を落ち着けたあなたが誠実に謝って、また関わりを持つと、やがてお二人は再び惹かれ合います。磁石のように、最初から相手の決まっている二枚貝であるように、何度ケンカをして、何度離れそうになっても、どちらかが諦めていなければ、また惹かれ合う……お二人は、そんな運命の相手とも呼べる存在なんだそうです」
あの子の記憶がなくなっている今、僕の方にしかその選択権はない。きっと、謝りもしていない今はまだ、僕のことをただ怖いだけの人だと思っているだろうから。
もう、長いこと会っていないのに。それでも縁が切れていないと言うのだろうか。さぞ太くて丈夫な赤い糸なのだろう。
「ですから、諦めないで生きてください。いいことがあるかもしれない、という気休めではありません。あなたの人生は、よくなるんです」
「……観覧車で言おうとしてたことっていうのは、それで全部か?」
確認に対して、ほんの少し、沈黙。
「……はい」
「そうか。じゃあ、僕からもいいかな。実は僕もあの日、言おうと思ってたことがあって」
手を取り、彼女の顔を一瞥してから歩き出す。一瞬では表情は読み取れなかった。
「あの、どちらへ?」
「観覧車」
「今からですか? 朝食もまだですが……」
君は食べただろう? それに戻ってきたらちゃんと作るから。
そう言って納得させたが、怪訝な声音だったということを添えておこうと思う。
あっという間に外に出る。陽も高くない時間帯では体感温度も下がり、余計に冷え込んで感じる。園内はやはりうるさく、喧しく囃し立てることで僕達を拒んでいるようにさえ見えた。
観覧車の真下。
観覧車はいい。言うべきことを後押ししてくれるから。伝えたい者の背中を押してくれる、実に優しいアトラクションだ。
「今から観覧車に二周乗る」
「二周、ですか?」
首を傾げる。僕にとっては二周することに何の不思議もないけれど。
「いいか?」
「はい。構いません」
君はそう言うと思った。
想いを秘めたまま、僕達は乗り込んだ。




