2.
「何をしている?」
冷たい声が背後から聞こえると声をかけられた少年は、ぎゅっとその身体を強張らせた。食事を満足に与えられないこの孤児院では、お腹を空かせた子供が夜陰に紛れ食べ物を探す。
「あ……あの……昨日から何も食べていなくて……」
必死に言い訳する少年の顔は、すでに恐怖で引きつり絶望したかのように青ざめている。その青ざめた少年に冷たい目を向ける男の拳が振り上げられた。青ざめた少年が、男の拳に殴られると覚悟し目を閉じた時、「バシ!」っと言う音が少年の耳に届いた。
「エリック……」
目を開けると少年の前で少年が受けるはずだった男の拳を代わりに受け止めていたのは、エリックと呼ばれる同じ孤児院で生活する少年だ。
「何のつもりだ? エリック……」
「ディーンは、昨日の朝から何も食べていません。食事は最低でも1日に1回は当たるはずです」
殴られたせいで、口を切ったのか血の味がしたエリックは口をぬぐった。
「罰を与えたのだ。当然の事だろう」
孤児院の中で日常的に行われる虐待とも思える罰。子供たちのほんのわずかの失敗も許さないフェルガノ院長は、食事の時にスプーンを落としただけでもきつい罰を子供に与える。ディーンは、昨日、庭掃除をしていた時に誤って鉢を1つ落とし割ってしまった事を責められ、丸1日食事を与えられなかった。
「すでに1日は過ぎています」
確かにすでに日付は変わっている。だが、エリックの言っている事は屁理屈に近い。
「おまえにも罰を与える必要があるな」
エリックの態度にいらつくフェルガノ院長は、再び拳を握る。あまり顔を殴ると孤児院の外に出られなくなるのでフェルガノ院長が殴るのは、いつも目立たない腹や太ももと言った場所だ。
殴り、蹴る度にエリックの身体が大きく弾む。ディーンはそれを床で震えてみている事しかできなかった。
どれだけ殴られたかわからないほど殴打されたエリックの身体は、すでに痣だらけで自分だけで立っている事ができない状態だ。
殴りつかれたのか満足したのかはわからないが、ぐったりとするエリックを一度引き起こしてから床に投げ捨てるように転がすと
「私に口答えをするからだ。おいディーン!」
「は、はい」
「こいつを部屋に運んでおけ」
殴ったときに手を痛めたのかしきりにフェルガノは拳を撫でる。ディーンは震えながらフェルガノ院長が部屋を出るのを待った。
「エ、エリック大丈夫! エリック!」
ディーンがいくら声をかけてもエリックが目を覚ます事はない。エリックはそれくらいひどく殴られていた。こんなにもなってまでなぜ自分を助けるのかディーンにはわからなかった。
「父さん! 母さんが!」
「エリック! 隠れていろ外は危ない!」
「でも母さんが!」
今、街はパニックになっており、往来を右往左往する人でごった返している。父親は、自宅にあった剣を握って外へ出た。
「がああああああ!」
そして、往来で吠えるように暴れるのは、人類の敵である悪魔。近づく者や逃げ惑う者を容赦なく手当たり次第に殴り飛ばしていく。
その中に小さな子供を庇うように身を伏せる女性がいる。そう、エリックの母親であるマリーが、悪魔から近所の小さな子供を守ろうとしている。
「母さん! 危ないよ」
エリックが、家の窓から顔を出し、母親に声をかける。
「エリック! だめよ家の中でおとなしくしていなさい!」
言う事を守らず窓から顔を出すエリックを叱り、マリーは、助けた子供を側にいたその子の母親に届けるとエリックの元へ走った。
「えっ?」
エリックが大声を出したせいで、悪魔の視線がエリックに向けられる。すでに悪魔は、エリックを標的として歩き始めていた。身の丈3mはあろうかと言う巨体を揺らすようにエリックに歩み寄る悪魔は、まるで巨大な熊のように見えた。エリックは、まるで蛇に睨まれた蛙のように言葉すら発することができない。
そして、振り下ろされる太い腕が、エリックの頭上に到達せんとしたとき
「だめっ!」
エリックをかばうように飛び込んだマリーが、エリックが受ける予定だった悪魔のこぶしをその身に受ける。突き飛ばされたおかげでその拳を受けずにすんだエリックは床を数回、転がっただけだが、エリックを突き飛ばしたマリーはそうはいかなかった。
「か、母さん!」
「マリー!」
エリックが叫んだとき、外から戻ったエリックの父親が、悪魔の背中に突き刺した。
「ぐがああああ!」
悪魔は、突き刺さった剣を元ともせずに背中に張り付いた父親を吹き飛ばすように暴れる。悪魔の背中には、父親が刺した剣がまだ残っていた…そしてエリックの意識はここで途切れる。
エリックが見る悪夢のような過去。エリックはこの夢を見る度に胸が締め付けられ涙があふれる。
エリックが目を覚ますとそこはいつもの自分の部屋で、ただの木の板と言ったほうが早いぐらい粗末な孤児院の寝台の上だった。
エリックが涙を拭おうと右手を動かすとその手を握るようにそばで寝ていたディーンに気づく。エリックは起き上がろうとするが、全身に強い痛みが走る。
「くっ!」
あまりの痛みに声が漏れた。エリックの声に気が付いたのか目を覚ましたディーンが、
「エ、エリック! 大丈夫かい?」
エリックは、とても大丈夫とは言えない身体だったが、これ以上ディーンに心配をかけたくもなかった
「だ、大丈夫だよ」
無理してそう言っただけでエリックのあばらが痛む。ひょっとするとどこか折れているのかもしれないとエリックは思った。
「ディーンは無事だったのかい?」
「僕は君のおかげで無事だよ。それよりも君は2日も寝たままだったんだよ」
「そ、そうか。2日も寝てたんだ。なら院長先生にまた殴られるな」
孤児院のルールは院長が決める。孤児院の仕事をしない者には、必ず罰が与えらえるのだ。それは、病にかかっていようが、ケガをしてようが関係なくあの院長はそれを許すことはない。ディーンもそれがわかっているのか俯いてしまった。
「大丈夫だよ。さすがに殺されはしないだろうさ」
2人はもしかしたらとも考えたが、それは全力で否定したかった。
「あ……起きたら。院長室に来いって……」
「そうだろうね。じゃあ。もう一度眠りにつくかもしれないけど院長室に行ってくるよ」
エリックは、覚悟を決めて起き上がる。身体中から一斉に悲鳴が聞こえたが、ベッドからようやく立ち上がったエリックは、重い足取りでふらふらと院長室に向かって歩いた。何もかも重く感じたが、覚悟を決めてドアをノックする。
「エリック・アネルカです」
「入れ」
院長の無機質で冷たい声に一瞬入室をためらったが、エリックは覚悟して重いドアを開ける。
「ずいぶんと寝ていたみたいだな」
その眠りにつけたのは、目の前のフェルガノ院長なんだとは言えず…黙って俯いた。
「まあいい。お前には仕事を与える。この荷物を今日中にアルティール様のお屋敷に届けろ」
「アルティール様?」
「サンルー教会の場所はわかるな?その教会の裏手にある大きなお屋敷だ」
「わかりました」
殴られると思って覚悟して部屋に入ったエリックにとってこの仕事は予想外の物だった。ひょっとするとフェルガノ院長は、殴りすぎた事を気にしているのかもしれないともエリックは考えた。
フェルガノ院長から荷物を手渡されるとエリックは慎重に荷物を抱きかかえる。
「絶対に中身は見るな。それとその荷物は大切な物だ。間違いなくアルティール様のところへ届けろ」
フェルガノ院長が、せかすように部屋からエリックを追い出した。荷物を持たされたエリックは院長室を出るとそのまま痛む身体に鞭を振り、お使いへと出かける。
時折、院長の指示で街へお使いに行かされるエリックにとって、お使いはそれほど難しい仕事ではない。
「それにしてもしばらくぶりの街だな」
院長の許可がなければ街へ行くことは許されないエリックは、街並みを見ながら大通りを歩く。教会までは歩いて1時間くらいの距離だ。街にはスリもいるので注意が必要だが、往来で荷物を奪うような馬鹿な真似をする者はさすがにいない。
それでも失敗が許されない以上、エリックは簡単なお使いでも慎重にならざるを得ない。本当ならゆっくりと街の様子を見て歩きたいのだが、今日は寄り道することもなくお使いを済ませたい。そもそもさっさとお使いを済ませて帰り道で街の様子を見れば良いのだ。
大通りを進むエリックの正面から綺麗な服を着た少女が、メイドらしい女性を連れて歩いてくるのが見えた。服装やメイドの様子から貴族なのだろうとエリックは考えた。そして余計なトラブルに巻き込まれないように道の端のさらに端へと移動して2人が通り過ぎるのを待つ。
だが、そこには通り過ぎた2人の後ろを歩くおかしな行動をとる男の姿があった。目深にかぶった帽子、顔を隠すように下を向いて歩くが、時折顔をあげては前を歩く2人に視線をおくり何かを確認するように歩いていく。
まさか日中の大通りで想像したような事が起こるはずもないと自分に言い聞かせたエリックが、お使いに戻ろうとした時、そのまさかが目の前で起こった。
「おい! こっちへ来い」
「何をするのです。おやめください」
「いや!」
「うるさい! だまってついて来い!」
静止しようとするメイドを払うように転ばすと、帽子の男が嫌がる少女の腕を無理やりつかむ。周囲の者も白昼の出来事に目を向けるが誰も動こうとしない。
男の手の平が少女の顔を払う。
「パシッ!」
乾いた音が響きわたる。
「黙ってついて来いと言ってるだろう」
男は周囲の目を気にすることもなく暴力に訴える。少女も顔を殴られた事で気が動転しているのか抵抗もできずに掴まれた腕を引きずられるように裏路地へと連れ込まれていく。
「け、憲兵を呼ぶんだ」
大人の男がそう声を出したが誰も動こうとしない。今から憲兵を探しても少女はすでに連れ去られた後だろう。大切な荷物を届ける仕事は絶対だ。もし、失敗しようものなら自分の命すら保証できない。だけど…
「それじゃ昔と同じだ」
エリックは、荷物を側の茂みに隠すと走りだした。もう痛みなんて言ってられない。裏路地に走るとそこには、抵抗を続ける少女の姿があった。




