Stargazer - Part 6
◆ ◆ ◆
ロイと"溶岩の士師"ヴォルクスが戦闘開始した頃――。
アオイデュアの一画にある、地上20階を越える高層ビルの屋上にて。隅に座って脚を宙にブラブラさせながら、ぼんやりと都市の有様を眺めている青年がいる。
漆黒の長髪に独特の民族衣装、穏和な表情を浮かべる彼は、星撒部2年生のイェルグ・ディープアーである。
真紅の空の下に広がるのは、散々たる有様である。獄炎の天使たちによって"これでもか!"というほどに燃やし尽くされた都市は、魔力の炎によってコンクリートまで燃焼され、鉄骨が剥き出しになった建築物の骸ばかりが目立つ。イェルグが座るビルもまた、その例に漏れない。鉄骨が高温によって歪んでいるため、火災による熱風に煽られる度に、ギシギシと金属の悲鳴をあげながら、不安定にグラグラと揺れ動く。
しかしイェルグは、揺れに動じることなく、笑みさえたたえる涼しい顔で、都市観賞を楽しむ。
「んー、思った以上に地上は落ち着いてきたねぇ。この分なら、そろそろ火災は落ち着くかな」
欠伸でもするような呑気な口調で独りごちる。都市は確かに散々な有様だが、彼の言う通り、炎禍の鮮紅も黒煙もほとんど見あたらない。
「大和とノーラちゃんにペアを組ませたのは、大正解だったなぁ。
そもそも、初めての災害対応だってのに、ノーラちゃんはホントよく働いてくれたもんだ。ロイが気に入った相手だから、実力者だとは予想してたけど…まさか、ここまでとはねぇ。
しかも、初体験で士師まで斃しちゃうなんてねぇ」
感心のあまりに、話し相手もいないというのに、腕を組んで頷く仕草すら見せる。随分な余裕だ。
――彼は、ロイと共に都市上空を暴れ回る天使たちと交戦していたはず。それが、こんな風に遊んでいて良いのか? そもそも、ノーラに加勢しに行ったロイであるが、彼は任務を放棄して問題なかったのか?
その答えは、もちろん、イエスである。ロイとイェルグの活躍により、天空に飛蝗のごとくひしめいていた天使どもは、大幅に戦力を減らしたのである。以前は天使の群が薄雲のように空の一画にたなびていたものだが、今では禍々しい真紅の天空を晴れ晴れと見渡すことが出来る。
とは言え、天使は全滅したワケではない。
丁度今のように…ふらりとイェルグの頭上から数匹の天使が舞い降りて来ると、憎き敵を焼殺すべく、円弧状の腕翼に沿って速やかに幾つもの炎弾を生成する。
これに対してイェルグは、困ったような、呆れたような乾いた笑みを浮かべ、頭をポリポリと掻く。そして、天使たちが炎弾を万全の状態まで形成し終えるのを待たずに、右腕を軽く延ばす。そして、どこへともない方向に対して人差し指を延ばすと――指の先端に、小さな小さな漆黒の嵐雲が生成される。嵐雲は極小の体積に見合わぬ盛大な雷鳴をゴロゴロと轟かせたと思うと、バァンッ! と大気分子の破裂音をまき散らしながら、強烈な青白光を放つ霹靂を解放。強烈な電子流は大蛇のように曲がりくねりながら、天使たちを結ぶような経路を辿って大気を疾駆し、彼らの体を貫く。
一呼吸も終わらぬほどの転瞬の後、大電流に全身を蝕まれた天使たちの体は、ただちに羽根状の術式へと分解を始める。偉大なる大自然の暴力に、イェルグの魔力が加算された攻撃は、天使を構築する『神法』を易々と凌駕してしまったのだ。
イェルグはこんな調子で、大量の天使たちを広範囲攻撃によって羽虫のごとく、ことごとく蹴散らして来たのだ。天使たちが数を激減させたのは、無理もないことだろう。
天使たちを軽く片づけたイェルグは、何事もなかったように都市を眺める作業(?)に戻る。彼が見つめる先にあるのは、ノーラたちが激闘を繰り広げているコンサートホールだ。
「まっ、ロイが加勢したことだし、新しく湧いてきた士師のヤツは大した問題じゃないだろ。
火災も収まりつつあるし、天使も数を減らしてる。この災厄も、そろそろ終わる――」
と、言い切ろうとしたが、イェルグは眉をひそめる。そして、恒星表面の地獄の様相を見せる天国を視界に捉えると、目つきをさらに鋭いものにする。
「――はずなんだが…。
"獄炎"のおばさんの影響は、いまだ衰えることなく健在…か。
それに…」
イェルグはクンクン、と大気の匂い――彼に言わせれば「空の匂い」なのだという――を嗅ぐ。常人が嗅いだところで恐らくは、大規模の火災が残した焦げ臭さした感じないだろうが…彼は、その他の"何か"を感じ取り、表情を怪訝そうに歪める。
「…この厭な感じ…さっきよりも強烈に臭ってきやがる。
オレはそろそろ、静かな空で遊びたいんだが…どうにも、まだまだそうはいかないようだ」
はぁ、と深くため息を吐いたイェルグは、民族衣装の奥に収めていた通信端末、ナビットを取り出す。そのタッチディスプレイを素早く操作しながら、疲れたような、面倒くさそうな様子で独り言を続ける。
「ノーラちゃんは大怪我で動けないし、ロイは士師と交戦開始。ヴァネッサは栄養霊薬漬けでボロボロだろうし、大和も独りで車体のメンテナンスにてんてこ舞いしてそうだし…。
ここはやっぱ、オレが動くしかないかぁ」
語りながらイェルグは、ナビットで映像通信の準備を進める。連絡相手は、星撒部の副部長、立花渚だ。
「…1人1000個の折り鶴なんて、相変わらず無茶苦茶なノルマを課してたみたいだけど…そろそろ、結果はどうあれ、折り合いがついてる頃だよな…」
呟いた後、イェルグは"通信開始"のボタンをタッチする。プルルル、という昔ながらのコール音が2回響いた直後、不意に3Dディスプレイが展開する。連絡相手が通信に応じたのだ。
3Dディスプレイには今、ウェーブがかった金髪を健康的な童顔の上に乗せた美少女――立花渚の顔がアップで映っている。
「おお、イェルグか。元気にしておったか! ロイたちがそっち向かってから連絡が入ってこぬので、心配しておったぞ!」
「まぁ、こっちもてんてこ舞いでね…。
詳しい事は後で話すとして、まずは聞いて欲しいんだけどさ…」
それからイェルグと渚は、深刻な顔を付き合わせて、しばしの間、会話を進める。
◆ ◆ ◆
一方――避難民達が集まるコンサートホールの、エントランス周辺の通路。
"溶融の士師"プロクシムによってドロドロに破壊され、地獄の天空が見渡せる大穴が開いたその真下で、"溶岩の士師"と『賢竜』の激闘が展開されている。
爆、爆、爆――ッ! 轟音を立てて空間を激震させる連続爆発が、まるで巨大な星のように宙を閃光の赤と発煙の灰で彩る。
爆発の源は、ロイと士師ヴォルクスとの拳の激突だ。特にヴォルクスの岩石の巨拳はインパクトの瞬間、その内に宿す灼熱のマグマが生み出すガス爆発を撒き散らすのだ。
そうして幾度、ロイの竜拳に巨岩の拳をぶつけたことだろうか。しかしロイの漆黒の竜拳は、強烈な爆発を真っ向から浴びながらも、決して砕けることはない。そもそも、ヴォルクスに比べて非常に小さな質量のロイであるが、何度インパクトを受けても、一歩たりとも後退することがない。それどころか、拳を打ち合うほどに、その顔に凄絶な愉悦の笑みが灯り、牙が飢えたようにギラギラ輝く。
(なんなんだよっ、このガキはッ!)
拳を打ち続けながら、ヴォルクスは内心で焦燥混じりの舌打ちをする。『現女神』によって選抜され、力を得て士師となった彼には、先に倒れたプロクシムほどではないが、やはり己の身の上に対する自信と誇りがある。――"神"を見上げるばかりの凡愚どもとは、一線を画くす存在なのだ、と。
しかし、眼前の"凡愚"は、高尚である自分と全く互角の撃ち合いをやってのけている!
(これが、『賢竜』の…希少人種の特別な力ってワケかよ!?
…だがなっ、レアだろうが何だろうが、テメェが"ヒト"の範疇にあることは、変わらねえだろうがッ!)
噸ッ! ヴォルクスが一層、大きく拳を振るい、ロイに叩きつける。これまでの攻撃の中で最強の力を込めた一撃だ。だが、ロイは相変わらず凄絶な笑みを浮かべたまま、真っ正面から凶拳を見据え――彼もまた、大振りに右拳を放ち、拳をぶつけ合う。轟ッ、と鼓膜を破砕せんばかりの大音響と共に、最大規模の爆発が宙を彩る。
四方八方に吹き荒れる爆風と共に、盛大な爆煙の中から弾き出されてきたのは…なんと、巨大質量を誇るヴォルクスである。ロイの小さな渾身の拳は、彼の山のごとき巨体を吹き飛ばしたのだ。
吹っ飛ぶヴォルクスを追い、竜翼を鋭く羽ばたかせ、爆煙の帳の中から弾丸のようにロイが飛び出す。そのまま一気にヴォルクスに肉薄し、トドメを放つつもりであろうが…。
吹き飛ぶヴォルクスの顔に突如、ギラリと凶悪な嗤いが浮かぶ。――彼は間を取るために、故意に吹き飛んでみせていたのだ!
ヴォルクスは巨体に見合わぬ素早さと器用さで、一瞬にして体勢を万全に立て直し、全力で接近するロイを正面に捉える。
(これだから、テメェらヒトどもは"凡人"じゃなく、"凡愚"だってンだよ!)
まんまとロイを策にはめたヴォルクス。彼の次なる行動は、無防備に飛び込んでくるロイへ手痛い一撃を加えることだ。
ゴキゴキと岩石質の皮膚を軋ませながら、右拳をダイヤモンドのごとく堅固に握りしめる…と、その握力に呼応して神霊圧が拳に収束。渦巻く術式は相転移して物質化すると、ゴボゴボと煮えたぎる煌紅のマグマ塊へと変じる。
「ッラァッ!」
轟雷の気合いと共に、ヴォルクスはマグマ塊をまとう巨拳に捻りを加えながら、いまだ迫り来るロイに向けて突き放つ。腕が伸びきった瞬間、マグマ塊は熱粒子線となって空中を疾駆。大気を膨張させつつ切り裂く甲高い音をバラ撒きながら、砲撃に勝るとも劣らぬ速度でロイへと肉薄する。
対するロイは、凶暴な熱線を目の前にしても、飛翔速度を減速させるような真似はしない。そもそも、士師の奇襲に驚愕することも怖じ気付くこともなく、相も変わらず嗤いを張り付けている。
――いや、彼の顔に変化が生じた。嗤いがふと消え去ると、ヒュウッ、と鋭い音を立てて大気を吸引する。極短時間ながら、肺一杯に大気を満たして胸をパンパンに膨らませた、直後。
呀ッ――! 牙がギラつく口腔を思い切り開き、暴竜の咆哮を上げる。咽喉の奥から迸る呼気は雪崩のごとく高圧の奔流となって大気中に解き放たれたかと思えば、口の手前数センチの箇所に出現した正六角形の魔術式文様を通過。すると、呼気は寒々とした青白い氷雪の粒子砲となって、"溶岩の士師"の熱粒子砲と真っ向から激突する。
爆ッ! 灼熱と極寒の激突によって盛大な水蒸気爆発が発生。濃白の水蒸気の帳が渦巻きながら膨張し、衝撃波と共に空間を駆けめぐる。爆発の閃光こそないものの、十分にド派手な暴力的現象が世界を揺るがす。
(…すごい…!)
通路の床に横たわり、激闘を傍観しているノーラは、眼にした光景に圧倒されつつ、呆けた感嘆の声を胸中で発する。特に、大規模な水蒸気爆発がバラ巻いた衝撃によって眼球が歪み、視界がグニャグニャと歪曲したのを認識した時には、意識まで吹き飛ばされて真っ白になってしまうような気さえ起きた。
――こんな過激な戦闘の中、『賢竜』だとは言え、ロイは果たして無事であろうか? 重傷と疲労で不自由な身の内で、ノーラは祈るようにして仲間の安否を気にかける。…だが、彼女の懸念は杞憂に終わる。
水蒸気の濃白が大気に溶け込み、視界が澄み渡ってくると…そこには、宙に浮いたまま対峙する、健在な二つの人影がある。――そう、"超人"たる士師はもちろんのこと、ロイも全くの無傷だ。『賢竜』の体質の恩恵なのか、それともロイ個人の強靱さが為した結果なのだろうか。
事情はどうあれ、ノーラはロイの状態を喜び、顔を安堵にほころばせる。
他方…士師ヴォルクスは、敵の健在が気に食わない。岩石の牙をゴリゴリと鳴らして歯ぎしりし、険の色をますます濃くする。
(オイオイッ、なんなんだよ、このクソガキッ! オレの全力の収束熱粒子砲を、真っ向から相殺しやがった!
これが、旧時代に"神の軍勢"と張り合ったっていう、竜の力ってワケかよ!?)
胸中で不満を全開にして唾棄するヴォルクス。その心中には、少なからず驚愕と動揺の念がわき上がっていた。何せ、彼の熱粒子砲の威力は核爆発にも匹敵する威力を持っていたのだ。直撃せずとも何某かに激突すれば、超高熱の衝撃波をバラ撒き、周辺環境に甚大な被害を与えるはず。それを、ロイの竜息吹は単に相殺するだけでなく、爆発の余波まで押さえ込んでみせたのだ。
――手強い。ヴォルクスは敵に対して畏敬のような感情を抱くと…ふと、岩石面を嗤いで綻ばせる。
(面白ぇ! 最近の凡愚どもは手応えなさ過ぎて、ブッ殺すにしても退屈なヤツらばかりだったからなァッ!
久々に、"殺す"ことを全身全霊で楽しめそうだぜッ!)
驚愕や動揺から一転、興奮に気力を充填したヴォルクスは、烈風を巻き起こしながら炎翼を羽ばたかせる。そして、巨大な弾丸となり、ロイの元へと肉薄する。
ロイの眼前まで迫った時には、脇に勢いを溜めた巨拳を構えている。これを回転を加えながら放った一撃を口火に、再度激しい打撃戦を開始する。
――と、思いきや。ロイは竜翼で軽やかに宙を打つと、ひらりとヴォルクスの一撃を回避。力の入ったヴォルクスの一撃は、大振りに宙を殴りつけ、彼の身体に隙が出来る。
この様をヴォルクスの頭上から見たロイは、獲物を視界に捉えた猛禽の眼光をギラリと放つ。同時に、竜翼で強かに大気を打つと、流星のような速度で急速降下。ヴォルクスの頭頂に迫る。
――クソッ! ヴォルクスはなんとか巡らせた視線で、悪態を訴える。その非難を見に受けたロイは、意地の悪い嗤いをギラリと浮かべながら、縦方向に漆黒の旋風と化す。そして竜鱗が分厚く固まる踵を、重力を味方につけながら、思い切りヴォルクスの登頂に叩きつける。
ゴォギィンッ! 鼓膜を震わす烈しい衝突音! 同時に、ヴォルクスの巨体は落雷の速度で急降下する。
岩石の巨体が大地に激突する直前、地に転がっていたノーラは衝撃に備えて、瞼をきつく閉じた。耳もふさぎたかったが、鉛のように重い腕はプルプル動く程度だ。強烈な騒音を覚悟して、閉じた瞼に力を込める――が、待てども衝撃波や轟音どころか、微風すら顔を撫でない。
(…?)
恐る恐る瞼を開いたノーラが眼にしたのは…非常に奇妙な光景である。ヴォルクスの巨体は、着地していた。しかし、その身体の半ばは地中に埋まっている。降下の衝撃でめり込んだ…というワケではない。なぜなら今もなお、岩石の巨体は地中に沈み込んで行っているからだ。まるで、砂地の上に落とした水滴が染み込んでゆくかのように…。
更によく観察すれば、ヴォルクスの岩石の巨体が赤黒いドロドロの粘性質へ相転移していることが分かる。その身体が発する薄灰色の煙と熱気、そして、ノーラのこの士師の肩書きを鑑みて、はっと覚る。
(この士師…身体を溶岩に変えてる!)
そして同時に、彼女はもう一つ、覚る。プロクシムから勝利をもぎ取った直後、下方からの予期せぬ攻撃を受けた理由…それが、"これ"だ! ヴォルクスは身体組成を溶岩へと変化させ、物質中を液体として泳ぎ回ることが出来るのだ!
ロイが上空から、点にした眼で"溶岩の士師"の特異な行動を見送ってる一方で、ヴォルクスは早くも胸元まで大地に溶け込んでいる。ここに至って、ようやく事態を飲み込んだロイは、慌てて竜翼を打ち鳴らして急降下。残るヴォルクスの頭への追撃を試みるが――。
ゴンッ、と鈍い打撃音が響いたのは、士師の巨躯がもはや影も失せた大地である。あの巨大体積だけでなく、強烈なまでに自己主張していた魔力や神霊圧すら、その風ほども感じない。
「おいおい、なんだよ? あんなデカい図体してるくせして、姿を隠して逃げるのが、おまえの戦い方なのかよ?」
戦闘中だというのに、いまいち緊張感のない態度で不平を漏らす、ロイ。実際は、これは挑発のつもりだったのかも知れないが…この釣り針に士師はかぶりついてこない。
しばし、閑寂の時間が過ぎる。傍観者たるノーラが、緊張がこめてコクンと喉を鳴らす…一方で、ロイは明らかに不満そうな半眼で宙を睨みつけ、腕組みをして直立している。何度か竜尾を大地に叩きつけ、士師の行動を催促しても見せる。
ついにロイは飽き始めたのか、大げさな身振りで深い、深いため息を吐いてみせる。
「あのさあ、オレを焼失させるって言ってたけどさ…隠れたまんまで、どうやってオレに…」
そう語る最中、ふいにロイの足下の大地がモコリと盛り上がる――直後、大地が避けて、ドバァッっと真紅の溶岩が盛大に噴出する。
士師としては、ロイを焦らして隙を誘い、奇襲で終わらせるつもりだったのだろう。しかし、その目論見は身を結ばなかった。ロイは、待ってました、と言わんばかりの満面の笑みを浮かべながら、竜翼を器用に使ってヒラリと飛翔。噴出する溶岩の周囲を螺旋を描きながら飛び、悠然と回避する。
が、士師の攻撃もここで終わらない。噴出した溶岩は噴水のようにバラ撒かれることなく、あろうことか大きな球状に――そして握った拳状にまとまると、ロイめがけて降下する。
「よっと!」
ロイは軽くかけ声を口にしながら、またもや軽やかに空中で身を躍らすと、拳状の溶岩を背にしてやり過ごす。しかし、余裕を見せつけすぎ、ギリギリの距離でかわして見せたのが仇となり、溶岩の高熱が背中を強烈に炙る。
「うわっ、あっちぃっ!」
手足をバタつかせながら、慌てて距離を取るロイ。その時、地の底からゲラゲラ、と士師の下卑た嗤い声がわき上がったような気がした。
直後、嗤いをかき消す轟音と共に、ロイの四方を囲むように溶岩が噴出。彼の頭上から包み込むようにして灼熱の赤が降りてくる。
ロイの顔に、驚愕と表情が浮かぶ――しかし、それはほんの一瞬のこと。すぐに表情がコロリと変わり、剣呑にして快活な笑いが取って代わる。
――こうでもして隙を見せなきゃ、先に進まねぇんだろ? だから、望み通りに、隙を見せてやったぜ!――そんな言葉が、表情から垣間見える。
ロイは飛翔を停止、降りかかる溶岩に向き直ると、漆黒の右手を拳に固めて振りかぶる。そして、溶岩の灼熱が真紅の髪をチリチリと焦がす距離まで引きつけると、爆発的な瞬発力で全身のバネを使い、拳を叩きつける。拳撃に引きずられた大気が衝撃波となって、轟、と音を轟かせながら巨大な砲弾となって空を走る。
大気と拳の二段加撃によって、溶岩の帳に大穴が開いた…少なくとも、傍観者であるノーラには、そう見えた。だが、ロイの顔には違和感を訝しむ表情が浮かぶ。――手応えが、全くない。
ロイの違和感は、正解である。溶岩は穴を開かされたワケではない、自分で穴を開き、攻撃を避けたのだ。
「バァァァカがっ、凡愚!」
溶岩が耳を聾する罵詈を放ちつつ、大振りな拳撃から体勢を立て直せないでいるロイの身体へ収束。ロイは顔を残して、全身を溶岩の球に包み込まれる。
「っぐがっ!」
全方向からの強烈な圧迫と溶岩の灼熱に、ロイの顔から余裕と愉悦が消え、冷や汗に塗れる苦悶が浮かぶ。
一方で、溶岩球がドロリと流動し、まるでガラス細工で形成するように、体積を膨張させながら荒いヒト型へと変形する。そうして出来上がったのは、右手でロイを逆さに掴んだ、元のヴォルクスに近い形状だ。ただし、元の姿と大きく違うのは、身体が完全な岩石質ではなく、固い粘性の溶岩で出来ている点だ。焦げたような漆黒と輝き発熱する赤が対照的である。
ヴォルクスはそのまま自由落下、超重量が生み出す激震と共に着地。同時に、逆手に持ったロイの顔面を大地にバァンッ! と叩きつける。その打撃の威力は、大地を抉って亀裂を走らせるほどだ。
(ひっ…!)
友を襲った惨劇に、ノーラは息を飲む。ロイがいくら賢竜種族とは言え、頸椎や頭蓋が無敵ということはないはずだ。常人ならば、一撃で死に到っておかしくない一撃だ。
しかも、ヴォルクスの攻撃は終わらない。何度も何度も右腕を振り上げては、バァンバァンッと執拗に大地に叩きつけ続ける。やがて大地は拳の灼熱をもらって焦げた煙を上げ、地表が赤くドロリと溶融する。
「オラオラァッ、さっきまでの威勢はどうしたンだよ、クソガキ!
さっきは、オレに対して隙だらけだと偉そうに指摘してやがったが! 指摘してた本人が余裕ブッこいて逆手に取られてりゃ、世話ねぇよなぁっ!」
ゲラゲラゲラゲラッ! ヴォルクスは溶岩熱で赤く光る口腔を大きく開いて哄笑する。その嗤い声は、果たしてロイに届いているだろうか? 揺さぶられ、叩きつけられ続ける彼の脳は、果たして今も健在であろうか?
――さて、トドメだ! ヴォルクスは一層腕を高く振りかぶると。「そらよっ!」と鋭いかけ声と共に、落雷の勢いで腕を振り下ろす。
(ロイ君…!!)
ノーラが胸中で悲鳴を上げつつ、重い腕を延ばし、激励をなんとか届かせんとする。
そんな彼女の健気な重いが功を奏したのか…ヴォルクスの動き、明らかな負の変調が見られる。
振り下ろしていた腕の先端が、大地に劇とする寸前で、すっぽ抜けて宙を舞う。拳を失った腕は先端が大地に接することなく、勢いのまま己の股ぐらの間に空振りする。
(オイ、なにが起きたってンだ!?)
慌てたヴォルクスが、宙を舞う拳に灼熱の赤を放つ両眼を注ぐ。その視界の中で、本体から分断されて急冷却し、黒々とした岩石に変わる拳に、内側から幾筋もの斬撃の閃きが現る。結果、拳は細かい破片の霰と化し、バラバラと宙に飛散。その中央には…相変わらず頭を下にしたロイの姿が――何度も大地に叩きつけられた割には、さほどの出血も打撲の痕も見られぬ、健在なロイの姿がある!
ヴォルクスの慌て顔を見て、ニヤリと笑みを返すロイ。しかし、彼のお返しはこれだけに留まらない。翼と尾を振りながらクルリと空中で姿勢制御しつつ、長く鋭い鉤爪が光る両足端を大きく振るう。その斬撃は宙に漆黒の闘気の刃を生成し、烈風と共にヴォルクスの溶岩質の胴に斬、斬と大きな2つの亀裂を深々と差し込む。
「おおおおっ!?」
驚愕の叫びと共にバランスを崩してのけぞる、ヴォルクス。これを眼にしながら、悠々と抉れた大地にヒラリと着地する、ロイ。
「熱くなったのは良いと思うけどさ、柔らかくなったのは不正解だったな」
ニヤリとした皮肉の笑みを浮かべたまま、ロイがダメ出しをぶつける。
「いくら圧力を強めても、簡単に切り裂けちまう。岩だったほうが、もっと面倒だったぜ」
その煽りに反応したのか、ヴォルクスは両足を踏ん張り、力付くでバランスを取り戻すと。ドシンッ、と重厚な激震と共に両足を大地に降ろす。そして、怒りと共に揶揄を交えた、ギラギラした嗤いをロイにぶつける。
「いやいや、柔らかいのも便利なもんさ」
語りつつ、ヴォルクスは胴体に深々と刻まれた斬撃の痕を指さす。すると、傷跡に向かって周囲の溶岩が流れ込み、見る見るうちに傷を跡形もなく埋めてしまう。さらには、失った右の拳も切断面から溶岩がせり上がり、元の拳を完全に取り戻す。プロクシムの見せた体液による代用ではなく、完全な再生だ。
「てめぇの魔力だけは認めてやるよ、オレの『神法』を易々と凌駕して、傷つけてくるんだからな。
…だが、傷をつけられたところで、今見せた通り、オレには無意味なんだよ」
ねっとりとした嫌らしい優越感を込めて、ヴォルクスは語る。だが、ロイは決して怖じ気付くことも、失意に陥ることもない。彼の笑みは消えることなく、ヴォルクスの優越感を超えて注がれる。
「へぇー。確かに、便利な身体だな。
だけど、オレにはお前が堅かろうが柔かろうが、再生可能だろうが、関係ねぇよ。
今のお前の身体の作りを見て、"決めた"からな」
「"決めた"、だぁ?」ヴォルクスが疑問符を浮かべる。「オレに殺される覚悟でも決めたのかよ?」
「いーや、その真逆だね」
ロイが笑みを更に大きくし、牙をギラつかせて言い放つ。
「お前を、ブッ斃すやり方だよ」
「斃す!?」
ゲラゲラゲラ! ヴォルクスが全身をよじらせて大笑いする。
「このオレを!? 女神より授かった無敵の身体を持つこのオレを、凡愚のてめぇが、斃す!?
全く愉快な冗談だが、聞かせてみろよ! どんな手段で斃すってんだよ!?」
「最高に愉快な手段で、だよ」
ロイは握った右拳を突き出すと、それを親指を突き立て、逆さにする。昇天ではなく、"地獄に落とす"のシンボルを見せつけながら彼が語った"最高に愉快な手段"とは…。
「お前を、焼き殺すンだよ」
これには、当のヴォルクスだけでなく、ノーラまでも言葉を失う。二人の口を塞ぐのは同じ感情――拍子の抜けた驚嘆だ。
(そんなの…無理だよ…!)
ノーラが心中で叫ぶ。とは言え、彼女は先に"溶融の士師"を炎で苦しめているのだが…あの時と今回では根本的に差があることを、彼女は覚っている。
プロクシムは分子間力を扱う能力の持ち主。対して、このヴォルクスは溶岩の性質を持つ士師。より"炎"や"燃焼"という概念に近い存在である。そんな相手に対して、自分の土俵どころか王国とも言える分野で挑み、勝ちを得ようなどとは無謀過ぎる!
ヴォルクスもノーラの意見に同感のようだ。さっきより更に身をよじらせ、腹を爆破せん勢いで大爆笑する。
「凡愚ってより、もはやただの愚者だな! プロクシムの雑魚馬鹿ならいざ知らず、このオレを、"溶岩の士師"を焼くなんざ…!
戯れ言もいい加減にしろよ、クソガキッ!」
爆笑から一転、憤怒一色に染まったヴォルクスがガンガンと大地を蹴り叩きながら、ロイへと驀進する。
「戯れ言かどうかは…自分の身で確かめて見ろよ!」
ロイもまた、迫る溶岩の巨躯に真っ向からぶつかりに行く。
激戦の第二局が、開幕する。
ロイを目前にした位置で、ヴォルクスが急跳躍。同時に、その全身を真紅に輝く溶岩の津波に変化させ、ロイの頭上から覆い被さる。
対するロイは疾駆を急停止。落下する溶岩流へ顔を上げると、ヒュッと鋭く吸気。転瞬、正六角形の魔術式文様と共に氷雪の息吹を解き放つ。
寒々とした青白い奔流は、大気に霜の軌跡を残しながら、溶岩流へと驀進する。しかし、溶岩流は器用にグルリと螺旋形状へと変化すると、空虚な軸の中に奔流をやり過ごす。そして、何事も無かったかのように、ロイの頭上めがけて降下を続ける。
するとロイは、竜翼を一打ちして、急上昇。溶岩の螺旋の中へと進入すると、グルリと身体を回転。堅固な漆黒の竜尾と、鉤爪輝く竜足を振り回し、溶岩流に無数の斬撃を加える。
しかし、溶岩化したヴォルクスには、物理攻撃は全くの無意味である。細切れにされながらも、溶岩は悲鳴を上げることもなくベチャリと着地。そのままズブズブと地中へと浸透してゆく。
「また逃げかよ!」
非難を口にしながら、ロイが宙で身を翻して大地を睨みつける。が、今回は先のように静寂の間隙はない。即座にロイの真下の地面が盛り上がり、溶岩で出来た巨大な拳が打ち上がってくる。
ロイは身体ごと真下を向くと、ヒュッと再び吸気。そして氷雪の息吹を真っ向から巨拳にブチ当てる。ザリザリザリッ、と細かな氷晶が激しく摩擦する音が響き、拳は徐々に上昇速度を減速しつつ、黒々と冷え固まってゆく。
これで士師を捕らえた! ――と誰もが思うところだが。
(危ない…!)
傍観していたノーラは、身をゾワリと振るわす悪寒に突き動かされ、胸中で声無き悲鳴を上げる。その直後だ、いまだ息吹を吐き続けるロイを囲むように、5本の溶岩の巨拳が地中より出現、急上昇してゆく。
ロイはすぐに口を閉じ、息吹の放出を停止。殴りかかってくる溶岩の巨塊に対する回避行動を開始する。巨大質量にひきずられて、熱風が乱流となってロイの翼を翻弄する。
「…っとと!」
ロイは体軸のブレを必死に押さえ込みつつ、巨拳を回避し続ける…が、この時、彼の意識は動き回る5本の腕にばかり集中していた。
故に、真下で固まっていた腕が、再び熱を取り戻して動き始めたのを、知覚できなかった。
ベシャンッ! 痛々しく飛沫が激突する、乾いた音と共に、ロイの体に溶岩塊が命中。ロイの体は再び溶岩の中に握り込まれる。しかも、今回の溶岩は急速に変質し、岩石へと変化。前回のように切断するには、堅すぎる。
「バァカがっ!」
罵声と共に、ロイを掴む岩石の一端から溶岩が膨れ上がると、ヴォルクスの岩石質の巨体が出現する。そして自由落下しつつ、重力を味方につけた腕の振り下ろしでロイの体を大地に叩きつける。
噸ッ! 重く、堅く、悲惨な轟音が大地を震わす。大地は盛大に抉れ、巨大な亀裂を走らせる。
しかし、この強烈な攻撃の直後、叩きつけた腕を支点にして、まるでシーソーのようにヴォルクスの巨体が浮き上がる。あまりにも強烈な一撃が過剰なモーメントを生み出したのだろうか? …いや、違う。
(…嘘…っ!)
傍観者ノーラは、眼にした光景に思わず息を飲む。大地に叩きつけられたロイは、拳から飛び出していた両足で大地を踏みしめると、身体を反らしてヴォルクスの巨体を振り回しているのだ。"竜"の名を持つ種族とは言え、あのコンパクトな体格にして、なんという剛力か!
轟ッ! 再び激震が走り、ヴォルクスの巨体が背中から大地に激突する。
「グハァッ!」
いくら外傷を塞ぐことの出来る身体でも、全身を襲う激震・激打はさすがに抑え込めない。超重量の自重がヴォルクス自信に牙を向き、彼はたまらず苦痛の呼気を漏らす。
(なんだよ、このガキ! とんでもねぇ力出しやがって!)
胸中で悪態を吐いてる間に、掌の握力が緩む。この隙にロイは、全身をギュルリと回転。身を包む岩石を翼と手足の鉤爪で削り取り飛び上がり、握力の檻から脱出する。
自由の身になったロイだが、その身体には内出血を伴う打撲の痕がいくつも刻まれ、口元からは吐血の赤がダラリと帯を引いている。ヴォルクスの一撃を返したとは言え、彼の身は完全に無事とはいかなったのだ。
だが、ロイは苦痛に溺れたりしない。脱出と同時に高く飛び上がったかと思うと、翼を一打ちして足先から急降下。同時に大きな縦回転を加えると、足先の鉤爪の斬跡がまるで三日月のように宙をギラリと彩る。斬跡はそのまま闘気を帯びて実体化し、巨大な刃となって転がるヴォルクスの身を襲う。
刃が切り込むよりも早く、ヴォルクスが体構造を変質し、溶岩化。刃は粘りけの強い赤黒いの溶融物をザックリと真っ二つにしたが、ヴォルクスからは苦痛の悲鳴はない。溶岩化した彼を切り刻むことは、水をみじん切りにするのと同じく無意味なことだ。
ヴォルクスの体が、ドロドロと地中に沈み込んでゆく。
「逃がすかよっ!」
ロイが怒声と共に、大きく開いた口から青白い氷雪の息吹を吐き出す。息吹の奔流は大地にぶつかり、派手に微細な氷晶の飛沫をブチ撒け、凝結した水蒸気の霧を作る。この霧の向こう側に、ゴツゴツした漆黒の岩石がいくつか転がっているのが見える…が、ヴォルクスの全身を凝固させるには到らなかったようだ。
チッ…! 痛恨の舌打ちをするロイ…その足下から、ゴォッ、と空気を潰す音と共に溶岩塊がせり上がる。
ロイはすかさず翼を打ち鳴らし、溶岩の直撃を逃れる…その背後で、溶岩は恐ろしく巨大な腕の形を取った。そして5指をロイに向けて曲げると、指先に強烈な輝橙色の発光を宿す。その光が一気に収縮し、眼を灼くような閃光となった…転瞬。慟、慟、慟、慟、慟――ッ! 5指から次々に、収束された熱粒子砲が発射される。
ロイは飛行を急停止して転身し、5筋の熱粒子砲と対峙する。今度もまた、氷雪の息吹で相殺すべくヒュッと鋭い呼気を行う――が。
ズォッ! ゴォッ! ドォッ! ――ロイの真下を含め、周囲から幾つもの溶岩塊が噴出。ロイを狙ってせり上がってくる。この奇襲に、ロイは十分に息吹を準備することが出来ず、不発の霧氷を吐いて攻撃行動を放棄。熱粒子砲に触れないように低空へ、且つ溶岩塊に捕まらないよう蛇行して飛翔する回避行動に出る。
熱粒子砲はやり過ごせたものの、地中からせり上がる溶岩塊の噴出は止まらない。逃げども逃げども、何度も何度も何度も執拗に地中から溶岩が噴出し、ロイを捕まえんと巨大な弧を描く。
「いい加減、しつこすぎるっつーの!」
小さく舌打ちしながら毒吐きつつも、時にはアクロバティックに、時には慣性を無視したような急転換を駆使し、高密度に林立する溶岩をことごとく回避する様は実に見事だ。傍観するノーラも、まさに神業としか言いようのない身体能力と反応速度で、目を丸くし、感嘆の吐息を漏らしている。
しかし、いくらロイを捕らえられなくとも、ヴォルクスは溶岩の噴出を決して止めない。そうこうしているうちに、そびえる溶岩の柱は総勢50を超える大勢となっていた。
――そして、ヴォルクスは何も徒に、意地を張って溶岩塊を噴出していたワケではない。彼には、確固たる策略がある。そして今、その策略が恐るべき事態を結実しようとしている。
冷え固まり、灼熱の赤を失い鈍い黒へと変色した溶岩柱――いや、岩石柱が、ゴキゴキと音を立てながら変形。次々に5指を備えた巨腕と成り、グギギギ、と重く鈍い音を立てながら指先を飛び回るロイへ向ける。
「…あっ…!」
ノーラはこの光景に悪寒を覚え、思わず小さく声を上げる。思い出されるのは、ついさっき網膜に映った光景。岩石の巨腕…曲がった指先…その先端から解き放たれるのは…灼熱の殺意!
――マズい! ノーラが思い至った時には、もう遅い。総じて250を超える指先のことごとくに、眼を焼く鮮烈な橙光が灯り、輝きを更に増しながら収縮してゆく…そして、輝きが臨界に達した瞬間――!
慟慟慟慟慟慟慟慟慟慟…ッ!! 世界そのものを揺るがすような轟音が連続する。同時に、岩石の指先から真夏の太陽をも凌駕する輝度を備えた熱粒子の奔流が続々と放出される。空間は瞬く間に網膜を焦がすような煌々たる閃光に埋め尽くされる。
高密度の熱粒子の暴走が与える影響は、視覚に訴えるものに留まらない。熱線が大気分子の結合を破壊し、プラズマ化する際のバチバチという耳障りな破裂音。荷電粒子が大気を焦がす腥い臭い。強烈な熱線同士の激突が生み出す大爆発と、耳を聾する轟然たる爆音。それら全ての凶悪により翻弄される空間が悲鳴のようにバラ撒く、嵐のごとき乱流。
――静止する瞬間などあり得ない、極限とも言える空間と物質の狂乱の有様は、まさに具現化した地獄だ。その余波によって、コンサートホールの通路を形成していたあらゆる物質が電離し、分解され、素粒子の灰燼へと帰してゆく。その断末魔は放射線となって空を走り、いまだ健在な物質を己と同じ末路へと誘おうと、滅茶苦茶に疾駆するのだ。
「…っあうぅっ…!」
只でさえ重度の火傷に苦しめられているノーラは、敏感になった傷口を放射線にヒリヒリと舐められると、掠れた咽喉からの悲鳴を禁じ得なかった。騒がしい疼痛から隠れ逃げるように、己が身を縮めて抱きしめ、損傷を受ける表面積が最小になるように努める。
そんな生理的防御行動を取りつつも、彼女の理性は煌々たる地獄の中に――その中に放り込まれたロイに、視線を注いでる。しかし、空間を埋め尽くす致死の輝きが濃密すぎて、ロイの姿を発見することができない。だが、攻撃が止まないということは、彼がまだ健在である証のはず。そう判断しつつ、ノーラは捉えられるはずもないロイの姿を懸命に探している。
そうしているうちに…ノーラの鼓膜を、新たな騒音が苛み始める。苛烈な爆音をも上回るその声――そう、単なる音ではなく、声だ――は、ゲラゲラと下品な哄笑を上げている。
この哄笑を耳にした頃、ノーラの視界の中、煌々たる地獄の中に巨影が浮かび上がる。それは、天を貫くような高さと、無骨で荒々しい輪郭を持っている。まるで、岩山のようだ。しかし、この"山"には、1対の腕があるように見える。――いや、見えるだけではない、この"山"は腕を持っている! その腕を大きく打ち振るわせながら、巨体をグラグラと激震させて、ゲラゲラゲラゲラと哄笑し続けている!
ノーラは、この"山"の正体をすぐに覚る。――"溶岩の士師"、ヴォルクスだ! 彼は浸透した大地と一体化し、50を超える腕と、巨峰のごとき岩石の体躯を持つようになったのだ!
…そう、ヴォルクスの士師としての能力は、体構造の変化や溶岩、熱線の操作だけではない。溶岩化した際に浸透した物質と一体化し、己の身体として自在にそ操作できる能力も持っている。
今や文句なしの人外的存在に成り果てたヴォルクスは、その事実に対して実に誇らしげだ。そして、己の体格と比較して非常に小さなノーラ達を見下す尊大さで以て、傲岸不遜な台詞を喚き散らす。
「どうだ、どうだ、どうだどうだどうだってんだよ、竜のクソガキ!
この雄々しくも圧倒的な体積、質量、威力! ヒトの身じゃあ、窒息するほど足掻こうとも絶対に手に入らねぇ領域! 偉大なる神より賜りし力によってのみ実現できる、"力"だ!
この偉大なる力で、オレがこれまでにどの程度のヒトどもを女神の元に召して来たか、知ってるか!? もうとっくに細かく数えちゃいねぇが、数万の命は刈り取ってやってんだよ! てめぇがいくら竜だろうと、そんな真似、出来ねぇだろう!?
そもそも、"竜だ"って事実はよぉ、神の前じゃあ誇れるステータスでも実績でもねぇんだよ! 凡愚のてめぇのことだ、知らねぇだろうから教えてやる――旧時代のこの惑星の神話じゃあ、竜ってのは神の使者に須く敗北してンだよ!
つまりはなぁ! 神から賜りし力を全開にした今のオレにゃあ、てめぇは万が一にも勝ち目はないっつーこったよ!!
どうだ、どうだ、どうだよ!? 絶望したか!? いや、そんな暇もねぇか!? まぁ、何にせよ――とっととおっ死ねよ、クソガキ!!」
ゲラゲラゲラゲラ! 絶対の自信が生む余裕を見せつけて、ヴォルクスは嗤い続ける。一方で、大地に林立した彼の凶腕は寸分も手を抜くことなく、手厳しい熱線の嵐を見舞い続けている。もはやコンサートホールの通路は原型を留めておらず、だだっ広い灰燼の平原へとなろうとしている。
いつまでもいつまでも、ヴォルクスの嗤いは続く。ノーラはその罵声を聞くに耐えず、自らを抱いていた腕をほどいて耳を塞ぐ。
(もう止めてよ…いい加減にしてよ…神の使者なら、こんな地獄なんて作って、いつまでも私たちを苦しめないでよ…!)
ジリジリ、ジリジリと始終皮膚が訴える疼痛にも耐えかね、ノーラが胸中で不満を叫び上げた――と、その時ふと、彼女は違和感を覚える。
"いつまでも"。そう彼女は思考した。ヴォルクスは、"いつまでも"この地獄を存続させている。
何のために? もちろん、彼の敵であるロイを仕留めるためだ。そのために彼は躍起となって、こんな大規模な攻撃を加えているのだ。彼は神の使者ではあるが、神そのものではない、ゆえにこんな莫大なエネルギーを公使し続けるのは相当な負担になるだろう。その負担を負い続けているのは…いまだに彼の敵が、ロイが、健在だからだ!
(…嘘…!)
歓喜と共に、それ上回る驚嘆の念がノーラの中に沸き上がる。この考えは単なる希望に過ぎないのではないか、と言う疑念にも少なからず駆られる。ゆえに彼女は、己の見解を裏付けるべく、眩い地獄に細めた視線を投じ、状況確認を試みる。しかし、いくら眼を凝らしても、見えるのは熱線と爆発の烈光のみ。ヴォルクスの巨体は影として見えるものの、彼に比べて段違いに小さなロイの姿を発見することはできなかった。
しかし、ノーラの見解を裏付けるような変化が、ヴォルクスに生じる。ずっと鼓膜を叩いていたゲラゲラ嗤いが、いつの間にか聞こえなくなっているのだ。代わりに、轟然と連続する爆音にかき消され気味な、焦燥の色濃い唸り声が低く響いている。
実際に何が起きているのか? ノーラの五感では判断できない。…しかし、ヴォルクスの超人的感覚は全て把握している。――彼にとって、全く好ましくない実状を。
ノーラは見解は的を得ている。ロイは、健在だ!
爪先の置き場すら無さそうな高密度の地獄の中を、彼は今尚飛び回っている。
初めのうちこそ、彼は熱線や爆発の直撃を受け、翻弄されていた。その手応えを感じていたからこそ、ヴォルクスは悠然と勝ち台詞を吐いていたのだ。生意気なチビの敵は、もうすぐ素粒子レベルで分解され、死滅すると確信していたのだ。
だが、いくら直撃を受けても、ロイの動きは止まらない。
むしろ、時が経過するにつれ、その動きは更に力強く、機敏に、そして、速くなってゆく。ついには、熱線や爆発の手応えを全く感じることができなくなる。それどころか、神域に踏み込んだ士師の感覚でもってしても、ロイの動きを捉えることができない! 今、ヴォルクスの感覚では、同時に3カ所にも4カ所にも高速で動き回るロイの気配を感じる。
――分身か!? いや、この無差別な広範囲・高密度の攻撃に対して、攻撃対象を絞らせない幻惑行動は無意味だ。だとすれば…。
(あいつが、単純に、速すぎるんだ!)
ギリギリと、ヴォルクスは悔しげな歯噛みをする。暴力的なまでに昂る焦燥は、なんとかロイを叩き伏せようと更に攻撃を激化させようと試みるが…もうすでに、ヴォルクスの攻撃行動は限界を迎えている。熱粒子砲を大量放射し続けている現状では、もはや新たな腕一本すら生やすことが出来ない。
「クッソ、クソクソクソクソッ! なんで当たらねぇんだよ、なんで平気なんだよ! 凡愚のくせして、生意気――」
悔しさのあまり、不満を罵声の形で表現するヴォルクスであったが、その言葉は最後まで言い切ることが出来ない。何故ならば――突如、ロイの気配を感知できなくなったと認識した瞬間、彼の岩峰の顔面の目前に、漆黒の竜人の姿が現れたからだ。
その姿の正体は、もちろん、ロイである。ただし、熱線放出前に見た彼とは、体型が少々異なる。身体の大半はトゲトゲと逆立つように目立つ分厚い漆黒に鱗に覆われている。そして翼は、片翼でロイの全身を覆おうほどに巨大化しており、その下辺にはジェット機構を想起させる励起済み術式の高速噴射が見て取れる。この変化によって、士師の能力をも凌駕する能力を体現したようだ。
ギラリとした剣呑な嘲笑を浮かべるロイの顔面を眼にし、ヴォルクスはゾワリと岩肌が震える悪寒を感ずる。これを振り払うかのように、胴についた腕を振るってロイを狙うが――遅い。
ロイの姿が、視界から消える。何処へ、という疑問が湧く間もなく、ヴォルクスは巨大な腹部を揺るがす激震と衝撃に襲われ、巨峰の体躯を大きく"く"の字に曲げる。
ロイが神速と称して過言でないほどの速度で飛翔し、その勢いのまま、右足でヴォルクスの腹部の中央を蹴りつけたのだ。慟ッ、と激突の轟音が響いた直後、ロイの竜足は士師の岩盤の腹部に深く抉り込まれる。同時に、ビシビシビシと痛々しい破砕音が聞こえると共に、激突点を中心に盛大な亀裂が走る。
「学習能力がねぇな、士師サマ! 余裕ブッこいて隙見せてたら、オレは容赦なくアンタをブッ叩くぜ!」
ロイが豪語する頃には、ヴォルクスは羞恥と後悔、そして強烈な苦痛によって、すっかりと集中が乱れる。そのため、大地から生えた50を超える腕はぴたりと熱粒子砲の放出を停止。灼熱の地獄はいくつかの残存爆発を名残惜しそうに響かせたのち、静寂と化す。後に残るのは、コンサートホールの通路であったことを微塵も匂わせない、呆然と立ちつくす岩腕ばかりが生い茂る不毛の焦土である。
この空虚な大地へと、無様に身体を投げうつ羽目になったヴォルクスであるが、士師の矜持を振り絞り、ロイへの反撃に足掻く。すなわち、真紅に輝く口腔をグワァッと限界まで開くと、その内から熱粒子砲を発射したのだ。ただ一撃にエネルギーを集中させたこの攻撃は、それまでの粒子砲よりも段違いの断面積と熱量で、瞬く間にロイに肉薄する。
一方、凶悪な熱線と対峙するロイは――ピクリとも回避する素振りをみせず、嘲笑を浮かべたまま、動かない。いや、ただ一挙動のみ、巨大な片翼で我が身の前面を覆った。直後、怒怒怒ッ、と轟然たる爆音をまき散らしながら、熱粒子砲がロイに直撃する。
ヴォルクスの足掻きは実を結んだ――かに、見えたが。彼の顔には、一向に明るい表情は見えない。それどころか、ますます焦燥の色を濃くする。
ロイの竜翼は、熱粒子砲の直撃に焼滅することも溶融することもなく、平然と防いで受け流したのだ。その光景は、まるで瀑布の大水量を、コウモリ傘で平然と受けているような有様を想起させる。
(バカなっ! 重金属が蒸発する温度だぞっ!?)
岩を穿っただけの眼窩を限界まで見開き、驚愕に戦慄くヴォルクス。そこへ、熱粒子砲を最後まで受けきったロイが、バサリと竜翼を開く。同時に、彼の頬が吸気によって膨らんでいるのが見える。閉ざされた唇のわずかな隙間からは、パリパリと青白い電光が見える。
(クソクソクソクソッ、息吹が――)
崩れた大勢に鞭打ち、慌てて防御行動をとるヴォルクスであるが、全く間に合わない。一対の腕を上げるよりも速く、ロイは牙だらけの口腔を開いて嵐のような吐息と共に、雷光を吐き出す。
蛮ッ――大気の破裂する轟音と共に、電光は多頭の大蛇となってヴォルクスの岩石の身体を這い回る。そのまま大地にまで達すると、林立する岩腕のことごとくを雷光の蛇体が締め上げる。岩石は電磁気の暴力によってギシギシと激震すると、神霊力による結合を打ち消され、物言わぬ岩屑となって崩壊してゆく。
岩腕がことごとく瓦解した頃、ヴォルクスの巨躯は電撃による焦煙をもうもうと上げながら、ズズンと大地に倒れ込む。
その始終を見届けたロイは、スチャリと素早く、鋭く着地。強化した竜翼を収縮させて畳むと、腕組みをして倒れたヴォルクスに視線を投じる。
(…ロイ君って…本当に凄い…)
ようやくロイの姿を眼にしたノーラはもう、感心以外の何物の感情も浮かばない。何よりも驚かされたのは、ロイの損傷具合だ。さすがに衣服は高熱に晒されてボロボロだが、皮膚は軽い火傷程度の赤い腫れが点在する程度。鱗に到っては――漆黒の色で損傷の程度がわかりにくいだけかも知れないが――全くの無傷に見える。口元には血を吐き流した後が見えるが、恐らく、ヴォルクスに大地に叩きつけられた際に生じたものだろう。だが、失血で顔色が悪くなっているワケでもなく、大したダメージには見えない。
神の使者を相手にして、これほどの実力を見せつけるとは、正に"化け物" である。
「なぁ」
いまだ電撃の影響を受け、立ち上がれないでいるヴォルクスに、ロイは鋭く呼びかける。
「お前、さっき、”神から賜りし力を全開にした”って言ってたよな?
ってことは、今のがお前の"底"か?」
"底"…つまり、これ以上ない限界の全力か、とロイは士師に問うている。
その質問に、ヴォルクスはゴリゴリと岩石の歯を合わせて、答える。苦々しい悔しさに満ちる雑音は、言葉よりも明快な答えを物語っている。
しかし、ロイはあくまでヴォルクスからの明確な回答を待つ。しばし重い歯噛みの音が続く。
再びロイが、口を開く。その言葉は決して急かしも焦りもしていない。
「もし、あれがお前の"底"だって言うなら、オレはもう終わりにするぜ。
これ以上、お前を見る必要はないからな」
…つまり、ロイはこの激闘の中で、わざとヴォルクスの全力を出させていた、ということだ。これは単に、ロイの個人的な主義によるものだ。自身の勝敗の見込みに関係なく、相手の性格・実力にも関係なく、相手に敬意を払って全力を出させる。その上で、自身の力を振り絞って勝利をもぎ取ることを、自身の誇りとしているのだ。
ロイの敬意の払方は、しかし、ヴォルクスの高慢なる自尊心を傷つける。神に選ばれし超人が、涜神者に見下されていると認識したのだ。歯噛みはますますゴキゴキと恨み音が立て、全身が憤怒と羞恥でブルブルと震える。
再びロイはヴォルクスの答えを待ち、またも無言の時間が訪れる。その無為さに呆れたのか、ロイがついにはぁー、と深い溜息を吐く。
「なぁ…」
三度、声をかけた、その瞬間。ヴォルクスの巨躯がゴウンッ、と轟音を立てて跳ね起きる。
「"底”ってぇのはなぁ…っ!」
狂気を帯びた険を含ませて叫ぶ、ヴォルクス。その時、ロイの後方で、「あうっ…!」と力ない掠れた悲鳴が響く。
素早く振り返ったロイの視界に飛び込んできたのは…大地から生えた一本の岩腕と、その手中に握り込まれているノーラの姿である。
「こういう"切り札"を見せて、初めて"底"って言えるんだよっ!」
敬虔なる神の使者にあるまじき、卑劣な行為。だが今のヴォルクスには、良心だの羞恥心だのの仮借はない。凡人に敗北することこそ、彼の最大の汚辱なのだ。
「余裕ブッこいてたのは、てめぇの方だったなぁ、クソガキぃ! こんなズタボロの怪我人を、戦場のすぐそばに放置しておくたぁ、ひでぇ落ち度だぜ?」
ノーラに視線を注いだままのロイの背中に向け、ヴォルクスはねっとりとした勝ち誇った声を上げる。
そしてヴォルクスは、再び大地から岩腕を無数に生成。ロイを取り囲むように配置し、指先を向ける。この頃、ヴォルクスはようやく電撃の息吹の影響から回復してきていた。
「さぁて、竜のクソガキ。今まで散々にオレを虚仮にしてくれたなぁ。今度は、オレがお前を足蹴にする番だ!
この女を握り潰されたくなけりゃあ、大人しくオレになぶられろ!」
この言葉が、神に選ばれし敬虔なる超人の口にする台詞であろうか? 寸劇の三下の小悪党が口にするような、全くもって下卑た物言い、そして卑劣な行為だ。だが、人道を重んじる者に対しては、非常に効果的な足枷であろう。
しかし…この足枷、ロイには全く効果がないようだ。彼の背は怒りに震えることも、失意に戦慄くこともない。嵐の中にぽっかり開けた凪のように、ピクリとも反応を見せない。
…いや、少しの間を置いた後、ようやくロイは反応を見せる。だが、それはヴォルクスが望むようなものとは全く相反するものだ。すなわち、ロイは幼子の悪戯に呆れ果てたような、深く長い溜息をはぁーっと吐き出しのだ。
「なぁ…アンタさ、思ったよりずっと底の浅い、つまんねぇヤツなんだな」
ロイがチラリとヴォルクスを振り返り、不愉快そうに見下したジト眼を送る。視線からは、怒りも焦りも全く感じられない。ひたすらに呆れ、そして憐れみさえ混じる、余裕綽々の態度である。
これには、有頂天に立っていたヴォルクスも、不快の深淵へと転げ落ちてしまう。
「何、余裕ブッこいてンだよ、クソガキッ!
てめぇの大事な大事な、可愛いメスガキの生殺は、このオレが握ってるンだぞ!? 今すぐこの手に力を込めりゃ、メスガキの胴体はグチャグチャに捻り潰れるんだぜ!
それで構わねぇワケねぇよなぁ!? そンなら、泣いてオレに慈悲を懇願しろよ、このメスを助けてくださいって頭下げて、オレに命を差し出せってンだよッ!」
「確かに、ノーラを捻り潰されるのは困るけどさ…」
相変わらずジト眼のまま、ロイは冷たく言い放つが…ふと、その眼に嘲りが灯り、細い弧を描く。
「アンタにゃ出来ねーよ。出来ねーことを突きつけても、脅しにはなんねーぜ?」
「ンだと、てめぇ…ッ!」
ヴォルクスは、完全に頭に血が昇った。ロイが何を目的として挑発しているのか…仲間を助け出す隙を伺っているのか、それとも人質を取らねばならない立場を逆手にとって精神的に追い込むためか…分からないが、ヴォルクスは駆け引きに葛藤する理性的な優柔不断さは持ち合わせていない。常に感情の赴くままに行動する彼は、思考を一色に染めた激怒の導きに身を委ねる。…そう、彼はノーラを握り殺すことを即決した。
「てめぇのクソ生意気な口を恨みやがれ、クソガキッ!」
ヴォルクスは全力でノーラを握る岩腕を握り込む…が、彼は即座に違和感を感じる。力が、全く入らない! それどころか、指の一本すらピクリとも動かせない! 岩腕は、単なる岩石の彫刻となってしまったようだ!
異常は、ノーラを握る一本の腕だけに留まらない。ロイを囲む腕も全て、ピクリとも動かせない! そして、大地から生えたヴォルクスの上半身も、その大半が動けない状態に陥っていた。痺れも何も感じなかったため、今の今まで己の窮地を知覚できなかったのだ。
(何が起きてンだ!?)
ヴォルクスは慌てて、原因を探るべく思考を巡らす。士師の力が、一般の魔術と同様に、欠陥暴走を引き越してしまったというのか? いや、あり得ない! この力は"神"から得たもの、落ち度などあるワケがない! どこかに人為的原因があるはずだ!
人為的――"誰が為したか?"と自問すると、即座に答えは導かれる。…竜のクソガキだ、それ以外に考えられない! 手中のメスガキのはずはない、このズタボロの状態で強大な『神法』を凌駕できるワケがない!
では、竜のクソガキは一体、何をしたというのだ? メスガキを人質に取って以降、背を向けたまま一歩たりとも動いてはいない。ひょっとすると、手の動きだけで成立させる類の象形魔術を使用した可能性も考えられる…が、ヴォルクスはすぐにこれを否定する。魔力の励起の気配も一切感じなかったからだ。
だが、"何か"はしたはずだ! ヴォルクスは焦燥に怯懦が混じる瞳を皿のようにして、ロイの体を注視すると…ようやく、見つけた! だが、この時ヴォルクスの胸中にわき出した感情は、感激や安堵よりも、困惑である。
何せ、彼が見つけたロイの動きとは、竜尾を大地に深々と突き刺しているというものだ。尾が潜り込んだ地点からは、大した魔力の励起を感じない…だからこそ、ヴォルクスは今まで異変を感知することができなかったのだ。そんな静かな竜尾が、己の強靱無比な巨躯を足止め出来るというのか!?
「てめぇ、その目障りな尻尾で、オレに何をしやがった!?」
深く考察する習慣を持たぬヴォルクスは、ついに思考を放棄し、当人へ疑問をぶつける。するとロイは、ようやく気付いたのか、と見下し嘲る表情を浮かべてヴォルクスに向き直る。
「アンタ、"竜脈"って言葉、知ってるか? 自然魔術の一派、風水道が定義している惑星規模の魔力の配置および流動の分布のことさ。惑星の大地にはどんな箇所にも、大なり小なり、竜脈が存在する。
オレの尻尾は、その竜脈にアクセスして、大地とつながったアンタの体へ魔力供給をシャットアウトのしたのさ。
竜脈の"竜"と、オレら『賢竜』の"竜"とは、特に関連はないんだけどさ…オレら竜族の特技は、自然現象の操作さ。
アンタが大地と融合した時点で、この方法でアンタを拘束する手段は考えてたんだよ。つまり、アンタはご自慢のバカデカい身体を手に入れた時点で、詰んでたってワケだ!」
強めた語気を言い終えたと同時に、ロイは烈風の速度で転身、その勢いのままに鉤爪輝く右脚を振るう。宙を裂いた蹴りは、そのまま魔力の斬撃波となり、前方の岩腕を数本を横一文字に切断して貫通。そのまま、ノーラを掴む岩腕をも切り落とす。破壊された岩腕は、もはや士師ヴォルクスの身体ではない、物言わぬ単なる岩塊である。
「あっ…!」
支えをなくしたノーラは、重力の為すがままに大地へと自由落下する。そこへロイは、竜尾を大地に突っ込んだまま、ノーラへの着地点へと急ぐ。疾駆するにつれて竜尾は大地を裂き、ロイの後ろにはボッコリとした狭い裂け目で出来る。
見事、ロイはノーラを両腕の中にしっかりとナイスキャッチ。ノーラは激突を覚悟して眼を瞑っていたが、身体を包む柔らかな体温を感じると、ゆっくりと瞼を開く。そして、視界一杯にニカッと笑んだロイの顔を見て…安堵の微笑みを浮かべる。
「わりぃわりぃ」
ロイの笑みにバツの悪そうなはにかみが混じる。
「"ちょっと待っててくれ"なんて言っておいて、たっぷりと遊んじまった。挙げ句に、アンタには怖い想いさせちまった。ホント、悪かった」
「ううん…大丈夫…。
ただ、火傷と打撲が、まだまだ痛いけど…それ以上のことは、ないから…」
「そっか」
和やかに語り合うロイとノーラの一方で…取り残されたヴォルクスは、悠長に二人のやりとりを傍観してはいない。今や巨大な木偶と成り果てた大地の身体を見限り、大地との融合を解除する。
ゴトゴトゴト…騒がしい激突音を奏でながら、ヴォルクスの巨躯と岩腕は瓦解し、ただの岩塊として大地に落下、静止する。この岩の雨の中、体長4メートルほどに縮んだ、赤黒い溶岩質の身体を持つヴォルクスが姿を現す。
(クソクソクソッ…!)
自由落下しつつ、真紅に輝く眼窩をロイの背中に注ぐヴォルクスは、胸中でやかましく喚き立てる!
(どこまでも、どこまでも、どこまでも…オレを虚仮にしやがって! 女神に選ばれし崇高な超人である、このオレを!)
しかしここで、ヴォルクスは表情を一変し、ほくそ笑む。考えてみれば、これは好機だ! 胸糞悪い竜のクソガキは、無防備にこちらへ背中を向けている! こちらには散々「隙だらけだ」と指摘しておいて、自分で致命的な隙を晒すとは、間抜けなことこの上ない!
(貧弱な雑魚に一々構って、戦いを忘れてやがる! いくら希少種族だ、竜だといえども、超人の前じゃただの凡愚に過ぎねぇ!)
着地するより早く、ヴォルクスは自由になった神霊力をまとめ上げて右拳に収束し、熱粒子砲を準備する。メスガキ共々、竜のクソガキを貫き、素粒子レベルに蒸発させてやる魂胆だ。
だが…ヴォルクスの見解に反して、ロイは間抜けではない。自らが指摘し続けてきた落ち度を見せたのは――故意だ。戦いを忘れてなんて、いない。
ヴォルクスの右拳の神霊力が恒星の熱を宿すよりも早く、ロイが竜尾を大地から引き抜いて、ノーラを抱えたまま振り返る。この時にはすでに、ロイの口は牙でしっかりと閉じられ、息吹のための吸気は終わっている。
(マズい!)
ヴォルクスの表情が、またもや一変する。優越の極楽から、焦燥と怯懦の地獄へと一気に転落したのだ。ロイの牙の隙間から漏れる、真紅の励起光を持つ術式からは、士師の身に震えを起こすほどに高められた魔力が読みとれる。なんとかせねばなるまい、だがこちらの攻撃準備は十分ではない。不十分であろうとも、相手の意気をくじくために攻撃を放つべきか、それともギリギリまで準備の充実を図るべきか!?
ヴォルクスは慌ただしく逡巡する。それが、彼にとっての命取りとなった。
呀ッ! ――ロイが、吠えた。その咆哮は世界そのものを揺るがすような音圧を持つ、音の暴力であった。
この暴音と共に、ロイの牙だらけの口から、火炎の奔流が吹き出す。火炎――そう、赤々と輝きギラギラと熱光を放つ、紛れもない炎だ。それがヴォルクスの巨躯をも飲み込むような大体積で空間を驀進する。
ヴォルクスは溶岩を操る士師、先にノーラが懸念した通り、炎や燃焼といった概念に近しい存在である。そんな彼にとっては、どんな強烈な炎であっても親戚同然、全く恐るるに足りない…はずであった。だが、ロイの咆哮に気圧されたのか、はたまた単なる予感か…ヴォルクスは両腕を身体の前で交差させ、防御態勢を取る。
直後、ロイの火炎の息吹はヴォルクスの全身をまるごと飲み込む。
そして、あり得ないはずの事態が発生する。
ああああああああああッ! ヴォルクスが、思わず絶叫する。今、彼の全身は強烈な不快感に襲われている。不快感の主な内訳は2つ…激痛、そして、"熱さ"だ。
このうち後者は、"獄炎の女神"の士師に選ばれた彼には、あり得ない感覚のはずである。"溶岩"の定義を賜り、”炎"と"燃焼"の概念の上位に立つ存在になった彼が、熱に苛まれるなどあってはならないことだ。
しかし、"あってはならない"はずの事象が、現にここで発現し、ヴォルクス本人を蝕んでいる!
(痛ぇ痛ぇ痛ぇ痛ぇ痛ぇッ!)
いまだ止まぬ炎の奔流の中、"溶岩の士師"は己を苛む辛苦に暴れ悶える。だが、全身で激しく拒絶を訴えたところで、直ちに彼の望む通りになるほど、世界は優しくはない。それどころか、激痛と熱さの二重苦はジリジリと体表から体内へ向かって、着実に侵入してくる。これが意味することは――誠に奇妙極まりないが――士師の溶岩質の身体が燃焼している、ということだ。
やがて士師の身体は、ドサリと、床に叩きつけられた皿の上の料理のように、無様に着地する。同時に、ようやくロイの火炎息吹が止み、空間に荒涼とした閑寂が訪れる。ただ一つ、士師の悶え狂う騒音だけが耳障りだ。
身を包む火炎の奔流がなくなってもなお、ヴォルクスの溶岩質の身体は激しい炎を上げている。この不可解な事実を突きつけられ、ヴォルクスは更に混乱しながらも、激化する不快感の為に大地を転げ回る。
(燃えてる! オレの炎の身体が、炎を上げて燃えてやがる!)
「何しやがったぁぁっ、クソガキぃぃっ!」
声帯が(あるならば)破けんばかりの怒号に強烈な怨恨を込めて、う゛ぉるくすが叫び上げる。それを傍で眺めていたロイは、ギラリと険悪な笑みを浮かべて答える。
「さっき言っただろ? オレら竜族は、自然現象の操作が得意だって。
これも、その応用さ。燃焼っていう自然現象に、ちょっとばかり細工してやったのさ。アンタを加護する『神法』ごと燃やしちまうように、な」
ロイは事も無げに話してみせる。しかし、彼の腕の中では、ノーラがその言葉に衝撃を受けて顔色を変える。彼女自身が先刻の戦闘で身に染みて理解した通り、『神法』を凌駕するには尋常ならざる努力と機転が必要だ。特に、相手の土俵上にある『神法』を真っ向から破るなんて真似は、無謀としか言いようがない。それを、この竜の青年は、気苦労も見せずに成し遂げたのだ。
("暴走君"なんて呼ばれてるロイ君だけど…"暴走"なんてレベルの烈しさじゃない…!)
驚愕を通り越して、呆れの念を抱いてしまうほどだ。
一方…ヴォルクスも、ロイの語った並々ならぬ答えに、何か言いたげであったが…それを咽喉から吐き出す前に、激痛が彼の口を塞いだ。熱した鉄板の上に放り投げられた芋虫のように、ビクビクと激しく悶え狂い、声にならない掠れた悲鳴を上げる。
そこへロイが、ダメ押しとばかりに言葉をぶつける。
「そういや、アンタ、ヒトを数万人斃したことを自慢してたよな?
オレは、さすがにそれには敵わないぜ。何せ、総勢で数万もいないだろうからなー、士師ってヤツらは。
でもな…アンタには数じゃ全然及ばないけど…オレだって士師なら2桁、葬ってる」
この言葉には、ヴォルクスもノーラも眼を丸くせざるを得ない。"超人"の名に恥じぬ強大な力を持つ存在を、若い学生の身の上で、10を超える数を斃しているとは…! 士師が神の使いならば、ロイは神を謗って使徒を喰らう怪物そのものだ!
そんな涜神的態度が、士師の意地に火を付けた――ヴォルクスの激情が、身を蝕む辛苦を超越したのだ。燃焼の苦痛に歯噛みと共に噛み殺し、暴れ狂う苦悶の衝動を押し殺して、ズルリと巨躯を立ち上げる。真紅の眼窩はますます赤が映え、彼の無念の憤怒を体現する。
「やらせるかぁ…っ!」
苦痛にどもる口をノロノロと、しかし必死に動かす。
「てめぇなんぞのぉ、クソガキにぃ、偉大なる士師が滅ぼされるなんてぇ、あってたまるかぁ…っ!」
ヴォルクスは語りつつ、苦痛に痙攣する身体をズルズルと動かして、右腕を持ち上げる。ゴキゴキと痛々しい音を立てて堅く握ったその拳には、かき集めた神霊力が純白の小さな球体を作っている。球体は彼が得意とする溶岩や熱粒子の性質を加味したものではなく、単純に神霊力で作り上げた弾丸だ。
しかし、この弾丸が役目を果たすことはなかった。
弾丸が十分に形成されるよりも早く、ロイが動く。
「じゃあな、"溶岩の士師"。アンタの底は、オレが戦った士師の中でも、もっとも浅くて汚かったってこと…オレの心に刻んでおくよ」
無情なまでに冷たく言い放った直後、ロイは片翼を大きく、素早く打つ。羽ばたきによって生じた烈風は颶風と化すと、燃え上がるヴォルクスの身体を一撫で――いや、一揉みする。
すると…ヴォルクスの身体を包む炎が、まるで息を吹きかけられた蝋燭の灯火のように大きく揺らめくと、火の粉の舞となって散華する。これと共に、ヴォルクスの身体も吹き散らされ、粉砕され…塵芥となり、宙に舞い散った。
転瞬、ヴォルクスが飛び散った空間に純白の光の爆発が生じる。無音ではあるものの、数百を超える羽根状の神霊力残滓が吹雪のように舞い上がる様は、誰の五感にも深く訴える。この美しくも儚い光景が、暴虐な士師の最期を彩るとは、なんとも不釣り合いだ。
――何にせよ、この美麗なる散華を以て、"溶岩の士師"ヴォルクスの魂魄は昇天を迎える。
竜と士師の激闘は、竜の勝利に終わったのだ。
◆ ◆ ◆
士師の美しき散華が霞のように消え去った頃…一陣の微風が、焦土と化したコンサートホールの通路を通ってゆく。激闘の始終を見届けた世界が、改めて激闘の終結を告げたかのようにも思える。
この優しき愛撫を受けて、ロイはふぅー、と安堵の息をはいた。士師との激闘の間、終始優位な態度を見せていた彼であったが、内心ではやはり只ならぬ緊張を抱えていたようだ。生死を賭して"超人"と相対していたのだから、当然と言えよう。
ようやく平穏を噛みしめたロイの体に、変化が起こる。竜化した漆黒の部位から、きらめく黒紫の術式が解放・蒸発してゆく。これにつれて彼の翼は編み物を解くような様で消滅してゆき、手足も極平凡な五指へと縮む。牙はメキメキと音を立てながら萎んで、平凡な歯並びへと回帰。伸びた角は小さく縮んで真紅の髪の中に埋没し、尻尾も厳つさを失った。
今のロイは、ノーラが学園内で初めて出会った頃の姿に戻っている。ただし、制服がズタボロだったり、皮膚の所々に軽微な火傷があるのは、相違点だ。
気軽な姿に戻ったロイはもう一度、思い切り深呼吸。勝利の空気を肺一杯に味わっているように見える。
そして、抱えたノーラに顔を向けると、ニィッと上機嫌の笑みを浮かべる。
「ようやく片づけたぜ、ノーラ!
…それにしても、オレもアンタもボロボロになっちまったなー!
特にノーラ…今まで戦うのに夢中で気にしてなかったけど…こうやって見ると、相当ヤバいじゃねーか!」
語りながらロイの表情に段々と焦りの色が濃くなる。士師との戦闘では全然見せなかったのに、仲間のこととなると急にオロオロし出すロイの姿が、ノーラには何とも滑稽に映る。思わず、クスクスと笑い声が漏れてしまったほどだ。
「…? なんかオレ、変なこと言ったか?」
「ううん…別に…ただ、私の個人的なツボってだけだから…気にしないでね」
「??」
疑問符を浮かべて首を傾げるロイみながら、ノーラはなおもクスクスと笑い…そして、はっと思い至る。
…"仲間"。さっきノーラは、ロイにととっての自分の立場をそのように称した。確かに今回の戦いにおいて、彼女は大きな役割を果たしてはいる。しかし…本当の意味で、彼女はロイたち星撒部の仲間と言えるのだろうか? 特に入部希望でもなく、成り行きと周りの雰囲気に感化されて協力したに過ぎない自分は、"仲間"だとしても仮初めの存在に過ぎないのではないか?
そんな疑問を抱いたノーラは、痛みよりも愉快さよりも、急な寂しさに襲われて表情に影を落とす。
彼女の急な変化に、只ならぬ事情を察知したロイは、至極真剣に問いただす。
「…どうしたんだ、ノーラ? 気に障ってることがあるなら、遠慮なく言ってくれよ?
オレはさ、仲間が暗い顔をしてるのを見るのって、どーしても苦手でさ…。まぁ、個人個人の事情があるってのは分かるんだけど、それでもやっぱ、笑ってる方が楽しいだろ、って思うからさ」
"仲間"。ロイが口にしてくれたこの言葉に、ノーラははっと悲哀の色を消し、驚きの表情を作る。
「私…ロイ君の仲間で、いいの…?」
「当然だろ」
きょとんとした顔で、ロイが即答する。その余りにも無抵抗な語り口に、望み通りの言葉をもらったはずのノーラは、思わず否定的な反応を見せる。
「でも…私、大したこと、出来てないし…! イェルグ先輩やヴァネッサ先輩には、凄く迷惑かけちゃったし…! ロイ君にも、気を遣わせちゃって…!」
「迷惑も何も、ノーラは精一杯、オレたちのための力を尽くしてくれたじゃねーか。それで十分だろ、オレたちの仲間である理由は、さ。
それに、未経験の仕事をぶっつけ本番でやったんだ、うまくいかないのは当然さ。っつーか、オレたちだって、未だに完璧に納得行く結果なんて、残せてねぇ。だからこそ、この部活に籍を置いて、戦い続けてるのさ。
オレたちはどんな種族だろうが、所詮はみんな同じ"ヒト"。"神"じゃねーんだから、完璧じゃないからって気に病むことなねーさ」
そう力強く言い放ち、ニカッとヒマワリの笑みを見せるロイに、ノーラの鼓動が高まる。恋愛的な意味で惹かれた…というよりも、彼の単純明快で器量の広い思考に魅せられたのだ。
(私…もっともっと、ロイ君や皆さんと、こうやって力を尽くす時間を持ちたい…!)
ノーラの中に躍動する"飢え"が生じる…が、それに従って動こうにも、疲労と損傷が邪魔だ。早く治さないと…と意識した途端、体の重さや痛みがズッシリ、ズキズキと疼きだし、ノーラは不快感に顔をしかめる。
「おっと、いつまでもこのままにしとくってのは、体に毒だよな。
待ってろ、すぐにヴァネッサの所に連れてくからな! あいつなら傷や疲労、それに放射線障害の浄化の霊薬だって持ってるはずさ!
そんじゃ、こんな場所からはとっとと引き上げるとするかぁ!」
言うが早いか、ロイは尻尾を一打ちして気合いを入れると、力強く焦土を蹴って走り出す。目指す先は、溶融して狭くなった、ホールへ続く通路の続きだ。
ザッザッザッ、とガラス質になった土を素足で踏みつけること3、4歩ほど。もうすぐ建物の中だ、というところで…。
突如、"異変"が生じる。
- To Be Continued -