Stargazer - Part 3
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再び焦熱地獄の中を驀進すること、どれほど経過しただろうか。腕時計もしておらず、ナビットの時計も見る暇のないノーラは、正確な時間を把握できない。そこで、体感に依るしかないワケだが…そうすると、ウンザリするほどのひどい長時間が過ぎているような気がしてくる。
そんな悲観的な思考に陥っているのには、彼女の疲労感が起因する。
天使との戦闘、そして、女神による強制昇天の阻止を経たノーラは、疲労を心配するイェルグに対して気丈な答えを返していた――実際、深刻な状況ではないと考えていた――のだが。いざ、再びイェルグの豪雨の魔化を初めてみれば、魔力を使うほどに見る見る内に身体が鉛のように重くなってゆく。積乱雲中に突き立てている大剣を支える腕が、フルフルと覚束なげに小刻みに震えている。正直、大剣の重量を支えるだけでも、非常にしんどい。
「ちょっと、大丈夫かい、ノーラちゃん…? 顔色、悪いようだけど…」
見かねたイェルグが声をかけてくれる。常に顔面を叩く雨滴のせいで、自分の顔がどんな風になっているか、ノーラは把握できていない。しかしながら一つだけ、確実なことが言える。雨がなければ、彼女の顔はジットリとした嫌な冷や汗でベタベタになっていることだろう。
(やっぱり…霊魂にアクセスする魔術なんて…無茶し過ぎだったかな…)
胸中で独り言ちながら、自嘲の笑みをうっすらと浮かべると。ノロノロとした動きで濁った翠の瞳を動かし、イェルグを視界の中央に捉えると、重い唇と舌で強がりを紡ぐ。
「ええ…はい…大丈夫です…。皆さんも頑張ってるのに…この程度でヘコたれてなんて、いられませんから…」
「いやいや、全然大丈夫そうじゃないから。それに、キミはさっき、人の何倍も頑張ってたんだから、"この程度"どころの話じゃないって。素直にヘコたれて、少し休みなよ。そろそろ拠点につく頃だから、手を抜いても問題ないからさ」
「そうですか…目的地、そろそろなんですか…。それなら…そこまでは、なんとか頑張ります…。拠点こそ、しっかり守らないといけない重要地点ですから…」
「いやー、そこら辺はヴァネッサのヤツがキッチリ対策してるから、キミが気張る必要はホントないんだってば」
ヴァネッサ…ノーラの知らない名前が急に出て来た。とは言え、イェルグの話ぶりからすると、星撒部の一員のようだ。
それはともかく。ノーラはイェルグの言葉にも拘わらず、重苦しい口をパクパクさせる。
「いえ…。ヴァネッサさんという方が、どんな対策を講じたのか、分かりませんけど…どんな手段であれ、この状況です。万が一っていうこともありますから…」
あくまで強がりを貫き、意地でも作業を続ける、ノーラ。本音を言えば、言葉に甘えて、すぐにでも五体を投げうちたいところだが…。そうすると、気が抜けすぎて、身体が全く動かなくなりそうで、不安なのだ。そんなことになれば、先にイェルグから頼まれていた拠点内部での作業が出来なくなり、ただのお荷物になってしまう。
(役に立つために、ここに来たんだもの…。それだけは…絶対に…避けないと…!)
休息を求める生理的欲求と、努力を求める理性的欲求の葛藤は、ノーラの顔に如実に表れている。眉間にしわを寄せ、口角をピクピクと震わせている痛々しい表情を目にしたイェルグは、困った笑みを浮かべて頬を掻く。
(どうしたもんかねぇ…)
なんとかして、ノーラの強がりを降りたい。そう考えるイェルグは、チララチラと装甲車の周囲に視線を走らせ、状況を確認すると…途端に、顔に宿る笑みから困惑が消える。
(…?)
一体、何を確認したというのか。イェルグの行動に倣えば、何かつかめただろうが…思考もダルくなっているノーラは、ただ疑問符が頭上に漂うに任せる。
イェルグが、人差し指を立てた右腕をピンと天上向けて伸ばす。すると、頭上に低く垂れ込める積乱雲が、綿菓子を作る工程を逆戻しするように、急激な勢いでイェルグの右袖の中へと吸い込まれてゆく。そう、彼は鎮火のための豪雨を停止させたのだ。黒雲が跡形もなく消え去ると、赤い空めがけて大剣を突き上げている虚しいノーラの姿だけが残る。
この状況に至り、ノーラは初め、茫然と成り行きを見守るだけで、腕を下すことさえ忘れていた。しかしようやく、堅い土の中にジンワリと水が染み透るように、数秒遅れて状況を理解すると、はっと顔を非難の色に染める。
「そんな…! 私は、大丈夫って言ってるじゃないですか! なんで、止めてしまうんですか! 私の為だとしたら、それこそ迷惑です! すぐに鎮火作業に…」
文句を言い終えるよりも早く、イェルグが口を挟みつつ、装甲車の周囲をぐるりと指差す。
「いやいや、もう鎮火作業が必要ない場所に来たからね。オレは、不要なことはやらない主義だからさ。
ホラ、その辺を見てみなよ。炎なんて見えないだろ?」
彼の言葉に従い、ノーラがようやく視界を巡らせる。今、装甲車は周囲に建物のない、広場のような場所を走っている。とは言え、地上は全くの平坦というワケではない。電灯やら花壇、噴水や彫刻といったものもある。公園のような様相だ。しかし、この公園、非常に異様な光景となっている。タイルが敷き詰められた地上はもちろん、電灯や花壇などの突起物もすべて、水色の反射光をたたえる、角張った結晶の中に閉じ込められているのだ。どうやら、この結晶のおかげで、この場所は延焼を免れているようである。
(この結晶…氷…? いや、違う…ガラスや水晶のように、冷気を全く感じない…)
美しくも不思議な光景の中をしばらく進むと。やがて、行き先に巨大な建造物が見えてくる。遠目で見ると巨大なドーム状をしているこの建物も、もちろん、全体が角ばった水晶で覆われている。なんらかの魔術による作用であることは間違いないが、この規模が対象となると、相当な魔力が必要となるだろう。その必要量をざっと計算したノーラは、身がすくむ思いと共に、乾かぬ雨滴に交えて冷たい汗を垂らす。
この水晶に覆われた建物において、特に目を引く部位がある。それは建物の入り口部分である。高さが優に5メートルを超える、ファンタジー世界の城門を思わせる、豪奢な模様を持つ開き扉がそれだ。そして扉の両側には、装飾の雰囲気に合わせて、ご丁寧に扉の高さと同等の体長を持つ番兵が左右に1体ずつ、立っている。この番兵もまた、身に着けた全てが――全身を覆う鎧も、手にした巨大な斧槍もが――水晶で出来ている。
ノーラは、これらの番兵の全身から、産毛がチリチリと粟立つほどの魔力が湧き上がっていることを感じる。
(この兵士…人じゃない…! 使い魔だ…!)
そう、この番兵は、この水晶の世界を作り出したものと同じ力によって作り出された、人工の存在なのだ。
装甲車はスピードを少しずつ緩めながら、水晶の城門へと一直線に向かう。どうやらここが、イェルグたちの目的地であるコンサートホールのようだ。すると先ほどまで見て来た水晶の世界は、コンサートホール手前の待合用広場だったようである。
装甲車はそのまま進み、城門の30メートルほど手前まで接近する。すると、水晶の番兵たちはゴキゴキと音を立てながら素早く腕を回し、互いの斧槍を交錯させ、装甲車の行く手を阻もうとする。そこへ…。
「はいはい、オレたちが帰還しただけださ! 道を開けてもらうぜ!」
イェルグが右腕を上げ、穏やかな笑みを浮かべてまま、親しげに声を上げる。すると、水晶の番兵たちは再びゴキゴキと音を立てながら、素早く斧槍の交錯を解く。そして、装甲車の経路を確保するように、門の両側でビシッと直立して向い合せになる。そして、荒々しいフルフェイスマスクの下から、エコー掛った太い声を見事にハモらせて叫ぶ。
「お帰りなさいませ、我らが同志! どうぞ、我らが砦の中へ!」
そして番兵たちは、閉ざされた門の扉に片手を添えると、グイッと押し開く。城門はガゴガゴと耳うるさい軋みの音を立てながら、重厚な動作でその大きな口を開く。
装甲車は、そんな番兵の横を難なく過ぎり、コンサートホールの中へと入る。その途中、イェルグは一方の番兵に対してウインクし、上げた右腕を振ってみせる。
「お勤め、ご苦労さん! 主にゃオレからよろしく伝えておくよ!」
そう伝えると、番兵たちは感謝のつもりなのか、三度ゴキゴキと音を立てながら腕を上げ、敬礼の恰好を取って見せた。
そんな番兵たちの様子を一しきり見送ったイェルグは、今度はノーラに向き直って語る。
「そんじゃ、オレたちの拠点にご案内だ」
そう言うが早いか、装甲車はコンサートホールの内部へと進入した。
コンサートホールの内部、ホール本体へと続く広い通路は、ぼんやりとした淡い水色の輝きに照らされている。この光は、通路の光源によるものではない。通路内を覆い尽くしている水晶が放つ輝きだ。一方で、天井に一定間隔で並ぶ電灯には、光が灯っているものは見当たらない。どうやら、発生中の大規模な都市火災によって、停電が起きているようだ。
「んー、とりあえず手筈通り、ホールに行って避難民を下しとこう」
イェルグはナビットに向かい、音声通信で指示を出している。通話の相手は、装甲車の運転手だ。相手は了解の意を知らせると、通信は早々と終了された。
ホール本体へと進むしばらくの間、ノーラは無言を貫いている。その表情は、鬼気迫るものを感じさせるほどの、ぐったりとした疲弊感が露わになっている。コンサートホールに入って後、鎮火作業を行わずに済むことを知覚した途端、それまで必死に押し込めていた疲労が一気に噴き出し、全身に重くのしかかってきたのだ。瞼は鉛のように重くなり、意識にもうつらうつらと漆黒の混濁が混じる。
「もう作業する必要もないんだし、ゴツゴツした床でなんだけど、ちょっと横になって休んだらどうだい?」
隣でイェルグが苦笑しつつ声をかけるが、ノーラは無言を貫いたまま、ゆるゆると首を左右に振って拒絶する。やはり、自分から役に立つと大枚はたいてここへ来た経緯が気になり、安穏と休息を貪ることに強い罪悪感を覚えてしまう。
「…いやぁ、意気込みは分かるんだけど…そんなフラフラした状態で、これから先の作業を手伝ってもらうってのは、オレたちとしても心苦しいしなぁ…。
ヴァネッサのヤツ、なんか良い霊薬持ってないかな…」
イェルグは困ったように頭を掻く。その仕草に申し訳なさを感じてしまうほど、ノーラは非常に生真面目な性格をしていた。
さて、二人が語り合っているうちに、装甲車は通路を抜け、ホール本体へと到達する。周囲が一気に煌々と明るくなり、薄明かりに慣れつつあったノーラの瞳は軽い痛みを覚え、反射的に瞼を閉じるものの、刺激で眠気がわずかに飛ぶ。小粒の涙に濡れる瞳をゆっくりと開き、周囲を見回すと…そこに広がる光景に、彼女は唖然とする。
壮麗にして、非常に奇妙。その言葉がよく似合う風景が広がっている。数万人を擁することが出来るほどの巨大な円形のホールは、床のみを残し、柱や天井といったあらゆる部分が澄んだ青色の水晶に覆われている。ホールの天井の中心からは、巨大なシャンデリアの形をした水晶塊がぶら下がっており、そこから日常生活を送るには十分すぎる量の光がもたらされている。このシャンデリアだけではない、柱を覆う水晶も、まるでファンタジー映画に出てくる王宮か神殿にあるような、非常に豪奢な装飾が施されている。
これらの水晶をホールに張り巡らせている理由は、耐火が目的なのであろうが…この装飾は方術学的に意味のあるものではなく、純粋な"飾り"に過ぎない。完全に術者の趣味の領域であろう。
豪奢な装飾ばかりに目移りしがちだが、地上に目を向けると、印象はガラリと変わる。そこには、黒々とした人海が雑然と広がっている。足の踏み場がないのでは、といぶかしむ程に高い人口密度だ。
この光景において唯一、開けている場所がある。人海の中をカラーコーン等で隔てて作った通路である。幅は装甲車1両が通れるほどだ。そして通路の行き先は、ホールの端に設けられた、装甲車の駐車スペースともいうべき広場である。そこには現在、3両の装甲車が平行して駐車している。車輛表面にチラチラと明るい火花が散っている様子が見て取れるので、メンテナンス中のようである。
ノーラ達を乗せた装甲車もまた、通路に沿って駐車スペースへと一直線に向かう。
道すがら、ノーラは人海の方へと目を向ける。そこには、異層世界中から集まってきたであろう、多種多様な人種がギュウギュウに身を寄せ合っており、混沌とした様子を呈している。身に降りかかった絶望に身をゆだね、身を抱くようにして座り込んでいる者。親子で抱き合ったまま、険しく眉根を寄せた視線で、どこともない虚空を睨んでいる者。一人では感情を御しかねず、隣の者とボソボソと会話を行っている者。中には、感情が爆発し、暴力沙汰が起こっている箇所も見受けられた。そういう場所には、人海の中から紺色の制服を着こんだ治安局員がどこからともなく現れ、必死に仲裁を行っていた。更には、深刻な損傷を負っている人物の周囲に医療関係者が群がり、その場で手術を行っている場所まで見受けられた。
外を焦熱地獄とすれば、ここは叫喚地獄と言えるかも知れない。
(…こんな酷い状況…絶対に、私たちの手で、終わらせないと…!)
莫大な人々が苦悩する様を見て、精神に冷や水を浴びせられたノーラの意識からは、もはや完全に眠気は飛んでしまった。代わりに、胸中でメラメラと燃え上がる強靭な決意の炎が、彼女に力を与えるのだった。
さて、装甲車が駐車スペースに到着すると。予め申し合わせていたかのように、駐車中の装甲車の合間から次々と消防局員たちが姿を見せる。そして、ノーラたちの装甲車が停車すると同時に、後部ハッチが重厚な動作で開くと、外へとわっと飛び出そうとする避難民を素早く受け止め、なんとか秩序的に誘導しようと試みる。軽度の火傷を持つ者たちは、人海の中へと誘われていく一方で、重傷者は装甲車の陰の方へと連れて行かれる。通信機を手にしている者が同行しているので、医療関係者に連絡を取っているのだろう。
後部ハッチから、最後に幽霊となったロイドが姿を現すと、消防局員たちはたまらず唖然として、一瞬動きを止めてしまったが。
「オレの身体の状態なんざ、どうでも良いだろ! お前ら、きちんと自分の役割をこなせ!
オレもこの身体ながら、やれることはやるつもりだ!」
そんな健全な一喝が響くと、消防局員たちははっと我を取り戻し、再びキビキビと自分たちの役割をこなすのであった。
一方。装甲車の上に乗っていたノーラたちは、消防局員や避難民が周囲から離れていったのを確認してから、地上へと飛び降りる。流石はユーテリアで心技体の英才教育を受けている彼らのこと、疲労がたまった身体でも軽やかに着地をしてみせる。
「さて…と」
イェルグはキョロキョロと辺りを見回し、誰かが探しつつ小さく声を出していると。
「ご苦労様でしたわね、イェルグ」
装甲車の陰から、少女の声が飛んでくる。口調に似つかわしい高貴さと優雅さ、そして高慢さが含まれた声だ。これを聞いたイェルグは、探し人得たりといった様子で微笑みを浮かべると、声のした方へと顔を向ける。
「お前の方こそご苦労さん、ヴァネッサ。この広範囲にずっと魔術を作用させるのは、流石のお前も堪えるだろ?」
「いいえ、それほどでもありませんわ」
その台詞を口にしつつ、声の主の少女がようやくノーラの前に姿を現す。ノーラと同じくユーテリアの制服――ただし、細部のディテールはアレンジしてある――を着込んだ、女性的な凹凸のはっきりしたフォルムを持つ人物である。とは言え、先に部室で見たアリエッタやナミトほどにはグラマラスではない。しかし、彼女の身体で目を引くのは、その体型ではない。長く伸ばしたポニーテールの髪の色だ。頭から髪先にかけて、水色から淡い緑色へと移り変わる美しいグラデーションが掛かっている。当然、元来の地球人類ではない、別の異層世界の出身種族だ。そして瞳の色もまた、一風変わっている。角度によって青から緑へと変わる、ガラス工芸品のような虹彩である。
少女は姿を見せると、貴族的な仕草で優雅にポニーテールを掻き上げると、伏し目がちな目つきでノーラを見遣る。
「この娘が、あなたの言っていた仮入部員の助っ人? ここに来るまでの間だけで、フラフラではありませんか。頼りなさそうな娘さんですこと」
この言い草にノーラは内心でムッとなる。その感情が顔に出てしまったかは不明だが、慌ててイェルグがフォローを入れる。
「いやいや、蒼治よりもよっぽど頼りになったよ。お前、さっき見なかったか、幽霊になった消防局員? あの人が"獄炎の女神"の元に昇天されそうになったところを、このノーラちゃんが助けてくれた結果だよ。離散してゆく霊魂を形而上相にアクセスして収集し、再構築する。まさに神業だったね!」
「確かに、話の内容だけをお聞きしますと、素晴らしい技術をお持ちのようですけど…」
ヴァネッサは伏し目をジト目に変え、高慢に加えて露骨な嫌味を交えて言葉を続ける。
「そもそも、消防局員の方が"獄炎の女神"の魔手に落ちないように振る舞うことが、何よりも必要ではなかったのではありませんこと? そうすれば、その方は身体を失わずに済みましたでしょうに」
一々突っかかってくる言い方に、ノーラがムカムカし、ピクピクと眉根が動き始める。一方で、イェルグは頭の後ろを掻きながら再びフォローする。
「その落ち度に言及するなら、それはオレとロイの責任だよ。オレは、まさかあのタイミングで"獄炎"の天使が出現するなんて、全く予測してなかったからね。万全を期すなら、考慮して然るべきだったんだよ。
あと、ロイのヤツも同罪だってのは、オレはあいつに天使の足止めをお願いしたってのに、天使がこっちに襲い掛かってきたからさ。あいつ、絶対に職務怠慢だよ。
…ってゆーかよ」
申し訳なさそうな態度を取り続けていたイェルグが一転、笑みに意地悪な色を交え、攻撃的な雰囲気を醸し出す。
「ヴァネッサ…見知らぬ女の子に一々嫉妬するんじゃねーよ。
オレは浮気するほどの甲斐性はないって、いつも言ってるだろうが。オレに甲斐性があるとすりゃ、空に関連することだけだっての」
「それはそれで困りものですわ! 空にしか興味を持たないなんて、我がアーネシュヴァイン家の婿として、大失格ですわよ!」
ヴァネッサが声を荒立てる。その内容から察するに、彼女とイェルグの間柄は、どうやら恋愛関係――もしくは、それ以上の関係――にあるようだ。
この事情を悟ったノーラの胸中からイラ立ちがスーッと消え、代わりにきょとんとした表情が顔に浮かび上がる。すると、今度顔色を変えたのは、ヴァネッサだ。彼女は不意に叫んだことを恥じて頬を赤く染めると、過去を誤魔化すように咳払いをする。そして気分を投げ捨てるように、手早く荒い動作で前髪を掻き上げると…今度は、その顔に涼やかにして凛々しい、利発的な笑みを浮かべ、ノーラの顔を真っ向から見遣る。
「失礼しましたわね、ノーラ・ストラヴァリさん。あなたのことを、てっきり、わたくしの婿に手を出した不届き者かと考えてしまいましたの。声を荒げたり、嫌味を口にしたりなんてして、本当にごめんなさいね」
「いえ…ご事情、お察しします…。
とは言え、私はまだ、恋愛なんて、よく分かりませんけど…その…何となく、本能的な感じで、理解できました…」
自身が語る通り、ノーラには恋愛経験なんてない。故郷にいた頃は『現女神』を目指すための教育ばかりで、同年代の子供と遊ぶことは滅多になかったし、男子に熱を上げる暇なんてもちろんなかった。しかし、もし男子と交流があったとしても、彼等に恋慕の感情を抱いたとは思えない。何しろ、男女問わず、同年代で彼女より優れた身体能力・知識・技術を持つ者はいなかったのだから、幼い少女にありがちな憧憬からくる恋慕は湧かなかったことだろう。
ノーラの本気で戸惑いが混じる反応を目にしたヴァネッサは、いよいよ安堵する。そして、正に"歩く姿はユリの花"と形容できるような腰ぶりと足取りでノーラに近寄ると、握手を求めて柔らかく手を差し出す。
「本当に純朴な方なのですわね、ノーラさんって!
さっきのことの謝罪を兼ねて、お近づきの握手してくださるかしら?」
「あ…はい。こちらこそ、よろしくお願いします…」
ノーラがおずおずと差し出した手を、ヴァネッサはしっかりと握り、軽く上下に振る。その直後、はっと目を開くと、再び恥ずかしげな笑みを浮かべる。
「そういえば、自己紹介もまだでしたわね。わたくしとしたことが、不手際が続いてしまいましたわ。
わたくしの名前は、ヴァネッサ・アネッサ・ガネッサ・ラリッサ・テッサ・アーネシュヴァインですわ。異層世界"ランデルベルグ"の出身で、軍門貴族の家系に生まれましたの。"希望学園都市"には、アーネシュヴァイン家の長女として、家名に恥じぬ力をつけるために入学しましたの。学年は、そこのイェルグと同じく、2学年ですわ。
あ…そうそう、イェルグと言えば」
穏やかながら、口を挟むことを許さない"優しいマシンガントーク"の途中、ヴァネッサは静かに握手を放すと、イェルグの隣へとツカツカと歩み寄る。そして、彼の右肩に両手を乗せて身体を預けると、艶やかで強気な、伏し目がちの挑発的な眼差しを作る。そして、髪色とは対照的な赤の唇が一言、自己紹介に強烈な個性を加える。
「このイェルグ・エルグ・ベルグ・ボルグ・アーネシュヴァインは、私の婿ですの。
ノーラさん、今は恋愛のことをよくご理解ないようですけれど、もしも恋愛に興味をお持ちになったとしても、くれぐれもわたくしのイェルグには手を出さないようにしてくださいまし」
特に強調された"くれぐれも"という言葉に、ノーラは滑稽なものを感じ、苦笑いが顔に浮かびそうになる。しかし、失礼にあたるかと考え直し、緩みそうになる顔に必死に歯止めをかける。
それにしても――と、ノーラはふと、考えを別の方向に巡らせながら、イェルグに視線を向ける。
「イェルグ先輩…ご結婚なさっていたんですね。ユーテリアでは学生結婚はあまり珍しくないとは聞いていましたが…実例を目にしたのは、初めてでした。
おめでとうございます…」
「いやいやいやいやいやっ!」
ノーラの言葉尻をかき消すように、雷鳴のような勢いでイェルグが叫び、掌を左右に激しく振る。
「確かに、オレとヴァネッサは世間一般的には恋愛関係なんだろうけど! 結婚はしてないから! こいつが勝手に言いふらしてるだけだから! さっきのやたら長ったらしい名前も、全部こいつの妄想だから! 学籍でもちゃんとイェルグ・ディープアーって記録されてるし!
そもそも、空が誰か一人に捕まっちまうなんて、あり得ないから!」
この言葉に、ヴァネッサは黙っていられない。笑みを消して露骨な怒りの炎を両眼に灯すと、肩に置いていた手を素早くイェルグの首に伸ばし、締め上げてはガクガクと揺らす。恋愛関係にある者からすれば、この反応は無理もないことだろう…イェルグの"誰か一人に捕まるなんてあり得ない"という台詞は、浮気を肯定しているような意味にも取れるのだから。
「イェルグ~っ! あなたってば、いつもいつもいつもいつもいつも! そんな無責任なことを言ってぇ~っ! 浮気は男の甲斐性だ、なんて言い出すつもりじゃないでしょうねぇ~!?」
「ぐえっ…だからっ…そういう意味じゃないって…っ! オレもいつも…いつもいつも…言ってるじゃないかよ…っ! さっきも言った通り…こんな性格のお前をほっぽいて…浮気できるほどの甲斐性は…オレにゃないって…っ!」
この状況に、ノーラはもう堪らず、苦笑いを露わにする。これでは夫婦漫才そのものである。
しかし、こんな愉快な状況にいつまでも浸るワケにはいかない。ノーラはふと、自身に託された使命を思い出すと、表情を引き締めて尋ねる。
「あの…神崎大和さんって方は、どこにいるんでしょうか…? 私、その人の手伝いをすることになってるんですよね…?」
「ああ、そうでしたわね。あなたが、蒼治の代わりなんでしたわね」
ヴァネッサはあっさりした口調でノーラに答えつつ、イェルグの首をぱっと解放する。イェルグは本気で苦しかったらしく、床に膝をついてゲホゲホと本気でむせ返る。その様子に気の毒なものを感じつつも、ノーラは自身の使命に集中する。
ヴァネッサが語る、
「大和なら外に居まわすわ。あなた方の入ってきたのとは別の方向の出入り口から出てすぐのところで、装甲車の制作やらメンテナンスに従事していることと思いますけど…」
ここで一端、ヴァネッサは言葉を切ると、ズズイッとノーラに顔を近づけ、眉間にしわを寄せる。
「まさか、あなた…そのコンディションのまま、次の作業に取り掛かるつもりじゃありませんわよね?」
「え…あの…そのつもりですけど…。状況が状況ですし…休憩している暇なんて、ありませんから…」
「まぁ、確かにのっぴきならない状況ではありますけど…あなたの今のコンディションでは、はっきり言って、私たちの作業のお荷物になりますわ」
一片の気遣いもない、はっきりとした物言い。それがノーラの思考を横からガンと殴りつけ、彼女の顔は失意に固まる。――確かに、正直、身体はしんどいし、眠気が再び戻ってきていた。これでは十分なパフォーマンスを出すことなど無理だと、彼女自身も悟ってはいたが…こうして他評されると、その衝撃はあまりに大きく身の内に響く。
(…役に立つって…言ったのに…)
瞼のふちに沿って、涙がジンワリと溢れてくる。自分の情けなさが、悔しすぎる…。
これを見たヴァネッサは、はぁ、と一つ溜息を吐くと。制服の上着のポケットをごそごそと漁る。そして取り出したのは、掌より少し頭が出るくらいの大きさの、茶色のビンである。何のラベルも張られていないことや、キャップの作りがぞんざいなところを見ると、自作のもののようだ。これをノーラに差し出すと、唇を尖らせながらも、柔らかさがにじみ出る口調で語る。
「これは、わたくしが自作した栄養補給の霊薬ですわ。麻薬みたいな中毒効果はありませんので、安心して口になさるといいわ。
わたくしも能力の特性的に、莫大な魔力を使うことが多くてね。薬物中毒みたいな有様で不本意なのですけど、こういった霊薬に頼ることが多いんですの」
この言葉を踏まえて、ノーラは改めてマジマジとヴァネッサの顔を見つめる。すると、彼女の目の下に、うっすらと隈が出来ているのが分かった。余裕綽々と高飛車な態度を取っているように見えた彼女であるが、実際は表に出さない大変な苦労を抱えている。
「…もしかして、この辺りの水晶とか、入り口の使い魔とかは…ヴァネッサ先輩の能力によるものですか?」
ノーラはビンを受け取りながら尋ねると、相手はため息を吐きながら頷き、苦労の大きさを訴えるようにしわを寄せた眉間を指で押しながら答える。
「ええ、その通りですわ。
わたくしの能力は、魔力で結晶を作り出し、使役すること。作れる結晶は、種類によって魔力の消費量が違いますけれど、世界が"結晶"と認識する存在ならば、何でも作れるみたいですわね。"作り出す"に留まらず"使役する"とまで言及しましたのは、あなたのおっしゃた通り、結晶から使い魔を作り出し、与えた命令に沿って作動させることが出来るからですわ。
まぁ…使い魔と言えども、ほぼ自動制御ですから、四六時中状態を監視して制御し続ける手間はないのですけれど…維持するための魔力だけは、消費しますからね。ましてや今回は、あなたも見ての通り、この広範囲をカバーしているワケでしょう? もうずっと、眉間の辺りに締め付けられるような違和感に悩まされっぱなしですわ。ですから、その霊薬なくては、とてもじゃありませんが身が持ちませんの」
"眉間の締め付けられるような違和感"は、使役系統の魔術を長時間使用した際の典型的な疲労症状である。
「本当にお疲れ様です、ヴァネッサ先輩…。
あ、この霊薬、有難くいただきます…」
「ええ、どうぞ。味の方は…(ヴァネッサは顔をしかめる)あまり保障しませんけど」
ノーラはキャップを開き、中の液体を少しずつあおると…舌にドロリとした生温い霊薬の感触を認識した途端、思わず眉をしかめる。口腔から鼻の奥へと、ミントにも近い強烈な薬品臭が突き抜けてゆくのが、はっきり言って不快だ。吐き出したくなる衝動に駆られるが、先輩の善意でもらい受けた手前、ぞんざいに扱うワケにはいかない。ぎゅっと目をつぶると、一気に中身を飲み干す。
ゴクン…と咽喉を鳴らして飲み下すと、ほんの数秒後、体調に明らかな変化が生じる。全身の筋肉に、まるで湿布薬でも貼り付けた時のような、爽快な刺激がスーッと現れる。この爽快感が、筋肉細胞の内にある疲労の鉛を消滅させてくれるようだ。身体がみるみるうちに羽毛のように軽く感じてくる。変化は肉体だけに留まらない。爽快感は頭を突き抜けて思考を刺激し、溶け出すようなだるい眠気を叩き払い、瞼をぱっちりと開かせてくれる。
この霊薬の効果が『混沌の曙』以前の地球で認められていたならば、おそらく、覚せい剤として不当な扱いを受けたに違いないだろう。しかし、脳神経へ負担をかけるような副作用はないので、現在の世界では素晴らしい効果のある栄養剤として認識されるに過ぎない。
「先輩のこの薬…すごいですね…! すごく元気が出てきました…!」
「もちろんですわ! ユーテリア入学以前から、わたくしが精魂込めて研究し、完成させた霊薬ですもの!
ただし、あまり大量に飲むのはお勧めしませんわ。効果としては肉体の疲労を魔法的に消去しているので、理論的には反動は少ないのですけれど、念のためということもありますのでね。
…これで、ノーラさんのコンディション面の問題は解決ですわね。あとは…」
ヴァネッサはノーラの頭の上からつま先までにさっと視線を走らせると、腕組みをして語る。
「そのびしょ濡れの身体をどうにかしませんとね」
「あ…これは、大丈夫です。疲れをどうにかしていただいただけでも、十分ですから…」
「そういうワケにはいきませんわ」
ノーラの辞退を跳ね除け、呆れのため息を交えてヴァネッサがきっぱりと反論する。
「何をそんなに恐縮しているのか…そういう損な性格なのか…分かりませんけれども、ノーラさんは要らぬ遠慮が多すぎますわ。
体調だけ取り戻しても、濡れたままでは、不快感は避けられませんわ。あなたが水棲系の人種なら例外でしょうけど…見るからにそうではありませんわよね?
不快感は動きを鈍らせますから、これからの作業にも支障をきたしますわ。加えて、水分で体温が奪われて体調を崩すこともあり得ますからね。魔法科学が進んだ現代においても、風邪は治療に時間を要する病気ですのよ? そういったリスクを排除する意味では、コンディションをおざなりにして全力疾走し続けるより、少し足を止めてみることも必要なことですわ」
ヴァネッサの言葉は、尤もである。正直、逸っていたノーラは彼女の言葉に頭を冷やし、大人しく従うことにする。
「それでは、イェルグ、晴天を呼び出してノーラさんの身体を乾かしてあげなさいな。
とは言え、ここで強い熱を伴う光を出現させてしまうと、避難民の皆さんの神経を逆撫でしてしますわね。どこかの装甲車の中に入りましょう」
「ああ、了解…だけどさ…。オレもびしょ濡れなんだけど、ノーラちゃんのことしか言及しないってのは、自称妻にしては気遣いなさ過ぎだと思うんだけどさ…?」
「あなたは、他の女の子に色目を使うところだったんですもの。そのお返しですわよ」
「…だからそれ、誤解だって、何度も説明してるだろうが…」
イェルグとヴァネッサの夫婦(?)漫才が終わると、一行は手近な(ただし、ノーラたちが乗ってきたものとは別の)装甲車の人員収納スペースに乗り込む。イェルグは収納スペースの中央に陣取ると、両の掌を胸の前で合わせると、ゆっくりと二つの掌の距離を開いてゆく。そうして生じた掌間の空間に、晴天の中で燦々と輝く太陽そのものの光を放つ球体が、ゆっくりと体積を増しながら生成される。眩い光と共に、真夏の炎天下を思わせる灼熱を放つので、ますます太陽を思わせる。
「イェルグ先輩って、雨だけじゃなくて、太陽…っぽいもの?…も、作れるんですね」
「そりゃあ、当然さ。空模様ってのは雨天もあれば、晴天もあるんだぜ。"空の男"であるオレに、作れない空模様なんてないさ。
…そうだ、乾くのが少しでも早くなるように、風も出しておこうかな。空で作るドライヤーってことでさ」
小型の太陽型熱源を作り出したイェルグは、これを右手の上に浮かべると、今度は開いた左手のひらを熱源の後ろに置く。すると、手のひらから強風がビュウビュウと吹き出し、熱源の灼熱を含んで熱風と化すと、装甲車内を渦巻く。呼吸が苦しくなるほどの勢いはないので、乾いた熱風が濡れた体には純粋に心地良い。ノーラとイェルグは、表情にほっと穏やかさを浮かべて、爽快感を謳歌する。
その一方で…乾かす必要のないヴァネッサは、ひどい有様になっていた。特に激しく影響を受けているのは、髪、である。ノーラたちと違い乾いた長髪は、強風に煽られてバサバサとはためく。その激しく吹き上がった髪型は、まるで、山姥のようである。ヴァネッサは必死にまとめようと手を泳がし、グラデーションのかかった髪をまとめようとするが、うまくいかない。
「お前は濡れちゃいないんだから、外で待ってりゃいいのに」
イェルグが苦笑しながら語ると、ヴァネッサは風への苛立ちを上乗せした怒声を返す。
「あなたと女の子とを二人っきりにするなんて、出来るわけがありませんわ! どうせまた、色目を使う魂胆なんでしょう!
わたくしがきっちりと監視しませんと!」
「だーかーらー…もしもノーラちゃんに手を出すつもりなら、ここに来る途中でとっくにやってたさ。装甲車の上で二人きりのデート状態だったワケだしな」
「デートですって!? やっぱりあなたったら、そういうふしだらな心の持ち主だったのですね…!」
髪をまとめることを放棄し、拳を握りしめ、全身から怒気を噴出しながら、ヴァネッサがユラユラした足取りでイェルグに向かってゆく。イェルグは慌てて左右の手をパタパタと振る。
「だから、それは言葉の綾ってヤツで! …ったく、お前って、ホントめんどくせーヤツだなぁ!」
「めんどくさいとなんですの! あなたはもっと真摯に、わたくしたちの関係を考えるべきでしてよ! それに…!」
ヴァネッサはついにヒステリーを起こし、ギャアギャアと喚き立て始める。イェルグは肩を竦ませながら嘆息し、もう何をやっても無駄と達観して視線を床に落とすばかりだ。世の中には喧嘩するほど仲が良いとは言うが、この二人もそういうものなのだろうか――とノーラはぼんやりと傍観しながら胸中で呟く。
そんな風に一息を点いていると…ふと、脳裏にロイの顔が浮かび上がった。そういう思考が働いたのは、申し訳なさを感じたためだろう。
(私たちはこんな風に楽しく休憩を取っちゃってるけど…ロイ君は、今も一人で、あの強力な天使たちと戦っているんだよね…)
先の激闘を思い出すと、ノーラの顔に陰が落ちる。2年生のイェルグがたった一体の相手をしても、相当の被害を出した、"獄炎"の天使。それなのに、彼は複数を相手にして立ち回り、天使たちの目を地上から逸らさせているのだ。苦戦は必至だろう。
「…大丈夫かな、ロイ君…」
桜色の唇からポツリと漏らした呟きは、心地よい熱風の中に紛れたものと思っていたが…。
「気になりますの? ロイのこと」
ヴァネッサが喚き立てるのをピタリと止める、耳ざとく反応を返してくる。ノーラはこくりと頷き、肯定を伝える。
すると、イェルグが横から口を挟む。
「ロイと言えば、あいつ、絶対に怠慢だろ。オレ達のほうに"天使"をよこしやがってさ。足止めしてくれって、しっかり頼んだはずなんだけどな。オレを差し置いて、空飛び回っていい気分になってるに違いないって」
「自分が、大好きな空を飛べなかったからといって、変に言いがかりをつけるのはおよしなさいな」
ヴァネッサは露骨に非難の表情を浮かべ、ロイをフォローする。
「わたくし、使い魔を飛ばして見守っておりましたけど、あのコ、随分とがんばっておりますわよ。1年生の身で、あんな大量の天使を引き付けて立ち回りできるなんて、称賛に値しますわ。
…そうだ、ノーラさん。身体と服が乾くまでの間、どうせ時間がありますし、ちょっとロイの様子を覗いてみます?」
「お手間でなければ…ぜひ、お願いします」
「お手間だなんて、そう固くならなくてよろしいのよ」
ヴァネッサは気品あるバラの笑みを灯す。
「わたくしたちはもう、この過酷な状況に一丸となって立ち向かう、運命共同体ですもの。もっと自然体で振る舞いなさいな」
「はい」というノーラの答えもまたず、ヴァネッサは右腕を真っ直ぐ前に突き出すと、魔法現象を発現させる。手のひらの輪郭に蛍光が灯った数秒後、手から十数センチ手前に、小さな水晶が出現する。それはガキゴキと音を立てながら、成長しながら体積を増してゆく。最終的には、透明度の高い薄水色をした、荒い輪郭を持つ長方形の形状となる。水晶で出来たモニターだ。
多少凹凸のあるモニター表面に、やがて、ぼんやりと光景が浮かび上がってくる…。
まず、視界に飛び込んでくるのは、燃えるような赤一色。加えて、大蛇のようにのたうつ、一際赤が生える紅炎も網膜に突き刺さる。
そこは、間違いなく、この都市国家・アオイデュアの上空の様子である。『天国』はいまだに"獄炎の女神"の影響を受け、おどろおどろしい恒星表面のような有様を見せており、都市を襲う災厄がまだまだ終焉に向かっていないことを如実に物語っている。
この赤い空の中に、2種類の点が存在する。
1つは、白い点。空の赤の中に無数に散らばっており、粒子の大きな靄のようにも目に映る。この点の正体は明らかだ――"獄炎"の天使である。その周囲に更に小さな赤い点――天使の魔術で作り出した火炎弾――を身につけ、緩やかな加速がついた動きで空を飛び回ったり、"もう1つの点"を目がけて集合したりする。
この"もう一つの点"は、概ね黒い色をしている。この点は急速度で空中を飛び回り、白い点と交錯しては、青白い魔力衝突の火花を派手にまき散らしている。モニターはこの激しく動く点に焦点を当て、その正体を明らかにすべく拡大を始めるが…そんなことをせずとも、視聴者たちはすでに点の正体を悟っている。
ロイ・ファーブニルだ。背に展開した漆黒の翼や、凶暴な外観の竜の手足や、真紅の髪から突き出した角など…ノーラたちと別れたときそのままの、『賢竜』の姿をしている。その"全身凶器"とも言うべき身体を絶え間なく、思い切り振るい、彼を囲む100近い数の天使と激闘を繰り広げている。
拳足が空を切れば、漆黒の斬撃となって空間を走る。尾を長く伸ばして振れば、その表面から黒紫色に輝く長針――魔力を帯びて鱗が変化したものらしい――が雨あられとなって宙を駆ける。翼を思い切り前方に向けて振るえば、氷晶が煌めくブリザードが発生する。牙だらけの口を轟然と呼気を放てば、正六角形の青い魔術式文様の出現と共に極寒の息吹が砲撃のように放たれる。その攻撃の一々は必ず天使を捕え、ただならぬ損傷を深く刻み込む。中には、ただの一撃で純白に輝く羽状の神性体をまき散らして消滅させる至ることもある。
強大な戦闘力で暴れ回るロイだが、決して無傷というワケではない。ズボンのみ履いた制服は大いに焦げが見えるし、身体には竜化した部分も含め、幾つも炎熱で腫れあがった火傷の跡がある。総じてみれば、ボロボロと言っても良い状態だ。
しかし、そんな辛苦の中、ロイの顔には嗤いが張り付いていた。
どんなに天使たちから手痛い反撃を食らおうとも、絶え間ない戦闘で身体が疲れ切っているはずでも、その顔には震えるような剣呑な愉悦が浮かんでいる。その様はまるで、神を打倒さんと天に挑み、残虐な戦いを楽しむ修羅そのものだ。
――修羅。なるほど、強大な神を相手に嬉々として戦うには、精神を人ではない領域に踏み入れねば、気を保てないのかも知れない。
それが正しい道理だとしても、ノーラはこのロイの有様に、頼もしさ以上に畏怖を感じざるを得なかった。
(これが…あの、ロイ君…)
別れ際に見せた大輪の花の笑みの気配は、今や微塵も感じられない。散ってしまったというより、根こそぎむしり取られてしまった、という印象がノーラの胸中を支配する。
ノーラが固唾を飲んで、揺れる視線でロイの立ち回りを見ている一方で。イェルグとヴァネッサは、平然と言葉を交わす。
「御覧なさいな、イェルグ。ロイはこんなに頑張ってるでしょう? 怠慢だなんて、彼に失礼もいいところですわ。
ロイは、こういう活動の時には、絶対に中途半端なことをしない子ですわよ。…まぁ、普段は騒がしいだけのおバカさんですけど」
「頑張ってるってより、確実に楽しんでるだろ、あいつ…。あーゆー戦闘バカだから、細かいところに気が行かなくて、こっちに取りこぼしを寄越すようなことをするんだよ」
「ロイが戦闘を開始してから、天使たちの数が増えておりますのよ。それでもたった一人であれだけ戦えているのですから、純粋に褒めてあげてもよろしいのではなくて?
それに、そんなに文句をつけるのなら、自分でやってみたらどうなのかしら?」
「言われれなくても、身体を乾かし終わったら、加勢しに行くつもりだよ。消火の方は、ノーラちゃんに任せられるからな」
そんなやりとりをしていると、やがてノーラもイェルグも制服や髪の濡れがすっかりと乾いた。こうなると、装甲車内を吹き荒れる熱風が急に鬱陶しく感じてくる。映像に集中していたノーラだが、熱さにだんだんとへばってきて、眼がフラフラになってきた。それを見たイェルグは、風を吹き出す手のひらを閉じ、熱風を止める。
「ノーラちゃん、身体は乾いたみたいだね?」
「あ…はい。お蔭さまで…制服がカラッカラな感じです…」
「オッケー。そんじゃ、この太陽はしまっとくぜ」
イェルグは浮かべていた熱光源を両側から手で挟み、そのままギュッと押し潰す。すると、熱光源は急激に体積を縮め、合わせた手のひらの中に消えてゆく。すると装甲車内は、余熱はまだ残るものの、ドライヤーのような現象はすっかりと収まった。
彼の動きに同調するかのように、ヴァネッサも水晶のモニターに手を伸ばし、おそらく仕舞おうと(もしくは、消滅させようと)した…が、その動きがぱったりと止まる。未だにモニターに釘付けになっているノーラに気づいたのだ。そして、彼女の浮かべている、戦慄き唖然としているような表情を目に留めると、ひと声かけずにはいられなくなる。
先までの強風で乱れた、グラデーションのかかる髪をかき上げて整えると、ヴァネッサはノーラに語る。
「どうしましたの、そんな宵闇を怖がるような幼子のような顔をして?
ロイのことが心配なのでしたら、安心しなさいな。あの子、天使相手の戦闘は手馴れておりますのよ。
それに、イェルグもすぐに加勢に行きますわ。さっきの天使戦では不意を突かれていい所がなかったみたいですけど、イェルグは私の婿になる男、ロイに劣らぬ対天使戦闘の実力者ですわ。まぁ、ぱっと見、頼りなさそうっていう点については、わたくしも同意しますけど」
「一々トゲを含んだ言い方すんなよ」
外野からイェルグが苦笑を交えて抗議するが、ノーラもヴァネッサも特に反応することないのが、実に悲しい。
それはそうと…ノーラはモニターに注いでいた目をちょっと俯けると、「確かに、心配も、ありますけど…」とヴァネッサの問いに答える。
「私が今、怖いなって感じてるのは…ロイ君自身なんです。
私…ロイ君とは別のクラスだし…一緒の授業を受けたこともなかったから…彼の事は、よく知らないですけど…。
私が今日、知り合ったロイ君は…まるで、真夏の日差しの元に咲く、大きなヒマワリみたいな、爽やかで元気な印象を受けたんです。
でも…今のロイ君は…花というより…竜というより…戦いを楽しんで暴れまわる、鬼みたいです…」
「鬼…ね。確かに、頭から2本、角も生えてますしね」
ヴァネッサは芝居なのか本気なのか、あごに手を置いて目を伏せ、考え込むような仕草を見せて答える。
「でも、私たち星撒部の部員からすれば、こういうロイの姿って当たり前のことだから、今のノーラさんのように違和感を感じたりしないのよね。
確かに、普段は花…というより、渚と一緒にバカ騒ぎに走り続けるイノシシみたいですけど。笑顔のために、戦いのみならず、全身全霊を尽くして理不尽に立ち向かう時のロイは、あんな感じですわ。なんで嗤ってるのかは、分かりませんけど。単に無意識にそういう表情が出ているだけかも知れませんし、困難に打ち克つのを楽しんでいるのかも知れません。
まぁ、この部活に入って、ロイと行動を共にする時間が増えてくれば、分かってきますわよ。今は怖いと思うあの顔も、そのうち、とても頼もしく感じてきますから」
「そう…だったんですね。ロイ君の、頑張ってくる顔だったんですね…。
それを怖がってしまったなんて…私、ロイ君を侮辱してしまったようです…」
あくまで生真面目に責任を背負い、顔に陰を落として失意に陥るノーラを、ヴァネッサはニッコリと笑みを浮かべて肩を叩き、負の感情を叩き払う。
「別に面と向かって誹謗中傷したワケじゃないのですから、そこまで落ち込む必要なんてありませんわ。
ノーラさんは、もっと鈍感になって、泰然自若を目指すべきだと思いますわ」
そう語り終えたヴァネッサは、今度こそ水晶のモニターに手を伸ばすと、その表面を軽く人差し指で弾く。すると、モニターにビシビシと亀裂が走り、ついにはモニターは破砕。大小の破片となった水晶は、氷が急速に解けるように体積を収縮させ、音もなく中空へと溶け消える。
「さて、そろそろ休憩は終わりにいたしましょうか。この災厄、まだまだ終わりが見えませんからね。
では、ノーラさん。イェルグから聞いてるとは思いますが、あなたと一緒に作業してもらう大和のところに案内しますわ」
そう語ると、ヴァネッサはノーラに手招きを残し、さっさと装甲車から出てゆく。ノーラは慌てて、その後ろ姿を小走りで追いかける。さらにその後ろを、イェルグが大股の早歩きで続く。3人はそのまま、並んで駐車している装甲車を挟んで向こう側の、人目につかない箇所を歩くと、やがて水晶がガッチリと蔓延るコンサートホールの壁に突き当たる。この壁沿いに歩くこと数分、3人はやがて水晶で出来た開き戸にたどり着く。入り口の壮麗な造形とは違う、非常に簡素な作りの扉だ。"コ"の字を書いたドアノブ以外に突起物はなく、凹凸の激しい荒い表面がのっぺりと続いているだけだ。
先頭のヴァネッサはこの扉を開きながら、チラリと背後を確認すると。頭の後ろで腕を組み、穏やかに微笑みを浮かべているイェルグを目に留めて、口を尖らせる。
「イェルグ、あなたはロイの加勢に行くのではなくて? なんでわたくしたちについて来るんですの?」
「もちろん、そのつもりさ。そのためにゃ、外に出なきゃならんだろ。お前の行ってる道の方が近道っぽいから、ついてきただけだ。
あのバカデカい正門まで、無駄に長い距離を歩くのは時間の無駄だろ?」
「まぁ、確かにそうですわね」
さて、3人は水晶の開き戸から外に出る。早速、産毛をチリチリと焼くような乾いた熱風と、頭上に広漠と広がる焦熱地獄の赤の空が3人を迎える。ノーラは空に向けてちょっと目を凝らし、モニターで見たロイの姿が見えないかと確認したが…見つけることは出来なかった。
(考えてみれば…避難民が集まっている上空で、あんな激しい戦闘を繰り広げるワケがないよね…)
ノーラが独りごちて納得していると。彼女の後ろから、イェルグがスタスタと歩み出て来た。
「そんじゃ、オレはここらで行くとするかね」
語るがはやいか、イェルグのまとう服の裾や襟から、もくもくと白雲が溢れ出てくる。それがヘビのようにイェルグの身体に絡みつくと、彼の身体がフワリと宙に浮かんだ。まるで、"東洋"とよばれる地域圏文化に出てくる龍のような有様である。
初めはゆっくりと、徐々に加速しながら上空に浮かんでゆくイェルグに向かい、ヴァネッサがやや大きめの声を張り上げる。
「一応、気を付けて、と言っておきますわ! 我がアーネシュヴァイン家の婿となる者が、下郎な天使に無様にやられるなど、絶対に認めませんことよ!」
「はいはい、分かってるって。
それにしても、例え地獄と言えども、空は空だなぁ。この広さ、自由さは、全異相世界中のどこだろうが、色や環境が多少変わろうが、普遍だねぇ」
「そんな無駄口叩いて楽しんでないで、さっさと行ってきなさいな! さっき時間の無駄だとか言っていたのは、あなた自身なんですからね!」
このヴァネッサの言葉には特に答えを返すことなく、イェルグは上昇の速度を増し、赤い空の中の点となる。それを見送ってヴァネッサは眼を閉じて、ふぅ、と息を吐くと。ノーラに向き直る。
「さて、わたくしたちもグズグズしてはいられませんことよ。あなたをさっさと大和に引き合わせますわ」
そう言い残してサッサと速足で歩きだす、ヴァネッサ。ノーラは彼女に遅れまいと歩み出すものの、ヴァネッサの背に注ぐ視線には、ゆらめく不安が満ちている。今度、彼女が思いをかけている相手は、イェルグである。
「あの…ヴァネッサ先輩。イェルグ先輩、本当に大丈夫でしょうか…?
さっき、天使と戦った時は…先輩、すごく余裕がなかったみたいでしたから…。多数が相手となると、先輩、大変なんじゃないですか…?」
「心配は無用ですわよ」
ヴァネッサは振り向きもせずに、固い信頼が読み取れる、自信に満ちた言葉を口にする。
「先の戦闘でイェルグが苦戦して見えたのは、おそらく、守るべき避難民を抱えていたからではなくて? 重傷者もいたようですしね。
そういった――言い方は悪いですが――足手まといなしで、能力を全開できるならば、並の天使の数十や数百、イェルグの敵ではありませんわ」
この言葉に、ノーラは目を丸くせずにはいられない。特に"数百"とまで語るのは、言い過ぎだろうという感想を持ったほどだ。
とは言え、前の戦闘のことを思い返すと、確かにイェルグはほぼ一撃で天使を撃破している。しかも、あれがイェルグの全力かどうかは、ノーラには判断できない。彼女よりも断然深く彼のことを知るヴァネッサが自信を持って語るのならば、多少誇大が含まれているとしても、決して実力が低いということはないだろう。
イェルグの実力云々はさておき。2人の女子生徒は縦に並んだまま、コンサートホールの外縁に沿って、緩やかにカーブを描きながらしばらく歩き続けると…やがて建物の陰から、一風変わった建物――というか、施設――が見えてくる。
それは、水晶で出来た巨大なテントといったところだ。壁がなく剥き出しになった内部には、幾つもの車輛が見える。装甲車はもちろん、自家用車を初めとした他の車種も十数台集められている。どの車も焦熱地獄にやられて煤っぽくなっているが、特にひどい有様になっているの装甲車である。高熱にやられたらしく、装甲が融解しかかっているものや、暫定精霊や天使にやられたのか、強烈な力で車体がひしゃげているものなどがある。
これらの車の集合の中心部から、眩い蛍光色の魔力励起光が立ち上る。光の規模から鑑みる限り、術者が実力者であることが容易に見て取れる。
この光を見たヴァネッサは、満足げに頷いて独り言ちる。
「うん、人目がなくてもしっかりと働いているようですわね」
そしてヴァネッサはノーラを連れ、テントの内部、光が発生する地点へと更に歩みを進める。特に整列していない車の合間を縫って進み、テントのほぼ中央まで達すると、一人の人物が目に入る。こちらに背を向けた"彼"は、ロイやイェルグと同様の制服に身を包んでおり、星撒部員であることを物語っている。
"彼"は表面が派手に溶融した装甲車に向き合い、両手を伸ばして、魔力を注ぎ込んでいる。この魔力が車体に作用している光が、さっき二人が目にした魔力励起光である。この作用によって装甲車の表面は粘土のように緩やかに形を変え、徐々に傷のない平面へと変わってゆく。このようにして装甲車のメンテナンスを行っている点と、イェルグやヴァネッサの話を突き合わせると、"彼"こそ何度か話題に上っていた神崎大和であると判断できる。
それにしても…この大和という人物、"希望を振り撒く"をテーマにしている星撒部に所属しているにしては、なんと希望のない背中をしているのだろうか。肩も腰もガックリと下がっており、ヒザは体重を支えるのも億劫と訴えるかのように折れ曲がっている。時折聞こえる、ハァ…、というため息には、どんよりとした疲労の色が濃く滲み出ている。なんとも頼りない、そして辛そうな有様だ。
これを見たヴァネッサは顔をムッとしかめると、口を大きく開き、どんよりした空気を吹き飛ばすような鋭い声を上げる。
「その情けない有様は何ですの、大和! 作業については、キチンとこなしているようですから、何もとがめるつもりはありません…が! その希望の欠片もない、ダラけ切ったその態度は、わたくしたち星撒部の一員として恥ずかしい限りですわよ! もっとシャンとしなさいな!」
「…そうは言ってもッスね、ヴァ姐さん…」
錆びついたブリキ人形のように、ぎこちない動きで大和が振り向く。イェルグから事前に聞いていた通り、旧時代の開放型コクピットの飛行機のパイロットがつけるような、大きなゴーグルをつけている。とは言え、このゴーグル、形通りのアナクロなものではないようだ。大和が油まみれの手でゴーグルのふちを触ると、ゴーグルのグラス部分の色が一瞬にしてブラウンから透明色に変わる。どうやら、遮光使用にも出来る実用的なもののようだ。
ゴーグルを目から外して額にかける、大和。そうして露わになった彼の顔立ちは、なかなか愛嬌のあるつくりをしている…はずである。"はず"といったのは、現在の疲れ切った彼からは、普段の表情が極めて読み取りにくいからだ。ブラウンの瞳は鉛色が混じっているように見えるほどにどんよりと濁り、目の下にはくっきりしたクマが出ている。輪郭はゲッソリとこけ、大きく太い針のように尖らせた髪型の先端は、枯れゆく草花のように萎れている。
(すごい顔してるなぁ…)
背中以上に希望とほど遠い表情を目にしたノーラは、思わず苦笑が漏れそうになる。とは言え、自分も一度は眠気に沈みそうになるほど疲労に蝕まれた身だ。他人のことを笑ってられる立場ではないと、自らを引き締めなおす。
さて、大和はヴァネッサへと自らの弁解を訴える。
「オレ、もうずううううぅぅぅっと、魔力使いっぱなしで、装甲車の作成からメンテナンスに加えて、通信機器の世話までやらされてるんですよ? しかも、ヴァ姐さんの特性霊薬を一滴ももらえずに、ですよ? これじゃあ、馬車馬やハツカネズミどころじゃない、酷使されきったボロ雑巾って感じッスよ…。
せめて、姐さん特性の元気の秘薬を一口――」
語っている最中、彼のショボショボした眼がノロノロと動き、ヴァネッサの背後に控えるノーラを捕えた、その瞬間。突然、彼が言葉を止めると、ゆっくりと大きく瞬きする。そして、眼を見開いた時には、ブラウンの瞳から鉛の鈍重さが消え去り、満天の星空のような輝きが爛々と灯る。
「ヴァ姐さん! 背後に奥ゆかしく寄り添う、そのカワイイ娘は、一体どこのどなたッスか!?」
瞳の輝きに負けじと、口調まで急に活き活きとする、大和。その不審なまでの変わりように、ノーラは身体をビクッとさせて、ヴァネッサの背中に隠れる。この動作を背中越しに察したヴァネッサは、頭を抱え込むような深いため息を吐くと、口を尖らせ非難めいた口調で鋭く語る。
「先ほど連絡したでしょう? あなたを手伝いに来る、仮入部員の方が来ると。…この娘が、その方ですわ。
名前は、ノーラ・ストラヴァリさん。あなたと同じく、一年生ですわよ。…レディをあなたと二人きりにするのは、はなはだ不本意ですけれども…蒼治が動けない以上、背に腹は代えられませんし…。
ともかく、あなたは現状の深刻さを鑑みた上で、浮かれて騒いだりすることなく、大人しく作業に没頭して――」
そう語りかけている最中、大和の姿がヴァネッサの視界から忽然と消える。ぱちくりと瞬きし、きょとんとしながらも視界を巡らし、話相手を探していると…。
「おおおおおおおっ!!」
水晶のテントを振るわせるような歓声が響き渡る。これを耳にした途端、ヴァネッサは"しまった!"と云う風に顔をしかめ、素早く背後に振り返る。そうして視界に飛び込んできた光景を認識すると…ヴァネッサはこめかみに手を置き、さっきより更に深いため息を吐く。
そこには、この場に到着したばかりの時の萎れ具合はどこへやら、活力に満ち溢れた大和の姿がある。彼はノーラの両の掌を自らの両手で包み、鼻息がかかりそうな距離まで顔を近づけている。明らかに退いているノーラは背を反って大和から距離を取ろうとするが、大和は更に彼女へと顔を詰め寄せる。
「そう! 確かにキミは、1年Q組が誇る"霧の優等生"、いや、"花霞の琥珀"、ノーラ・ストラヴァリちゃん!
琥珀のような褐色の肌! 初夏の新緑のような瞳! 桜の花のような可憐な唇! そして、香り立つ花霞のように儚げでいながら、穏やかな気品のある清楚な物腰! 更には、その美しさに全く引けを取らない、実力の持ち主! その近寄りがたくも男心を掴んで離さない魅力から、ファンの間からは"ユーテリアの高嶺の花"とも言われている!
そんな娘が、今まさに! オレの目の前に! オレの息がかかる距離に! こうして立っているだなんて! ああっ、もう感激ッス!
流石は、美人副部長の立花渚サマが率いる、我らが星撒部! レベルの高い娘がグイグイ引き寄せられてくるッスねぇ! オレ、この部活に籍を置いて、ホント良かったッス!」
大和の語る様は、沸騰したやかんから噴き出す蒸気のような勢いだ。その気迫にグイグイと押されっぱなしのノーラは、顔をヒクつかせて苦笑いを浮かべるばかりだ。
「…あの…私、そんな大層な人間じゃありませんし…その…買被りだと思うんですけど…」
オドオドしつつも、なんとか声を絞り出したノーラだが。大和は彼女の言葉などお構いなしに、自身の激しい勢いのままに言葉を爆走させる。
「ねぇ、ノーラちゃん! 付き合ってる男とか、いないよね!? よね?(ノーラがカクン、と首を縦に振る)
そっか、そうだよねぇ! キミのような学園のアイドルが誰かと付き合ってたら、絶対に噂が立つもんね!
それじゃさ! 一度しかない初恋の青春の相手に、オレなんかどうだい!?
オレ、こう見えても結構硬派タイプなんだよ! それに、結構尽くすタイプなんだぜ! 気遣いも出来るし、楽しませてあげられる話題だって豊富さ! 学業成績だって悪いほうじゃない!
もしかして、性格面の相性を気にしてるなら、それは杞憂ってもんだよ! 真逆のタイプの性格のカップルの方が、うまく行くんだぜ! 足りないものを補え合えるからね! キミは物静か、オレは賑やか! まさに陰と陽って感じ! これはもう、天地開闢を生み出すほどに相性バッチリだよ!
あ~、そうそう、大切なことを聞くのを忘れてた! ナビットの番号、教えてくれないかな!? あと、今度の日曜日はヒマ? 良かったら、オレの行きつけの美味しいコーヒーショップがあるんだけど、一緒に――」
なおをしゃべり続けようとする大和の背後から、「えい」と棒読みの掛け声と共に、ヴァネッサが手刀を強かに打ち下ろす。ゴツン、と痛々しい音が響き、大和は堪らず頭を押さえて身を屈める。
「お…おおお…っ。
ヴァ、ヴァ姐さん…! 一体なんなンスか、急に! 頭蓋骨割れるかと思ったッスよ、割とマジで!」
「あら、大和ったらお元気じゃありませんこと。それなら、わたくしの霊薬なんか不要ですわね」
「いやいやいやいや! そんなことないッスよ! ホントにボロボロッスから! ペンを持ち上げるだけでも、億劫な感じッスよ!」
「でも、ノーラさんを相手にしていた時のあなたは、立ちふさがる大岩も砕くような勢いでしたわよ?」
「いやー、それは、その、ホラ! 可愛い女の子ってのは、オレの原動力ッスから! 身体がいくらズタボロになろうとも、女の子に声をかけるためなら、自然と身体が動いちゃう体質なンスよ!」
「…ホント、いつものことながら、いやらしいケダモノですわね…」
ヴァネッサは露骨に非難を込めたジト目で大和を睨み付ける。それからすかさずノーラの方へと向き直ると、今回3度目の、そして一番大きなため息を吐く。
「あなたを、このケダモノと二人きりにしてしまうのは、非常に不本意極まりないのですが…わたくしもいつまでも自分の持ち場を離れているワケにはいきませんの…。
ですが、このケダモノがあなたに何か悪さをしたら、いつでも駆けつけますわ! わたくしのナビットの番号を教えておきます! ケダモノに襲われたら、すぐに連絡なさいな! 遠慮や情けは、全く無用ですわよ! 相手は外道、わたくしたちの常識や正論は通じない相手ですから!」
「…オレ、スゲーけなされまくりッスね。本気で泣いて良いッスか…?」
両の人差し指をツンツンと突き合わせながら、大和がションボリと呟く。ノーラはその姿に多少憐れみを感じたものの、顔に浮き出た表情は苦笑いだ。彼をめぐる滑稽な有様に、顔が緩むのを抑止できなかったのである。
「…と、半分冗談はここまでにして、ですわね」
「半分冗談、ってことは、半分は本気だったワケッスか…。あ、はい、スンマセン、オレが状況を考えずに騒いだのが悪かったデス、だからそんなに睨まないでください、ヴァ姐さん」
「…オホン。
えーと、それではノーラさん。イェルグの手筈通り、大和の作り出す装甲車の放水器に、天使たちの炎にも対抗できるような魔化を施していただけるかしら?
効果の永続を考慮した完璧なものを作る必要はありませんわ。効果が数時間、持続する程度で結構よ。どうせ、装甲車は定期的にメンテナンスを受けに来ますから、その時に改めて魔化を掛けなおせれば十分ですわ。
もし余裕があるなら、装甲自体の耐火性能の向上も施していただけると、なお助かりますわ」
「分かりました。…魔化に係る時間は、装甲車の構造にもよると思いますけど…まずは一台、やってみてから、どれほどのことが出来そうか、判断したいと思います」
「ええ、それで構いませんわ。
仮入部員だというのに、こんな予断の許さない状況下で忙しい作業を押し付けてしまって、ごめんなさいね」
「いえ…ここに来たのは、私自身の意志ですから…。みなさんが引け目を感じる必要はありません…」
「そして…大和!」
ヴァネッサはノーラの時の穏やかな口調とは打って変わった、鋭い声を張り上げつつ、大和に向き直る。と、同時に、制服の上着のポケットから茶色のビンを一本取り出すと、大和に向けて放り投げた。不意を突かれた大和は、ビンが地面に激突しないよう、慌てて両手を伸ばしてワタワタとキャッチする。
「その霊薬、渡しておきますわ。それで体力と魔力を回復させてから、作業を再開しなさい。
わたくしはあなたの能力は高く評価していますけれど、も! そのナンパな態度は、やはり、いただけませんわ!
ノーラさんに不適切な手を伸ばすようでしたら、すぐに飛んできて、あなたの身体を水晶で串刺しにしてあげますからね!
そうなりたくなかったら、くれぐれもハメを外さずに! マジメに作業に取り組みなさいな!」
叱りつけのような言葉に対し、大和は背筋をビシッと正して敬礼のポーズを取ると、爽やかな笑みと共に返事する。
「もちろんッスよ! オレがやるときはビシッとやる男だってことは、ウチの部の常識じゃないッスかぁ!
ノーラちゃんのことは、大船に乗ったつもりで、ドーンと任せてくださいよ!」
「部の常識かどうかは置いておきますが…とりあえず、任せますわよ」
そう言い残すとヴァネッサは水晶のテントから去ってゆく…が。その途中、何度も心配そうに二人を振り返っては、ハラハラした眼差しで、特に大和を射抜くのであった。
「…ヴァ姐さんってば…どんだけオレのことを信用してないンスか…」
肩を落としてポツリと呟いた大和の目尻には、小さな小さな涙粒が光る。そのオーバーな芝居がかり様に、ノーラは再び苦笑を浮かべるのであった。
- To Be Continued -