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怠惰な空気が充満した昼下がりの教室では、現代文の授業が展開されている。
腰の曲がり始めた初老のお爺ちゃん先生ののらりくらりとした話し口からは覇気が感じられず、これでは生徒のやる気も起きない。内容だって長々と続く文学だから猶更だ。体を動かすことやディスプレイと向き合うことが優先順位上位に来る高校生にとっては退屈極まりない時間だろう。
物事には優先順位がある。
どちらの友達へ先にメールの返信をするか、どちらの本を先に読むか、学業と部活動、どちらに重きを置くのか――俺で言えば、自分の将来を考えた上でこのままだらだら現代文を受け続けるのか、それとも作家になるためのことに行動を移すのか。
答えは明白で――俺は眠い目を擦ってから鞄に手を伸ばす。
あんな注意力散漫な先生に見つかることはないとは思うが、一応慎重に中をまさぐって、その中からリング綴じのノートを取り出す。
手の湿り気や多くの書き込みでノート全体が膨らんでいて、使用感が顕著である。
斜めに線の入ったプラスチックの表紙には何も書いていない。特に題名は見つかったときが厄介だからだ。
利口なやつは「数学」とかカモフラージュとして何かしらを書くんだろうけど、別にそこまでしようとは思わない。大体、これから創作をしようというノートに数学とかモチベーションを低下させるようなことを書くのもどうかと思う。
授業中にプロットを作ることはリスキーである。背徳感や後ろめたさなどという大それたものではなく、単に周囲の目が怖いからだ。何せ自分の気持ち悪い妄想を晒しているのだから、小説に限らず創作は人に見られたら恥ずかしい。
この恥ずかしさの感覚が分からない人はこれを例に想像してみてほしい。
授業中にテロリストが窓を割って入ってくるという妄想。
好きな子とイチャイチャする妄想。
他人に知られたらどうだ? 恥ずかしくないか? 俺なら悶えた末にそいつの首を絞めるね。創作をしている人間はそういう妄想を自ら晒しているのだ。恥ずかしいに決まっている。
あの人気漫画だって、元は作者の頭の中の痛々しい妄想だと考えたら胸がキュッとなる。例え世間に認められたとしても、恥ずかしさが消え失せることはないと思う。
プロットとは、お話作りの設計図のようなものである。
人によって形式は異なるが、話の大まかな概要であったり、登場人物であったり、細かな用語であったり、その内容はあらかた共通している。
そもそも何故プロットを書くのかと言えば、まあ答えは単純明快で、頭の中で自分の妄想を整理し切れないからである。頭の中で全てを矛盾・破綻なく成立させられるやつは天才だと思う。天才という言葉が大安売り状態の現代でも、そいつは天才認定するべきだ。
言うまでもなく俺は天才ではない。だからこうやってプロットを作っているし、天才だったら今頃順調にデビューして「天才高校生作家」の名声を得ている。けれど、現時点では腐るほどいる作家志望者に過ぎない。
作家志望者の前に「高校生」を付けたらちょっとした特別感が出るけど、実際問題高校生で作家を志しているやつなんざ幾らでもいる。この学校にもある文芸部とか。部員じゃないからよく分からないけど、その実態は高校生作家志望者の巣窟だろうな。
ところで最近、俺の作風に変化が見られた。
以前まではかったるい文学っぽい小説を書いていたのだが、ライトノベルという中・高生向けのジャンルに惹かれてからは、ライトノベルを書くようになった――つまり正しくは、俺はライトノベル作家を目指しているのだ。
ネットや読書によって得たライトノベルの鉄則が、訓示の如く背表紙に書かれている。
全部で五箇条あるが、一番先頭に来ている最も重要だと思われることは売れているライトノベルのほぼ全てに共通していたので、でかでかとマッキーで書いておいた。
『可愛い女の子を出すべし』
……本格的に訓示っぽいが、これは訓示と同等の扱いをすべき、心に刻むべき鉄則だ。
最低でも可愛い女の子は出さなくてはいけない。それがなくてはライトノベルと呼べないんじゃ? とさえ思う。
というわけで、近頃のプロット作りの最大の壁にして頭痛の種は、専ら可愛い女の子の創造なのだった。
「……可愛い女子なんてどうやって作ればいいんだよ」
最近の口癖。授業中の独り言としては不審極まりない。
ライトノベルだったらこのあと、パッとどこからか女の子が飛んできて、「ヒロインっていうのはこうやって作るんですよ、ご主人様♪」とか言っちゃってどたばたラブコメディが始まることだろうけど、悪いけどこれはそういう伏線ではない。
ったく、現実の女の子だって親と親の配合が上手くいかなきゃ可愛く作るのは難しいってのに。……いや、まあ、それに比べたら楽か。流石に言い過ぎた。実際の子作りよりは全然楽だ。ごめん。謝る。
そもそも可愛い女の子とはなんなのか。
魅力ある女の子とはなんなのか。
ライトノベルで出てくるそれらは、三次元離れした有り得ない理想の女の子である。
正直、俺はそういった女の子は書きたくない。リアルに忠実にというわけではないけれど、俺の中での可愛い子、ヒロイン足り得る子というのは、本当にその子に恋をしてしまいそうな人間味溢れる子である。
根っこから純潔とか、性格に淀みがないとか、いつでも正義とか、そういう子は登場してきても好きになれない。一瞬好きだなって思っても、すぐに夢から覚めたように冷めてしまう。だってそいつは人間じゃないと一目で分かってしまうから。
だから俺は、本当に恋をしてしまいそうな人間のヒロインを書くことを目指している。
適度に性格が悪くて、場合によっては汚い手を使って、人によって対応を変えるような――それでいて、魅力のある可愛い子。
そういう子のモデルとして一番適しているのは自分の好きになった子だと頭では分かっているんだけど、如何せん俺には好きな子がいない。
物心ついてから最後に恋をしたのが小学生の頃だから、どうにも参考にし難い。
「これは困った……」
最近の口癖その二。授業中の独り言としては結構ありきたり?
次に書こうと思っている新作候補は幾らでもあるから、問題はヒロインだけなのだ。
だけどまあ、新作候補が山ほどあると言っても――
「よぉおし、それじゃあ授業終わるぞぉお」
鐘が鳴り、授業が終わる。にわかに教室がざわめき出す。俺は急いでノートをしまった。迂闊にノートを残しておいたら、お調子者の友人たちに奪われて恥辱を受けるかもしれないからな。出来れば学校だって休んで小説を書いていたいけど、それは後に来るべき四年の時間稼ぎのときに回そう。
終業の挨拶をして、先生が去ろうとドアに手を掛けたところで思い出したように「あっ」と声を上げた。
「そうそう、一つお知らせがある」
対して注目が集まっていない中、先生は懐から一枚のプリントを取り出して掲げた。
「張っておくから読んでおくよぉに。以上ぉ」
まばらに返事が返される。先生は黒板にマグネットでそれを留めてから教室を去った。
さて、なんだろう。大して興味があるわけでもないが丁度トイレに立ちたかったし、ちょっと寄って見てみようか。
窓際のベストマイ席を立ち、黒板の張り紙を見に行く。
誰も近寄っておらず、自分だけ見に行くのが少し躊躇われたのでさり気なく見てみる。
プリントには『校内作文コンテストのお知らせ』と、その旨が無機質なワープロソフトの文字で書かれてあった。
「……へぇ」
興味は湧かなかった。俺が目指すのは、あくまでのプロのライトノベル作家だ。