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加奈子の大隠

「…あなた…なにが…言いたいの…」

 恐怖は体現され易い。加奈子も例外ではなかった。声が震えて巧く繋がっていかない。途切れ途切れの言葉が、羅列のように口の端からこぼれた。

「何が言いたいかなどということは、この際、問題ではありません。人間という存在そのものの、理念というものが問題なのです」

 くすくすという感じで喉元をくゆらせる菊池マスターは、まるで好々爺のようではあるものの、その中身といえば、得体の知れない軟体動物であるかのような錯覚が加奈子の中で芽生えていた。

「あなたは、仕事を優先させた上で、巧くいっていたはずの恋愛をも不和にし、結果、離別を余儀なくしてしまいました」

 菊池マスターは、話し疲れた口を潤すかのようにコーヒーを啜った。

 菊池マスターが言ったことは、加奈子の五ヶ月前に起こった事実であった。

 加奈子が仕事というものに執着したしていた当時、付き合っていた異性が存在していた。結婚というもらいの展望なども話しに出るくらいの長い付き合いが、加奈子の仕事中心の考えによりギクシャクしだしたのは、偶然か会社内でセク・ハラが始まった時期と同時であった。会社でいじめにも似た行為が横行するなか、恋人との安らぎの一時であったはずのものさえ、イライラとした焦燥感に追い立てられ、挙句に恋人の方から離別を切り出されてしまったのだ。

悲しみや後悔は、不思議となかった。そのかわりに喪失感が吹き抜けた。今まであったはずのものが、手元から突然として消えうせるのは、あることが当然と感じていた月日の分量だけ空しさを呼んだ。

 だが、日々の生活は続いていく。個人の生活環境が変化したからといって、会社は優遇してくれるほど甘くない。無理やりにでも加奈子は、仕事という日々の過程に熱心にならざるおえなくなる。それが、いつしか日常のひとときになるまで、努力していった。そして、それはほどなく叶う結果となる。というのも、嵐のように連日行われるセク・ハラがそんな感情など押し流したのだ。

「しかし、恋人を失ってまで守ろうとしていた会社での居場所も、今、あなたは捨ててきてしまった。では、あなたの選択は、どこで間違いを選んだのでしょう。恋人と別れたことでしょうか。それとも、会社を優先しようとしたことでしょうか。はたまた、その会社に入社したことかもしれません。いやいや、恋人と付き合ったことなのかも。それ以前、自分が学んだ学校だったのでしょうか。育った両親の家庭にあったのかも知れません。可能性は幾多もあって、限定することなど不可能でしょうね」

 ふいに店内が光量を落としたかのように加奈子は感じた。だが、首を巡らせても景色は以前と変化は無い。ただ、加奈子と菊池マスターの空間だけが、暗い洞窟にでも入り込んだような、晴天の下で急に巨大な雨雲にでも遭遇したような感覚があった。

「じ・人生ってそういうものでしょう。選択する路は多くて、そこから間違った脇道に入ることもあるかもしれない。でも、それと気付けば、もう一度違う路を選択すればいいことでしょう。わたしが出会ってきた全ては、わたしの選んだことだし、必然であるとも思ってるわ。必要であったからこそ与えられて、傷ついても学ぶことが人生なんじゃないですか」

 言い切ったつもりではあっても、それは力の無い弁明だろうと加奈子自身わかっていた。菊池マスターは、そうした加奈子の弁明が聞きたかったに違いないのだ。

「人間らしく…それも現代人という型にはまった、見事な自己中心的な見地からの意見ですね。更に楽天的ときては、非の打ち所が無いですね。あなたは自分の人生が与えられたもののように考えているようですが、与えたのは誰でしょうか。神でしょうか。見えざる手の上で翻弄される存在でしょうか。では、なぜ苦労や苦痛までもがあたえられるのでしょう。自分は幸せになるべく生まれてきたはずではないですか。それなのに世界という視野から見れば、苦労に嘆き、苦痛に泣く者もいます。若くして死する者までもが、与えられたものでしょうか。そして、それら全てを皆が受け入れているのでしょうか」

 話は途方も無い世界へと移行しつつある。加奈子にはそれがわかっていながら、どうしようもない無力さを感じていた。真剣に考えることなど無かった日常に、真理ともいえる疑問が投げかけられている。無知であることが罪だとは思わない。ただ、真剣に考える術を持たない自分が情けないのだ。

 現実的に考えられることなど、たかが知れている。自分の眼で見たそのままが現実である以上、見知らぬ土地の見知らぬ誰かが、どんな苦境に立たされていようと人事に他ならない。同情はできても体験することなど願い下げだ。自分だけは“不幸”という領域に含まれることなど論外なのだった。

 加奈子が言葉に出来ることは、何もなかった。

「簡単な選択をしましょう。ここに、すぐに“幸福”になれる石があります。それを手にすれば今日からあなたは“幸福”という毎日が約束されるにです。そして、もうひとつ。すぐには“幸福”にはなれませんが、行く末は“幸福”が約束される石です。人生の大半は苦労と苦痛が続き、晩年には“幸福”が待っているのです。果たしてあなたはどちらを選びますか。いえ、言わずとも分かります。前者の方でしょう。当然といえば当然です。だれも苦労などしたくありませんから、誰もあなたを責めることなど出来ません」

 カップに残ったコーヒーを煽るように飲み干して、菊池マスターはにやりとした。それは、悪魔の微笑みだったのか天使の微笑みだったのか、加奈子には判別できなかった。

「あなたは悔やんでいるはずです。それは、自分の人生の設計過程において、そんな現実など想像すらしていなかったからです。では、このわたしからのプレゼントを受け取られてはいかがですか。他愛も無いものですが、今のあなたには必要かもしれません」

 そこまで言うと菊池マスターは、グラスの並んだ棚から、いつもは使うことの無い色ガラスのグラスを2つ取り出して加奈子の前に置いた。それは赤いグラスと淡い青のグラスであった。

 棚の奥を覗けば同色のグラスの他に、黄色、橙、緑、黄緑、白、黒、桃色、灰色、紫といったグラスが収められていた。それをもっと良く眼を凝らして見れば、グラスの中心に同色のほのかな揺らぎが見れたはずであったが、加奈子にはそこまでの観察はできなかった。目の前に置かれたグラスには、不思議な魅力があって、一度見てしまうと視線が奪われてしまうのだ。何の変哲も無いブランデーグラスのをうな形である。変といえば色ガラスというくらいのはずなのに、それは凛とした光を放っていたのだ。

「あなたへのプレゼントは、このふたつのうちのひとつです。赤いグラスは、あなたを今の不幸から解き放ち、永遠の幸福な“ゆめ”を与えてくれる『眠りのグラス』です。今まで体験したことなど無い、お伽噺のような幸福を約束されます。もうひとつ、青のグラスは、今のあなたが不幸になったと思う前まで時間を戻せる『過去のグラス』です。あなたが幸せだった感じた時代に戻れるのですが、今まで体験したあらゆる記憶は消えてしまいます。故に、現在までの過程を繰り返してしまうことも多々あります。ですが、違った幸福や不幸にもなる可能性を秘めてもいます。どちらを選ぶかは、あなたの自由です」

 現実的に判断するのであれば、こんな馬鹿げた噺を信じることなど狂気の沙汰なのであろうが、ここに至って加奈子は嘘でないことを確信していた。菊池マスターの異様な雰囲気にしても、その廻りを包む空気の異様さ。馬鹿げたジョークとしてしまうには、現実味が欠けていた。

 そのうえで加奈子は迷った。

 グラスを選ぶことではなく、グラスを取ることにだ。入ってはいけない領域に、有無をいわさず突き落とされそうな予感がする。しかしながら、既に手遅れのような感覚もある。

 加奈子は迷いながらもグラスへと手を延ばした。どちらを選ぶかなど最初から決まっていた。こんな簡単な選択など今までの人生でも無かったろう。

 加奈子の手は『赤いグラス』に延びた。

「そちらを選ばれますか」

 菊池マスターが、ぼそりと呟いたが、加奈子には聞こえてはいなかった。赤いグラスを右手で包んだ瞬間、沸き立つように赤い霧が視界を覆い、同時に味わったことのないような快感が背骨を砕くような勢いで突き抜けた。赤い視界が真っ白へと変化していく。セックスの絶頂間にも似ていたが、比較することなど出来ないほどの陳腐な例えだった。

 意識が揺らぐ。その時になって初めて気付いたことがあった。

 会社での一連の出来事も恋人の別れも、この店『SCENERY』に訪れたその日から始まったのではなかったろうか。

 しかし、そんな疑問も薄らぐ意識にかき消され、代わりに安らかな幸福感が、やさしく加奈子の全身を包んでいた。

「目先の幸福を選ぶ。世代を越えても変わらない選択なのでしょうかねぇ」

 丸い眼鏡の奥の瞳を悲しげな色で染めて、菊池マスターは赤いグラスを棚に戻した。そのグラスの中心には、赤い炎のような揺らぎが見えた。加奈子の悲しげな人生がその揺らぎに同調しているかのようにも感じる。

 カウンターの席には、既に加奈子の姿は無かった。

「ちょっとマスター、聞いてよ! あのおやじったら、最悪なんだよー!」

 怒鳴り声にも似た口調でセーラー服の少女が、古めかしい木製の扉を開けて入ってきた。まだあどけなく、純粋さが残るその顔には、悲しそうな涙が光っている。

「どうしました? 悲しいことでもあったのですか? いま、熱いアップルティーでも淹れましょうかね」




                       END



やっと終わりました、というのが正直なところです。不思議な作品なんですが、何故か愛着があったりするんです。

実のところ次回作も出来上がっていたりします。

気に入ってくれる方がいたなら、もう一作ありますんで期待していてください。


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