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加奈子の深淵

「業績自体は男の仕事…みたいな風潮ってあるじゃないですか。多分に漏れず我が社でも同様。女は事務にお茶汲み、後は接待の華ってところで仕事はおしまいです。業績なんか上げられるもんですか」

 多少怯えの混じった震える声で、加奈子は答えた。それでも真実といえる体験談である。会社のシステムというものは、業績の上下を左右する人材には優遇という庇護を餌に、たとえ傍若無人な粗悪の人物であっても構わないのだ。だが、そうでない人物、腰掛や窓際などという者には、針のムシロと同様な毎日を送らなければならないのも事実なのだ。

 先刻まで肌身に染みる思いで勤めていた会社の実情でもある。

「本当に、そうお感じになっていたとするんでしたら、あなたの結果は当然といえるでしょうね」

 加奈子の内心など露ほどにも察しないのか、菊池マスターはにやけた口元を能面のような無表情に戻して言ってのけた。

 わけのわからない焦燥感に囚われていた加奈子であったが、この言葉には少なからず憤慨した。勢い声が大きくなる。

「どうしてですか! あたしだって数年を社会人として生きてきたんです。実感したそのままが自分の学んできた社会学だとも感じてます。それが間違いだとでもいうんですか!」

「おやおや、癇に障ってしまいましたか」

 菊池マスターは、本当に意外という顔つきで、まぁまぁという感じで左手をひらひらさせながら、すっかり冷めたアップルティーを下げ、湯気の立つおかわりを差し出した。

「別にあなたの社会通念や常識などを否定しているわけではありません。強いて言うのならば、その逆です」

 唖然という表情は、今の加奈子の為にあるといっていいだろう。《何でそうなるの?》というのが本心なのだろう。ここに至って、お互いのコミュニケーションが、完全に成立していないことが判明したのだ。

「あなたが捉えた社会というものは、自分を中心に見た社会です。ですから業績の有無などという言葉が出てきます。でも、それはある一定の約定のようなものです。優先的に得られる会社からの個別意識と言っても良いでしょう。それによって社員は個人を主張するわけですから、無意識に重要かつ主要と勘違いします」

 加奈子は、眩暈にも似た感覚に揺らいでいた。

 難解な数学の問題を公式を知らずに解こうとしているかのような気分といえようか。何にしても、菊池マスターが述べる理論は、加奈子が想像していたどんな公式も当てはまらず、かといってそれが正論というべきものなのかどうかも解らなかった。

「難しい顔ですね。そんなに力を入れずに聞いてください」

 いつ淹れたものか、菊池マスターの右手には湯気の立つコーヒーカップが握られていた。それを口髭に付けながら、ずぞぞぞ〜と音をたててすすった。

「先刻お話しした女性は、会社という中では成功していきました。ですが、その会社という中にあっては、誰もが部下で上司であるのです」

 成績の悪い生徒に教えるかのように、一字一句を区切った言い方であった。しかし、加奈子にとってはそれはそれでありがたかった。今までの興奮にも似た感情から平静な自分に戻る為には必要な時間でもあったのだ。もしかしたら、それを理解したうえでの口ぶりではないだろうかとも思えた。

 菊池マスターは、もう一度、音をたててコーヒーをすすると、うんうんと頷くような素振りで加奈子を見た。

「会社で重要なことは、誰しもあなたが実体験したような形で進んでゆきます。誰しもが、それを当然として考えてです」

 加奈子はうんうんと頷いて、ほんのり冷めたアップルティーに口を付けた。

「ですが、それは本質ではありません。本当の会社のシステムは、それでは成り立たないのですよ」

 静かな口調の中に断言にも感じられるものを加奈子は読み取った。

《もしかすると、この男は会社を経営していたことがあるのかもしれない》と加奈子は本気で思った。会社の本質とかシステムとかなどを考えて会社に行ったことなどなかった。

「会社自体が業績中心で動く成金主義であれば食い合いが始まります。過当競争というものではありませんよ。社会自体が食い合うんです。会社は金を求めて膨れ上がり、それでも満足できずに多角化し巨大化します。しかし、それをさせまいと他者からの妨害が入り挫折します。が、それでも欲が深いために他者を排除しようと模索するでしょう。そのため、資金の優劣が重要になり、犯罪行為も盲目的にやり遂げることにもなるでしょう。現代の象徴ともいえる実態があるとは思いませんか?」

 溜め息を吐く感じで菊池マスターは、ふぅっと一息つくと、いやいやと首を二度ほど振って見せた。この小太りな男がすると、本当に呆れたという感じがすると思えた。無表情な菊池マスターは感情の有無など遠い存在のようだが、こういう素振りには真実味が隠れている。

「バブルという言葉は好きではありませんが、一部の成金主義によって引き起こされた好景気というものをあなたは知っていますか? 夢を描いた者もいれば、崩壊という二文字で全てを失った者も少なくないでしょう。ですが、それは本当の現実だったのでしょうか?」

 加奈子には、ほのかな疑問が溢れてきていた。それは菊池マスターの言うことに首を振り否定し続ける自分と、これから菊池マスターが言うであろうことに興味を持ち、尚且つ頷こうとする自分が心に中で存在しているからだ。

 菊池マスターの話しは、核心を握ったまま遠い外周をのろのろと歩くように捉え所がないうえに、抽象的な表現ばかりで曖昧だ。言わんとすることも霧の中のようにおぼつかない。なのに加奈子には、それが真実に結びつくような、それでいて的外れなような、なんとも不可思議な気分になっている。しかし、それを言葉で紡ぐには、これも見当外れの表現が出てきそうで、加奈子は言葉を発せず、ただ菊池マスターの話しの続きを待った。

「社会は会社では動きません。何故なら、そこに現実が内在していないからです。会社自体は、ある法則に則って存在が現実化します」

 菊池マスターはここまで言うと、おかわりのコーヒーをカップに注いだ。それに呼応するように加奈子もすっかり冷めたアップルティーを飲み干した。

「株式とか有限とかいうものですか?」

 加奈子は、思ったままを口にした。

 菊池マスターは、ティーポットから厚いアップルティーを加奈子のカップに注ぎながら、能面のような顔を左右に振った。

「それは形状であって、存在理念には関係ありません」

「では、なにが…」

 加奈子の中は真っ白であった。

 会社の存在理念など、日常生活の範疇を超えた学者の論理であるかのようだ。煙に撒かれた討論のようなもので、結末など無い無益な時間ではないだろうか。

 だが、先は知りたいというのが加奈子の本心でもあった。

「あなたも自分を見失った一人ということです」

 一陣の風も吹くことも無い湖の湖面から、静かに湧き上がる霧の囁きではなかったかという表現ならば、菊池マスターのこの言葉が当てはまるだろうか。とても静かな口調であっても、その中にほんのりとした失意とも取れる溜め息とも違う吐息が混ぜられ、何かしらの意思が含まれているようでいて、それでいて透明な無意味さをも持っているような、不思議で不気味な言葉だと加奈子は感じた。

 無意識の恐怖という震えが、加奈子の指先からカップへと伝わり、琥珀色の液体が小さな波紋を呼んでいた。

「今のあなたに、その意味の何たるかを説いたところで、現状を変えるだけの要素にはならないでしょう。それ以上にあなたが持つ価値観が偏見に満たされていることに根本があるはずなんですが、あなたはそれをも理解しないでしょう。わかりませんか? そうでしょうねぇ。少なくとも現代文明人などという気取った自意識の基で形成された社会常識は、それだけで罪悪感も薄らいでしまうものですからねぇ。しかし、完全に救われないのは、それに気付く切っ掛けは多々あるのですが、そこから抜け出す勇気が皆無ということでしょう」

 菊池マスターの愛嬌有る丸顔が、今や能面を貼り付けたかのような無表情さを湛えて冷たく黒光りするかのような印象を加奈子は受けた。それは、まるで今までの現実から隔絶された異質の世界に投げ込まれ、そこで悪魔に出会ったかのような不気味な印象でもあった。

 そう、加奈子が知っている菊池マスターは、今日という日に加奈子の理解を超えた者へと変貌したと言ってもいい。


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