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加奈子の陰影

 加奈子が『SCENERY』を見つけたのは、単に偶然でしかなかった。国道沿いの定食屋で食事を済ませた後、会社への近道のような気がして入り込んだ路地の突き当たりに、何やら青い光が灯っていた。

《街灯にしては、路地の中に入り込み過ぎてるし、何も無い袋小路にネオンでもないだろうし…》

 好奇心と探究心に突き動かされ、ついつい曲がるべき角を通り越し、青い光へと近づいて行った。一歩毎に太陽の光が陰り、青い光源だけが煌めき始める。

《不気味だわ。こんな暗がりに青い電飾なんて…》

 そうは思ってみても足が止まらなかったのは、加奈子自身にも不思議ではあったが、誘蛾燈に誘われる虫のように、ついつい吸いつけられてしまうかのようであった。

 ドアが見えた。しかし、それはドアなのか暗闇の延長なのか判然としていなかった。辛うじてそれと感じる程度にしか判別できなかったという方が性格だろうか。ドアノブが鈍く青い光を反射していたからこそ識別できた。

 異様さ漂う袋小路には、ぼんやりとした光を放つ水色の電球が、古びた一枚板のドアの上にぶら下がっていた。ドアにはポプラの木らしいレリーフが施され、その上部にどうやら木製のプレートが填め込まれている。文字らしきものが読み取れる。

「喫茶 SCENERY…」

 何気なく言葉にしていた。

《こんなところに喫茶店なんて…》

 興味本位に入り込んだものの、なんだか不気味過ぎる雰囲気に店内まで入ろうという勇気は、さすがに無かった。

 踵を返そうかと思った瞬間、木製のドアが勢い良く開け放たれた。反射的に開け放たれたドアを見つめた加奈子ではあったが、その入り口に人影は認められなかった。

「いらっしゃいませ」

「きゃっ!」

 突然の呼び掛けは、加奈子の背後からであった。意識をドアに集中していたがために、その驚きは加奈子を僅かならず飛び上がらせた。

「すいません。驚かせるつもりはなかったのですが」

 驚きの興奮で息も絶え絶えの加奈子に、背後の人物は穏やかな口調で静かに話しかけてきた。やっとの思いで鼓動を平静値まで鎮めた加奈子は、ほっと溜め息を吐くと、おずおずといった感じで振り向いた。

「いえね。店先の掃除をしていたのですが、戸口の前で佇んでいる人が見受けられたものですから、入るに入れないのではないかと思いましてね。なにぶん、こんな雰囲気ですから」

 箒と塵取りを両手に、黒尽くめの男が首をかしげて立っていた。身長は加奈子と同等、165センチ有る無しだろう。ちょっと小太りな感じで、中年のビール腹が始まっているようである。しかし、口元に蓄えられた髭のせいだろうか、年齢は判然としないものがある。予想としては四十代のような疲れた印象は感じられないところからみて、三十代であろうと推測した。

「店先で立ち話も何ですから、どうぞ入ってください」

 丸い顔を目尻だけ下げて笑うと、男はさっさと店内に行ってしまった。

 どうしたものかと迷った加奈子ではあったが、男の表情にも危険な感触は無かったし、別段急いでいるわけでもない。

《アップルティーが飲みたいな》

 加奈子は、ゆっくりと『SCENERY』のドアを潜った。



「何があったんですか? と聞けるほどの仲ではありませんが、良かったら話してみませんか?」

 菊池マスターには、意外な言葉だと加奈子は思った。いつもの彼は、加奈子がどんな状態であろうと態度に変化があったことなどありはしない。落ち込んで一言も話したくない時も、歓喜の頂上で饒舌になっていても、恋に傷ついて涙していても、菊池マスターの態度は当たらず触らずというほどで、決して他人の心情の起因などには興味を示さない人物ではなかったか。

「あ…、なんだか誤解なさってましたか? 別に他人に興味があるわけでは無いんですが、今日のあなたは、これまでの人生でも稀なほどに沈んでいらっしゃる。そんなあなたの愚痴くらい聞いてあげられますから」

 ぼさぼさ頭を右手で掻き回しながら言う菊池マスターは、なんだか滑稽にみえた。そのせいだろうか、僅かだが心和んだような気になり、加奈子は今日までの性的虐待を淡々と語り始めた。




「なるほど、可愛さ余って憎さ百倍といったところでしょうかねぇ」

 大雑把な説明に一区切りついたところで、菊池マスターは考え深げに腕を組んだ。

「どうかしら。なんだか疎まれていたほうが強かったと思うもの。それに、退職届を出した時の課長の表情は忘れないわ」

「管理職なんてものはそんなものですよ。温和に固めていれば定年までの保証はされていますから、少しでも問題の種は作りたくないでしょう」

「そんなものかしら…」

 加奈子は、そう言って深々と溜め息を漏らした。結局は、男性上位の社会システムを目の当たりにさせられたにすぎない出来事であった。有能であれば許されるなどというのは、実際には男だけに与えられた特権である。事実、実社会においての女性の昇進率は、男に比べれば十パーセントにも及ばないのだ。

 勤続年数が永くなればなるほど、同期の男性社員との役職格差は歴然としてくる。これはなにも加奈子が勤めている会社に限ったことではない。男女平等がうたわれて数十年になるが、キャリアウーマンというものは、実際には功績として日の目を見ることなど稀であるのだ。それも、一般事務や経理などといった職種では、会社から見ても結婚までの腰掛就職にしか扱われないのが現状だろうか。

 加奈子もそれが分からないほど世間に疎いわけではない。

 しかし、女性だったというだけで、性的虐待を甘んじて受けなくてはならない理屈にはならないはずである。

 世論は常に弱者の味方ではあるものの、いざ性別を論議すると二分する傾向がある。身内であれば同情もしてくれるが、所詮は他人事である。一時を過ぎれば、結局はその存在すら忘れてしまうのだ。

「マスターは、こんな悩みなんてないんでしょうね」

 多少、皮肉めいていると感じながらも加奈子は口にしていた。それでも、菊池マスターの表情を見ることは出来た。

「そうですねぇ」

 菊池マスターは、視線を宙に漂わせながら、少し考えているように眉を寄せて首を傾げた。

「こんな話がありますよ。ある女性が十年という歳月を心血注ぐ思いで会社に貢献し、やっとの思いで部長にまで昇進したそうです。同期の男性社員より待遇は良いし、個人のオフィスも与えられた。でも、満足は出来なかった。部下の信頼もあったし、取引先も可愛がってくれたそうです。上司も良い人ばかりで、女性差別などということもなかったそうです。でも、満足できなかった…」

 まるで夢のような話だと加奈子は思った。自分が今まで居た会社とは天地の差ともいえる環境なのだ。

「それで満足できないなんて傲慢だわ」

 憤慨というような口調になった自分に、加奈子はちょっと恥ずかしくなった。だが、本心の表れでもあった。

「彼女が満足出来なかったのは仕事ではなく、プライベートだったそうです」

 遠い昔を思い出すかのように、菊池マスターは空を見ながら話を続けた。

「仕事と割り切れば、辛いと思うことなど無かったそうです。昇進を妬む者、女性だからといって蔑む者もいたそうです。でも、仕事という範疇である以上、それらは代償ともいうべきものであると理解していたそうです。仕事というもので有能な人材は、優遇され大切に扱われます」

「確かにその通りだわ。あたしのスカートを引っ掛けたあいつだって処分されなかったもの」

 加奈子の脳裏に、営業ナンバーワンの憎らしい顔が思い出された。はらわたが煮えくり返る怒りがふつふつと湧き上がってくる。

「ですが、それは会社の物であって、人という個人ではないのです」

「え?」

 いつの間にか菊池マスターは、加奈子の顔を覗き込むように見つめていた。

 加奈子の漏らした声には、菊池マスターの言ったことへの疑問符もあったのだが、自分がみつめられていることに気付かなかった驚きも含まれていた。

「会社というシステムの中で、最重要視されすものは何だと考えますか?」

 菊池マスターは、口元を僅かに緩ませて眼を細めた。見方によっては、なんとなく小馬鹿にしたような感がある。感情という概念が欠如しているように思えていた菊池マスターだけに、加奈子には以外というより不気味に見えてしまっても仕方ないことであろう。

「最重要視って…」

 回りくどい皮肉を感じながらも、加奈子は考えた。

 会社のシステムの何たるかなどという卓上の理論などに思いを巡らせたことなど皆無ではなかったろうか? しかし、想像は安易に出来る。

「それは、業績を上げることでしょう」

 当然といえば当然過ぎる答えが加奈子の中で成立していた。

 現実に加奈子を追い詰めた社員の営業マンは、成績トップという庇護の下にに無罪となったのだ。これが最低の社員であったならば、退職していたのは加奈子ではなかったはずである。

「あなたは、業績を上げられなかったのですか?」

 菊池マスターは、先刻よりも眼を細めて加奈子を見つめていた。小馬鹿にしていたような表情が、今度はあざ笑うかのような印象を与えていた。

 加奈子は焦りと不安が、自分の中で膨らんでいくのが感じられた。今まで加奈子が認識していた菊池マスターは決してこんな表情を見せる人物ではなかったはずである。それが、今日という日に扉を開いたかのようであった。




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