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加奈子の日常

 東京の梅雨は、異常なほどに湿気と熱気を帯びている。特に今年の梅雨は、まるで雨を出し惜しみするかのように、しぶしぶと小降りで、アスファルトに落ちた水は、乾く間も無く濡れ光った表情を二週間以上も見せている。コンクリートジャングルと呼ばれるだけあって、剥き出しの地表が極端に少ない都心部では、雨水は道路を横行し下水道に吸い込まれていく。それも、このままでは氾濫が近いだろう。


 芦野あしの 加奈子かなこは、市ヶ谷のオフィスビルから、そんな街を見下ろしては溜め息を吐いていた。勤めて三年になる経理の仕事に飽きがきていることと、折からの梅雨入り宣言も手伝って、気分は最悪である。

 上司の男達にも原因はある。加奈子は、一見そう美人というタイプではないが、かわいいという部類のボーイッシュ的な魅力がある。そのうえ人当たりも良い性格も好評だ。プロポーションは十人並みだが、決して他人の美観を損なうものでは無いし、それどころかボーイッシュ的な加奈子には、正に美貌といえた。

 そんな彼女だけに、社内の人気も良かったが、反面で誘惑も多い。入社したての頃には、『これも社会勉強だ』と思い、何度か誘いに乗ったこともあった。しかし、男女という異性関係には仕事の延長という枠付けなど成立しない。食事の後に多少のアルコールが入り、気分的にも高揚してきた頃を狙って、誰もが加奈子をホテルへと誘った。大概は堅い態度で拒否すれば諦めてくれるが、中にはアルコールの酔いに任せて強引に引きずり込もうとする者もいた。そんな時には、何度、加奈子の右手が唸ったか知れない。翌日の出社時に左頬を赤くしている男がいたら、加奈子にやられたものだなどという噂まで広がったくらいだ。

その噂話のお蔭か、この頃は誘われなくなったが、今まで頬を赤くされた男共が変にいやらしい態度や接触をしてくるようになった。いわゆるセクシャル・ハラスメントと言われるものだ。

 すれ違いざまにお尻を触ってくる者もいれば、いやらしい話題を加奈子が一人の時を見計らって話す者もいる。

 そんなことにもめげずにきたのは、加奈子が案外にも負けず嫌いであったためだろう。女というだけで性的虐待を受けるのは納得がいかなかったし、そんなことで必死の思いで入った会社を辞める気にもなれなかったからだ。

 しかし、ここのところ、その気力さえ底をついてきた。

 これほどまでに嫌がらせをしてきても平静さを崩さない加奈子に対して、男共の方が業を煮やしてきたのだ。

五日ほど前の出社時、満員のエレベーターの中で壁際におしやられ、散々に触られた。さすがにスカートの中に手が入り込んだ時には、いても立ってもいられず、人垣を押し分けてエレベーターを降りたものの、悔しさに涙が滲んだほどだった。三日前などは、昼食に出ようと席を立った途端にスカートの端が持ち上がった。すかさず押さえたものの、糸で吊るされた針がスカートを持ち上げたと知った時には、人目をはばからずに涙をもらしてしまった。

 社内でも問題になっていただけに犯人への追求は厳しかったものの、営業ナンバーワンの実力者が犯人と知れるや、曖昧なうちに処理されたことになり、何の処分も無く今日も出社している。会社に利益を与える者こそ社内の法であるという実例でもあった事件だ。

 同僚の女子社員も同情的ではあるものの、やはり自分よりも美的に優れている加奈子が虐められているのは快感にも近い感情を持って眺めているのだろう。これという慰めの言葉も無く、力にさえなろうとする者はいなかった。

 そんな毎日の中の梅雨入りである。気分が滅入るのも無理の無い話ではある。

 もうすぐ時計は十一時を指そうというところで、加奈子は机の中から白無地の便箋を取り出し、制服の胸ポケットに挿していた万年筆を引き抜くと、今朝から考えていた文章を気分も重く綴り始めた。

 その書き出しは『退職願い』であった。




 会社の時計が十二時を示す前に、加奈子は街へと出ていた。

 退職届けを叩き付けた時の課長の表情が、嬉しさ半分、戸惑い半分という複雑な心境を見せていたことに、なんとなく腹を立てながらも、これから何を食べようかなどと考えながら、まだ賑わいを見せない飲食街を歩いている。

 いつもならば午後の仕事のことを考えながら歩いているはずの飲食街も、今日のように何も考える必要が無いとなると異様に広々としているように加奈子の眼には映った。大衆食堂はいうに及ばず、中華料理、フランス料理、スペイン料理、懐石料理、寿司、喫茶店にファーストフード。好みの料理が食べられるわけだ。加奈子は、いつも大衆食堂か喫茶店しか入らなかった自分が恥ずかしくなったような気がしたが、それでも知らない店に入る気分にもなれず、いつもの喫茶店『SCNERY』のドアをくぐることにした。

 国道沿いに飲食街が立ち並んでいるのに、『SCENERY』は路地を入った突き当りの、それこそ陽も差し込まないところに、両脇を数十階建てのビルに挟まれて商売をしている。光が差し込めないために路地は暗いが、袋小路に眼を凝らせば、ほのかに灯った水色の光源を見つけられる。それが喫茶店『SCENERY』の存在である。暗い路地の奥に光る淡い電飾に照らし出された木製のドアは、いつ見ても不気味さを誘う。ポプラの木をレリーフした一枚板が、かなりの年月を物語るかのように浅黒く変色しているのも不気味さの一端を担っているようだ。

 加奈子は、いつものように何気ない素振りを装って、ドアのノブを手前に引いて店内を覗き込んだ。

 客は一人もいない。いつものように、ただガランとした空間が無表情に加奈子を迎えただけだった。

 ホッという感じで溜め息を吐くと、カウンターの厨房が覗ける右端に席を取る。そこが加奈子の指定席でもある。いや、指定席というわけではないが、加奈子がここに来る時には決まって一人の客もなく、加奈子が店内に居る間にも客が入って来たということもなかった。それ故に加奈子はどこでにでも好きな処に座れるのだが、誰一人としていない店内に、ポツンとした孤独感を感じることなくいられるのはこの席しかない。正面には厨房が望めるので、どんなときにも必ず人影が眼にはいるのだ。

「いらっしゃいませ」

 突然の声に加奈子は驚いた。

 今、誰一人として店内には人影が無いのを確認して席に着いたはずなのだ。カウンターにも従業員の姿は無く、厨房にも気配すら無かった。それなのに、真後ろから声が掛けられたのだ。驚かない方が変といえよう。

「マスター…」

 後ろを振り向いた加奈子の眼に写ったのは、何のことは無い『SCENERY』の店主、菊池であった。

「驚かさないでください。それでなくとも、今日はナーヴァスな気分なんですから…。一体、どこに隠れてたんですか?」

「いやぁ、なに、驚かせるつもりはあんかったんですが」

 菊池マスターはそう言うと、丸顔の中の丸い眼を糸のように細くして笑顔を作ったが、口元に蓄えた口髭には、何の変化も無かった。

 この人は本当の笑顔を知らないのではないかしらんと、加奈子はいつも感じてならない。それなりの笑顔ではあるのだが、心からわらっているのではなく、付き合い程度の愛想笑いにしか見えないのだ。

 加奈子がそんなことを考えてるなどと梅雨とも知らない菊池マスターは、「いやぁ、なに。いやぁ、なに」とつぶやきながらカウンターの中へと入って行った。そして、カウンターの端に置時計に眼を移しながら、水道の蛇口を開いて手を洗い始めた。

「あなたがいらっしゃるには、まだ少し早いね」

 石鹸の泡で白くなった手をこすり合わせながら、加奈子の顔を覗き込むようにして菊池マスターは話しかけてきた。

 時計の針は、十二時を十分ほど回ったところだ。加奈子が、いつも通りの日程で行動しているならば、この喫茶店を訪れるのは十二時半を過ぎた頃のはずだが、会社という束縛から解放された加奈子には、時間など意味の無いものだ。だが、面識のある人物にそのことを指摘されるのは、なんとなく後ろめたさを感じて、自然と俯き加減に視線を逸らせてしまった。

「なんだか、腫れ物にでもふれてしまいましたかねぇ」

「いいえ、そんなんじゃないんです…」

 否定はしたものの、次の言葉が出てこない。一度合わせた視線も、また自然と逸れてしまう。

「…いつもより熱めのアップルティーを淹れましょうか?」

 加奈子が知る限り、ここ『SCENERY』よりおいしいアップルティーを飲ませてくれる店は存在しない。加奈子のお気に入りのアップルティーを、どこよりもおいしく淹れてくれる。それだけで『SCENERY』に来ていると言っても良いくらいなのだ。

「…ええ…」

 静かに頷いて、加奈子は僅かな静寂と、ほのかに香る林檎の甘い香りに佇んだ。



                                 つづく


 


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