第二章 カミソリ奉行 1
「どうにも、解せぬな」
東町奉行職、稲垣淡路守種信は、生方から提出された書面を見るや否や、一言の下に斬って捨てた。
書面の内容は今朝方に遭遇した溺死事故の顛末。発見から今に至るまでの経緯をごく簡潔に記してあったのだが、稲垣の鋭い眼光が容赦なく生方を射抜く。
「しかし、溺死であることには間違いがなく。拙もこの目で、ちゃんと確認をしました故」
報告書に目を通したなり言い放たれた言葉に、生方が慌てて中身を補足する。
説明が少ない理由のは、取るに足りない事件だから。それでも一応と報告したのは、溺死者が堅気ではなく、ヤクザものだからだと、注釈をつけるように言い足した。
更に付け加えて、
「抗争の果てでもない、単なる溺死、事故でございます。本来なら、お奉行様の手を煩わすような代物ではないと心得ておるのですが」
言った途端、稲垣の眉が、ぴくりと動いた。
「貴様の仕事は何だ?」
ゆっくりと、諭すような尋ねかた。
「は?」
「貴様の仕事は、何だ? 答えよ」
「よ、与力であります」
意図が分からずに生方が答えると、稲垣は「うむ」と頷いて、もう一度、口を開いた。
「左様だな。では、問おう。与力の仕事には、奉行職に指図する事柄も含まれているのか?」
「いえ、それは……」
そのような権限が与力の仕事に含まれていようはずがない。どう答えてよいのか、言い淀む生方を、稲垣は射抜くような目つきで睨みつけた。
「煩わすか否かは、拙が決める。貴様が口出しするでない!」
一喝すると、掌で床を叩きつけながら、ぴしゃり「愚か者!」と言い放つ。
稲垣の逆鱗に触れてしまった生方は、「ひっ」と小さな悲鳴を上げると、条件反射的に首を竦めた。
「こ、これは……至らぬ事を申し上げました」
これ以上あれこれ叱責を受けては敵わぬと、畳に擦り付けるように頭を下げる。
兎にも角にも、生方はこの剃刀のような奉行が苦手だった。
冷徹な上に、頭は切れるわ聡いわと、傍にいて気が全然、これっぽっちも休まらないのだ。どのような些事でも逐一報告することを強要し、吟味の要不要を一分の隙もなく仕分けししていくのである。
報告もまた、過不足があると機嫌を損ね、内容に対して多いと叱責し、少なくても、やはり叱責を食らうのだった。
曰く「過小な報告は再調べの無駄を生む。過大報告は調べにそのもの無駄があった証拠」と徹底した合理主義。
そこで、些事であるから過大報告にならぬようにと細心の注意を払ったのに、これは些事ではないと言われたのだ。
たまったものではない。
土下座した頭をほんの少し持ち上げて稲垣を見ると、生方の提出した書類を見ながら腕を組んでいた。
「いかが、なされました?」
機嫌を損ねないように、ほんの少し頭を上げて恐る恐る尋ねると、「いくつか気になることがある」と生方に向かって、解せぬ理由を口にした。
「仏が引き揚げられた場所は、曲り淵地蔵尊のほど近くだったな?」
「はい」
「三下とはいえ、いや三下だからこそ、そのようなところでヤクザものが溺死するだろうか?」
押し問答のような問いかけ。合理主義とはいえ、説明すら省略されている。
「お奉行様の仰る意味が分からぬのですが」
これでは全く分からぬと、生方が真意のほどを尋ねる。
「意味が分からぬと?」
そんなことも分からぬのかといった、幾分か小馬鹿にした風情で、稲垣が鼻で笑う。
この切れ者の上司は、胸中で思った理由の全てを雰囲気で察しろとでも言うのか。
困り果てた生方が「はい」と頷くと、やれやれといった口調ながら不審に思った理由を語ってくれた。
「曲り淵地蔵尊の近くには、盛り場も郭もないいだろう」
確かに、大坂随一の盛り場である道頓堀は、現場よりも下流、距離にして半里ほど離れている。新町の郭はもとより言うまでもなく、他に盛り場といえる守口宿に至っては、上流に戻る上に二里以上も更に先だ。
しかし……
「それと拙の上告した溺死体が、いったいどのような関係にあると?」
なおさら意味が分からず、生方はもう一度、稲垣に問い返す。
「これだけ言っても分からぬと?」
呆れ口調で稲垣が訊き返してくるが、分からないものは分からない。おとなしく「はい」と頷くと、今度こそ本当に呆れたような舌打ちが、生方の耳に入ってきた。
「溺死したのは、ヤクザものなのであろうが? しかも、三下。そのような輩が、何の用もなく、曲り淵地蔵尊の近くをうろつくと思うか?」
「あっ」
思わず膝を叩く。ここに至って、ようやく稲垣の疑念が読めてきた。
「確かに、おかしいですな」
何度も首を振り、へつらうように生方は相槌を打つ。
稲垣が指摘するとおり、ヤクザ風情、しかも最下級の三下くんだりが、盛り場でもなくシノギすらできないようなところに来ること自体が、そもそもおかしいのだ。
「無論、何処への行き帰りであった可能性も無きにせずであるが、曲り淵地蔵尊を通る道筋にきゃつらの住処の類は無かったはずだ」
「ありません、ありません」
大仰なほど首を縦に振り、生方が連呼する。
「そうなると、事故という可能性は、薄くなりますな」
流れが故殺にあると見るや否や、生方は自説をあっさり捨てて稲垣の疑念に同調する。もともと状況を熟慮して判断したわけではないだけに、変わり身も実に安直。
「市中で噂される、龍神組と黒獅子一家の対立。それかどうかは別として、何らかの事件に関わったと見るのが、妥当かも知れません」
つい今しがた報告した内容と真逆のことを語り出す始末であった。
稲垣は生方の考察を黙って聞き流すと、「ふむ」と一言相槌を打った後、「しかし、な」と口調を変えた。
「貴様の報告によれば、仏に目立つ外傷はなく、着衣の乱れも無いと書いてあったが、それは相違ないののだな?」
「御意」
今朝、生方自身の目で見てきたので間違いない。確認するような質問に対して、生方は首を縦に振って答えた。
「ますますもって、合点がいかぬの」
稲垣は手にした報告書を丸めて紙球を作り、それを生方を目がけて投げつける。
「貴様の上げた報告では、ヤクザの三下が溺死したこと以外、何一つ分からぬ。事件か事故かすら、な」
見下した声で吐き捨てるように吐き捨てると目線は既に次の書類を追っていた。遠回しだが暗にやり直せと迫っているのは明白だ。
だから今、それを調べています。生方の口が言い訳を言おうとするが、理性が発言を押し留める。
言ったところで稲垣は聞く耳を待たないだろう。体裁を整えて、もう一度しっかり報告し直さなければ雷が落ちるのは必至。
生方は一礼すると座を辞し、再び苦手な実務に身を委ねた。