第一章 迅三郎と十郎太 1
「町中の堀のことや。塵も流れてくるやろし、土左衛門やって珍しかないけど、よりにもよって人間の屑まで流れてくるか?」
亡骸を覆っていた筵を捲って死体を拝むなり、東町奉行所の同心、河津迅三郎は悪態にも似た愚痴をこぼした。
それもそのはず。水温むとはいえ、まだまだ冷たい弥生月。出仕するなり、いきなり水死者がいるからと言われて駆り出され、冷たい川に腰まで浸かって担ぎ出したのだ。それでなくても、痩身の身体に川水は堪える。愚痴のひとつやふたつも出ようと言うものである。
「お仕事なんやから、しゃあないやん」
同じ同心の朝倉十郎太が肩を竦めながら答えるが、じゃんけんに勝利して入水を免れただけに、言ってる言葉に重みがない。
「オマエが言うな、オマエが」
やかましいとばかりにその手を振り払うが、なんだか負け犬の遠吠えのようで、更に怒りと不機嫌までもが混じってしまう。
「溝攫いならぬ屑攫いやで。ああ。ヤダ、ヤダ。嫌な仕事や」
吐き捨てるように愚痴りまくる。と、
「仏様に向かって、屑呼ばわりてか? 今の言葉は、聞き捨てならへんで!」
直属の上役である与力の生方新左衛門敏光が、「ちょっと、待ちや」と諫め口調で迅三郎の暴言に注意を与えた。
元々神経質な性質で、細かな言葉尻を気にするほうなのだが、死者に対する暴言がことさら気に障ったのだろう。もともと甲高いのに、声が裏返るほどの金切り声を張り上げて窘めたが、不機嫌の極みにいる迅三郎の愚痴は止まらない。
「屑を屑と言わへんのやったら、何と言います。塵? 埃? 汚物? 他になんぞ良い呼び方あったら、採用しまっせ」
更に暴言を加速する始末。これには生方の堪忍袋の緒も切れた。
「だ~か~ら~。死者を愚弄するんやない、つーてるねん!」
茹蛸のように顔を真っ赤に染めあげて怒鳴った生方だったが、続く言葉は出せなかった。目の前にぬっと現れた十郎太が「いや、いや」と左右に振った掌に遮られてしまったのである。
「そない言われても、生方様。こいつは、ホンマに屑でっせ」
言いながら半ば脱げかけた着物を「ほれ」と最後まではだけてみせる。すると衣服に隠れていた彫り物が、肩口から背中にかけて露わになった。
「別に。彫り物を施してるからって、やくざ者とは限らへんやろうが」
背中の刺青は、謂わば文身。火消しや鳶など、堅気の職でも施す者は珍しくもない。
「そりゃ、そうだす」
十郎太も上司の指摘に素直に頷くが、「ただ、ねぇ」と言って左の二の腕を掴むと、「こいつは、そんなんとちゃいまっせ」と明確に否定した。
「どこが違うねん? ちょっとしょぼいけど、これは飛翔する龍の刺ものやで。文身以外の何ものでもないんちゃうんか」
なおも生方は訝るが、十郎太は「とんでもない」と手と首を横に振る。
「右腕に比べて左のほうが彫り物が長いし、色がくすんどりますやろ」
言われてみれば、確かに左腕のほうが右腕よりも彫り代が長い。
「朝倉の言うとおり、左腕の色はくすんどるなぁ」
「でっしゃろ」
腕のおぼつかないような素人ならともかく、並みの美意識のある彫り師ならば、そんな失態をするはずがない。
「こいつは前科もんを消すための刺青だっせ。粋でもなんでもありゃせぇへん」
手ひどく斬って捨てると、掴んでいた左腕を乱暴に離した。
「て、ことは……」
両腕を組んで生方が首を傾げる。
「さっきも言いましたやろ。こいつは、半端もんかヤクザもん。どっちにせよ、ろくなヤツやおまへん」
迅三郎が断言した。
ヤクザ者と聞いて、生方が難渋な表情を浮かべる。死因がなんにせよ、関わると厄介ごとが後からついて回るからである。日々安穏を身上とする生方とすれば、貧乏くじを引いたどころか
「でや!」
ひときわ大きな声を張り上げると、生方が二人に尋ねる。
「この土左衛門の目星は、ついてるんやろうな?」
「目星?」
「こいつの、でっか?」
骸を指差して訊き返す二人に向かって、生方が「そうや」と肯定する。
「ヤクザ者なんやろう、相手は。はぐれもんやったら、まだええ。けど、組のもんやったら、これで済まへんやんか」
組に属しているヤクザ者ともなれば、他勢力による影響なども考えなければならない。一歩でも対応を間違えれば、街中での抗争に繋がりかねないだけに、生方が眉を顰めるのも分からなくはなかった。
とはいえ……
「迅。オマエ、面識あるんか?」
「野郎に面識? 男は、俺の管轄外。そういうのは十文字、オマエの仕事やろう」
「アホ抜かせ。俺やって、男は専門外や」
「んなこと言うたって、女にも縁がないやろうに?」
「じゃかまし! 年がら年中ずーっと女日照りの迅と、一緒にするな!」
お互いを指差し合い、相手の仕事だと言い張るばかり。どちらもこんな男など知らないと、突っぱねるだけだった。
それだけではない。
「いやいや、試せば、けっこう嵌るかも知らへんで。聞くところによると、かの謙信公や信長公なんかも、男色の気があったらしいし」
「だ~か~ら、俺は女専門。こんなごついオッサン、誰が相手にするねん!」
「未知の経験とか?」
「するか!」
「やったら、クセになるかも知らんで」
「や~か~ま~し~い」
と、言った具合。
最初のうちこそ、黙って聞いていた生方だったが、二人の言い合いは止まることを知らず、終いには、まるで関係ないことまで罵り合う始末。これには、さしもの生方も閉口した。
「もうええ!」
頭が痛くなったのか、顰めっ面のまま、掌で額を押さえると、二人の会話を制止する。
「もうええって。話は、まだ終わってませんで」
いきなりのことに、十郎太が怪訝な表情を見せる。だが、言うや否や、生方の眉間に縦皺が幾重も彫り込まれた。
「しつこいな。もうええ。って、言ってるやろ!」
これ以上ぐだぐだ二人の戯言に付き合ってなどいられない。生方は一語一語はっきり区切るように、噛んで含める。
「二人に面識がないのは、よ~っ分かった」
「それは、良いことで」
迅三郎が返事をよこすが、生方はそれには答えず、「でや」と話を続ける。
「面識がないんなら、調べなあかんやろ。揉め事が起きたら、一大事やよってな」
揉め事のところに殊更ぐんと力を込めて、二人に言う。
万事において事勿れを身上とする生方にとって、平穏無事に事件が済むのは、何よりも大事なのである。
「それと、死因や。見たところ、刃傷もないさかい、出入り沙汰とはちゃうと思うけど、その辺りも調べてもらわんと」
揉め事厄介ごと、身に掛かる火の粉を避けているのが見え見え。二人は示し合わせたようにソッポを向いた。
だが、「分かってるのか?」と念を押す生方の問いに、慌てて大きく首を縦に振った。
「そりゃ、もう、もちろん。生方様のご命令ですから」
声を合わせて、二人は答える。
「ちなみに、生方様は、どない見立ててはります?」
返す刀の十郎太の問いに、生方は自分の顔に指を差しながら「拙のか?」と目を白黒させる。
「そら、検死役やさかい」
当然といわんばかりの十郎太の返しに対して、生方は顎に手を添え一言「そやな」と言ったきり押し黙る。
一応、定石通り、匂いの来ない風上に立ち、周囲の状況を見回すと、改めて筵に横たわる死体に手を付けた。
「ま、なんつうのか。さっきも言った通り、仏さんの状態を見りゃ判るやろけど、出入りや抗争が死因でないことは、確かやな。腹も背中も刀傷はないし、失血の跡もない。何より、手足の爪に川泥が付着しとるのが、その証」
見れば確かに、死体の手足の爪先には灰色の泥がこびり付いていた。思い出した迅三郎が、自身の脚に付着した川泥と比べてみたところ、色も臭いも全く同じものだった。
「どや。全く同じやろ」
確認するように訊いてくる生方に、迅三郎は「そうでんな」と首を縦に振る。
「と、言うことは……」
十郎太が切り出し、結論を口にする。
「生方様は、コイツの死因を、溺死――やと、仰りたいんで?」
「そや」
生方が自信満々に頷く。
「川に落ちた原因は分からんけど。まぁ、酔って足を踏み外したか。とか、そんなとことちゃうかいな?」
得々と生方が答えると、迅三郎と十郎太は、お互いの顔を見合わせて、「おぉ」とわざとらしく驚きの声を上げた。
「いやいや。そない大したことないぞ」
声を揃えた二人の驚きに気を良くしたのか、生方は掌に顎を乗せ、まんざらでもなさげに胸を張る。
「長年のカンと経験に裏打ちされた推理や。オマエさん等もこれくらい、できるようにならんとな」
鼻高々に言ってのけ、二人の未熟さを論う。
「年の功には、届きませんよってに」
「それは、ほれ。研鑽や」
「研鑽、でっか?」
「突き止めれば、一つのことから色んなことが見えてくるんやで」
迅三郎と十郎太の言い回しに微妙な毒が入っているのだが、生方はそれとは気付かず、得々と推理の経緯を披露する。
「と、まぁ、そんな具合や。死因は、それで間違いないやろう。けど、問題はコイツの素性や。ヤクザもんやと、事と次第によっちゃ、なんぼ事故死でも、大事になることもあるからな」
「でんな」
そこは素直に頷く。
「でや」
再び大声を張り上げると、生方は「ええか」とばかりに、改めて二人の肩を叩いた。
「拙は仏の死因を調べ上げた。後はおまえ等が、コイツの身元。洗っといてくれや」
骸を指差して、生方が二人に命じる。
「後で揉め事が起きんように、かたがた頼むで」と付け加えるのも忘れなかった。
「本当に頼むで。後で、ちゃんと訊くんやから」
溺死と検使しただけに、事件性は薄いと判断したのだろう。呆気にとられる二人を尻目に、言うことだけ言うと、後片付けの面倒ごとを二人に押し付け、生方は足取り軽く現場を後にした。
迅三郎と十郎太は形式上は頭を下げたが、生方が路地を曲がった途端、やってられないとばかりに目を剥きながら舌を出した。