序
八百八橋と呼ばれた大坂の町は、川の町でもあった。
淀川と大和川という二つの大河を南北に戴き、その間を無数の川や堀が、それこそ網の目のように縦横無尽に張り巡らされている。いうまでもなく、これら幾十、幾百の河川が大坂の町に富と繁栄を運んできたのである。
難波の津を擁した瀬戸の海を西に臨み、東に遡れば帝の居する京の都へ、更には琵琶の湖を介して遠くは若狭へと繋がる。この絶妙な地の利が、大坂の町が天下の台所へとたらしめた所以である。
しかし……
時に川は、招かざるものをも運んでくる。
淀川の下流、土佐堀川と名を変えた直後の葭屋橋から袂を分けて南下する川の一つに、東横堀川と呼ばれる堀川がある。天正時代、太閤秀吉公によって、大坂城の外堀の一つとして開削された古堀で、慶長年間に掘られた道頓堀川を経て、再び土佐堀川が転じた木津川へと戻る水の回廊である。
その葭屋橋から下ること、凡そ半里余り、松屋町にほど近い安堂寺橋の下。浄国寺という寺を避けて掘られたがためにできた本町の曲がりが一段落し、渦を巻くような瀬の流れが落ち着いた穏やかな水面に、なにやら黒い影が浮いていた。
柳の枝が橋脚にへばりつくように引っかかっていた影の正体は、言うところの土左衛門。近くに建立された曲り淵地蔵尊のご利益も虚しく、うつ伏せたまま流れ着いた厳つい男の水死体であった。
そして、橋の上の欄干では何故か羽織袴姿の大の男が二人。額に汗を滴らせながらじゃんけんに興じていた。