きつねによめいり
明日はきっと雨が降る。夜空に滲んだ月を見てぼんやり考えた。幾重にも連なった鳥居のなかをおぼつかない足取りで進んでいく。頼りない月明かりの中でも朱色の道標はよく分かった。――この色は、夜更けの、暗闇なかでこそ映えるのだろう。木々がざわめく音が聞こえる、静かな夜に。
「あの記憶がゆめかうつつかなんて、どうでもいいの」
小さな呟きはすぐに空気にとけてしまった。
神社の鳥居は境を示しているのだと、おばあちゃんは昔教えてくれた。境を越えた先は私たちの住む世界とは違う、特別な世界なのだと。その世界にいってしまうと、こちらには戻ってこられなくなるのだと。そんな話を毎夜寝物語に聞いていたせいか、幼かった私は夢を見た。
とてもあたたかくて、おぼろげな、記憶。
鳥居が境を示す門なら、これだけ長く連なる朱色の先はきっと、とびきり異世界なのでしょう? そこは、ここじゃないどこかに行きたい私を受け入れてくれるのだろうか。思わず、手の中の鈴をきつく握りしめる。あのこが貸してくれた、大事なお守りだから。そう思うと胸の内があたたかくなって、不思議に大丈夫なように思われた。
月明かりが揺らめいて、消えた。分厚い雲が隠したみたいだ。それまでぼんやりと浮かんでいた鳥居も、朱色が淡く反射したような石段も、なにも見えなくなる。聞こえてくるのは木々のざわめきと、手の中で微かに鳴る鈴の音だけ。
それでも、長い石段を上がる足は止まらない。一度足を止めたら、いつものように途中で引き返してしまう気がした。
「……でも、心残りなんてないもの」
あの記憶は現実だったのではないかといまだに考えてしまうのは、信じてしまうのは、この鈴のせいだ。ちいさなわたしがたどりついた境の向こうで、男の子が貸してくれたお守り。迷い込んだ私が無事にこちらに帰るために。大事そうに手の中に握りしめていた鈴を、あのこは私の手をとって持たせてくれた。
暗闇の中を進みながら、考えるのは、あのこのことばかりだ。けれど、あのこの顔を思い出そうとしても、記憶に靄がかかっているようでどうしても思い出せない。ところどころ、例えば濡れたような黒髪だとか、白い指先だとか、かけらしかでてこない。ただ、とてもあたたかかったことだけが強く残っていた。
手の中の鈴には朱色のリボンがついている。ここの鳥居と同じ色だ。そのリボンの端をつまんで、鈴を目の前に掲げる。暗闇で姿は見えないけれど、りぃんと涼やかな音を響かせてくれる。他のどの鈴と比べても、一際澄んでいるように思えた。きっと、ずっと遠くまで響いて聞こえるだろう。境の向こうまで。
まだ心残りがあるうちは境の内に来てはいけないのだ、とあのこは言っていた。でももう、おばあちゃんもいなくなってしまった今、こちらに心残りなんてない。
貸してあげる、とあのこは言った。私はこの鈴をあのこに帰さなくちゃいけない。この鈴の音色はとっても澄んでいて綺麗だから、きっとあのこにとっても特別なものだと思うのだ。だから、返すためにこちらに帰ってこれなくても構わなかった。それに、
「もういちど、あのこに会えるならそれでいいわ」
今の私にあの記憶より大事なものなんてないのだから。
ふっ、と銀色の鈴が姿を見せる。明かりが戻ってきたらしい。鈴を握り込んで視線を前に向けた。息が止まる。朱色の奥から揺らめいてくる提灯の明かり。柄を持った白い手が見える。知らずに足を止めた。視線を手の先へと辿る。濡れたような黒髪の人影がすらりと伸びていた。距離が近づく。揺らめく明かりの中に涼しげな口元が浮かぶ。見えた、
「待ってたよ。……思っていたより、早かったね?」
あのこ、だ!
弾かれたように石段を駆け上がって、現れた彼の前に立つ。記憶の中よりもずっと上背は伸びていたけれど、白い指先や濡れたような黒髪は記憶の通りだ。勢いのままに彼の手をとり、持ってきた鈴を握らせる。
「私っ! 借りていた鈴をあなたに返さなきゃって、ずっと、ずっと!」
「知ってるよ、僕は見てたから。君は知らなかったと思うけどね」
昂揚してまくしたてる私に、彼は宥めるように穏やかに話しかけた。とても心地好い声色で、安心する。心臓は相変わらず高鳴っていたけれど、少し落ち着くことが出来た。
「大丈夫かな?」
「はい、ごめんなさい」
「いいんだ、僕もこうして君に逢えてうれしい」
にこりと彼は微笑む。間近で見てしまったせいで、せっかく落ち着き始めていた鼓動がまたざわめいた。冷たい指先に熱が宿る。再び彼と逢ってみると、急速に記憶の靄が晴れてくる。狐を思わせる切れ長の瞳に、幼いころの面影が残っていた。
どれほどの時間か、私は彼に見とれていた。彼は黙って微笑んでいた。そして不意に、私は腕を引かれてバランスを崩す。そのまま彼の胸に飛び込んでしまった。二人の間にわずかばかりあった距離が詰まる。状況が理解できない私は、いつの間にか後ろに回された彼の腕が気になった。彼はおそらく私がおいてけぼりになっていることを分かっている。私は文句を言おうと見上げたけれど、彼が再びにこりと笑いかけてきて黙るほかなかった。彼には人を従わせる力でもあるのかもしれない。彼はそっと、私の頬に手を添えた。薄い唇がゆっくりと開く。
「ねえ、鈴の音色がこちらまで聞こえて来たけれど。
――君は本当に心残りはないの?」
彼の瞳がまっすぐに私を見据える。なにもかも見透かされそうな視線だった。事実すべて知っているのかも知れない。それでも彼が問いかけるのなら、私は答えなくてはいけない。私に迷う必要なんて、ない。
「もう境の外に、帰れなくったて構わないんです」
淀みなく答える私に、彼は黙って腰に回した腕の拘束をきつくした。腕の中は記憶と同じあたたかさだった。彼は唇をそっと耳元に寄せる。木々のざわめきにかき消されてしまいそうなほど小さく囁かれた言葉に、私は頷いた。千本鳥居を夜空ににじむ月明かりが照らしていた。
翌日、境の外では雨が降ったらしい。天気雨のようだった。
一応、彼はここの神社のお稲荷様です。
神使の狐をねじ込めなかったのが残念…。