名前は地面を沈める
その世界では、名前は重さだった。
人は生まれると、何も持たずに歩けた。
呼ばれなければ、地面は柔らかく、足は沈まない。音もなく、跡も残らない。
「まだ軽いね」
助産係がそう言って、赤ん坊を床に下ろすと、床は何事もなかったように平らだった。
母親はうなずき、何も答えなかった。
答える必要がなかった。
名前はすぐには与えられない。
重くなるからだ。
通りでは、人々が互いを呼ばずに暮らしていた。
目で合図し、肩を叩き、立ち止まる。
声は使わない。
声は名前を運んでしまう。
「ねえ」
それでも、ときどき誰かが間違える。
市場の端で、魚を並べている人が、思わず声を出した。
「ねえ、ちょっと」
呼ばれた人は振り返らなかった。
代わりに、足元がわずかに沈んだ。
本人は気づかないふりをした。
周りも見なかったことにした。
名前を落とすのは、恥ではない。
拾うのが面倒なだけだ。
ある日、ひとりの人が通りの真ん中で止まっていた。
若くも老いてもいない。
男か女かも、誰にも分からなかった。
「どうしたの」
掃除係が、珍しく声を使った。
その瞬間、掃除係の足が、くるぶしまで沈んだ。
「あ」
掃除係は口を押さえた。
止まっていた人は、ゆっくりと掃除係を見た。
「今、呼びましたか」
声は低くも高くもなかった。
重さがなかった。
「いや、呼んでない」
掃除係は首を振った。
「そうですか」
止まっていた人は、足元を見下ろした。
地面は、その人の足首まで、確かに沈んでいる。
「前から、こうでしたか」
「分からない」
掃除係は答えた。
「分からないことは、よくあります」
その人はそう言って、少し笑った。笑った瞬間、沈みは深くならなかった。
通りの端で、子どもがその様子を見ていた。
「ねえ、あの人、重いの?」
子どもは母親に聞いた。
「見ちゃだめ」
母親は子どもの目を手で覆った。
覆った手のひらが、わずかに沈んだ。
「名前を、思い出そうとしてるんです」
止まっていた人が言った。
掃除係は黙っていた。
「思い出せない名前は、軽い。でも、忘れられた名前は、重い」
「あなたの名前は」
掃除係は言いかけて、やめた。
「言わないでください」
その人は静かに言った。
「もう、持ちきれないので」
風が吹いた。
誰かの声が、遠くでほどけたような音がした。
「聞こえましたか」
「何も」
掃除係は答えた。
「そうですか」
その人は、沈んだまま、動かなかった。
動けなかったのか、動かなかったのかは分からない。
夕方になり、人通りが減った。
地面は相変わらず柔らかいままだった。
掃除係は、ほうきを持ち直した。
「ここ、避けますね」
「ええ」
その人はうなずいた。
ほうきが通りをなぞるたび、どこかで名前が一つ、落ちていく気がした。
どの名前だったのか、誰のものだったのか、確かめる人はいなかった。
その人はまだ、そこにいる。足首まで沈んだまま。
呼ばれない限り、これ以上は沈まないはずだった。




