表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

嘘の世界1

名前は地面を沈める

作者: ハル
掲載日:2026/02/15

その世界では、名前は重さだった。


人は生まれると、何も持たずに歩けた。

呼ばれなければ、地面は柔らかく、足は沈まない。音もなく、跡も残らない。


「まだ軽いね」


助産係がそう言って、赤ん坊を床に下ろすと、床は何事もなかったように平らだった。

母親はうなずき、何も答えなかった。

答える必要がなかった。



名前はすぐには与えられない。

重くなるからだ。


通りでは、人々が互いを呼ばずに暮らしていた。

目で合図し、肩を叩き、立ち止まる。

声は使わない。

声は名前を運んでしまう。


「ねえ」

それでも、ときどき誰かが間違える。


市場の端で、魚を並べている人が、思わず声を出した。


「ねえ、ちょっと」

呼ばれた人は振り返らなかった。

代わりに、足元がわずかに沈んだ。



本人は気づかないふりをした。

周りも見なかったことにした。


名前を落とすのは、恥ではない。

拾うのが面倒なだけだ。


ある日、ひとりの人が通りの真ん中で止まっていた。

若くも老いてもいない。

男か女かも、誰にも分からなかった。


「どうしたの」

掃除係が、珍しく声を使った。

その瞬間、掃除係の足が、くるぶしまで沈んだ。


「あ」

掃除係は口を押さえた。



止まっていた人は、ゆっくりと掃除係を見た。


「今、呼びましたか」

声は低くも高くもなかった。

重さがなかった。


「いや、呼んでない」

掃除係は首を振った。


「そうですか」

止まっていた人は、足元を見下ろした。

地面は、その人の足首まで、確かに沈んでいる。


「前から、こうでしたか」


「分からない」

掃除係は答えた。


「分からないことは、よくあります」

その人はそう言って、少し笑った。笑った瞬間、沈みは深くならなかった。



通りの端で、子どもがその様子を見ていた。


「ねえ、あの人、重いの?」

子どもは母親に聞いた。


「見ちゃだめ」

母親は子どもの目を手で覆った。

覆った手のひらが、わずかに沈んだ。


「名前を、思い出そうとしてるんです」

止まっていた人が言った。


掃除係は黙っていた。


「思い出せない名前は、軽い。でも、忘れられた名前は、重い」



「あなたの名前は」

掃除係は言いかけて、やめた。


「言わないでください」

その人は静かに言った。

「もう、持ちきれないので」


風が吹いた。

誰かの声が、遠くでほどけたような音がした。


「聞こえましたか」

「何も」

掃除係は答えた。


「そうですか」

その人は、沈んだまま、動かなかった。


動けなかったのか、動かなかったのかは分からない。



夕方になり、人通りが減った。

地面は相変わらず柔らかいままだった。


掃除係は、ほうきを持ち直した。


「ここ、避けますね」

「ええ」

その人はうなずいた。


ほうきが通りをなぞるたび、どこかで名前が一つ、落ちていく気がした。

どの名前だったのか、誰のものだったのか、確かめる人はいなかった。


その人はまだ、そこにいる。足首まで沈んだまま。

呼ばれない限り、これ以上は沈まないはずだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ