摩耗
前から歩いてきて、もうすぐすれ違うはずの人が、ポケットからカメラを出し、写真を撮ろうと立ち止まるたびに、この人は私の過ぎ去った光景のどこに美しさを見いだして、写真を撮ろうと思ったのだろうか、と考えて振り返ることがある。
私には、曇り空の向こうで、遠くの摩天楼の光が薄く透けている、霧のかかった灰色の空に見えた。
晴れた日であれば、日に照らされて白く輝いていたであろう壁に伝う雨粒を見て、今年は参加者が少なくなってしまっただろうかと、少し心配した。しかし、そんなものはどうでもいい杞憂だと気づき自嘲した。特に会いたい人間などいないのだから。来ていると知っているあの人がいればよいだけだ。
トネシーは、例年通りの大学の同窓会会場に着いた。彼が遅れたわけではないが、もう既に賑わっている。
この場ではスモークガラスで隠すことのできない名声と功績がその場を一時沈黙させる。トネシーはもう見飽きたという様子で、立食する人々を気にも留めずに恒例の教授陣のために用意された机の席に歩いていく。トネシーのために用意されたわけではないのだが、あまり教授陣と話す人もおらず、大抵空いている。なにより、教授陣の参加者はほとんどいない。ダーハルム教授を除いては、例年他に一人か二人である。ちらと目をやると、彼しか座っていなかった。
他の参加している教授は資産家たちと話している。研究費用の出資目当てだろう。トネシーにも、数人話しかけてきたこともあったが、トネシーはまったく興味がない。彼らにとって利益がないと知れると、もう話しかけてくることはなくなった。近年は二人でよく話せている。
「今年もお会いできて光栄です。ダーハルム教授。」
やはり君かと言うように、少し微笑んで、ダーハルムは、どうぞという代わりに、左手を椅子の方へ向けた。トネシーは軽い会釈をして、席に着いた。
「よく来てくださいました。雨が降って少し肌寒い日ですのに。」
「君のところの車に乗せていただいた方が良かったかもしれないね。」
「喜んで配車いたします。来年からはそうさせていただきましょうか。」
ダーハルムは声を出して笑った。冗談で言ったのではないトネシーの顔が面白かったのだ。
「遠慮しよう。出勤まで頼りかねない。」
「気が変わりましたら、すぐにお知らせください。」
トネシーは微笑んでそういった。トネシーはダーハルムと話す話題をもう用意してきていたので、すぐに次の話をする準備をしていた。いつから始まったのかわからないお互いの一年で読んだ本の中で一番好きな傑作を紹介しあう習慣のために、トネシーは一か月に10冊は目を通している。
「私の今年の一番のお気に入りは、教授と同じ大学の、もしかしたらお会いになったことがあるかもしれませんが、ヤョーン教授のお書きになったティーナ神話ですね。」
「ヤョーン君のあれかね。それは彼が喜ぶだろう。彼にも伝えておこう。あのトネシー・ボーガスがお気に入っていたとね。」
「いえいえ、お伝えいただかなくても。しかし、あの発想は面白いですね。教授はお読みになりましたか?」
「ヤョーン君がくれたからね。読んだよ。あの華美な、詩的表現が頭の中で、彼の声で読み上げられたよ。」
「豪華なことですよ。うらやましいぐらいです。覚えていらっしゃれば、教授はどのお話が好きでしたか?兎を連れた男が好きでした。」
「あれかね。ずいぶんと、君の世間の印象と正反対なように思えるが。」
トネシーは痛いところを突かれてしまったと、苦虫を嚙み潰したような顔になった。
「近年の君の、なんと言おうか。活力を失われてゆく様子を見ると合点がいくともいえるがね。」
若き学生時代に見た、あの優しげであるがいたずら心を宿した笑みでダーハルムはトネシーに向けた。
「教授御得意の、犯罪学者の人間分析ですかな?脱税をした覚えはありませんよ。」
当然トネシーには思い当たることがないでもなかった。犯罪など犯したことはないが、もっと根幹の部分に疑問がわいていた。胸にあったはずの熱がもはや、昔ほど自らを奮い立たせないこと。熱中が消えて、夢から覚めていってしまう、むしろ、なにもなくなっている。そんな感覚があった。
夢中で生きる幸福の中で私は安心していた。 大人達の言う時間がすぐに過ぎてしまうという現象が理解できなかった。思い出せる思い出はとても遠い過去のように思われるし、明日を待つまでもなく、今日はなすべきことと楽しみな余暇で満ちていた。
初めは子供時代ほどに、この娯楽を面白いとは思わないなといった程度だった。それが成長であると感じていた。そして気づけば、目覚めて何かを始めようと思ったときにはもう遅い程度の時間しか休日の時間がないな、と感じた。そのあたりで私は気づき始めた。
これを言っていたのか、と思った。やっと金曜日が来たと感じていたはずなのに、今やもう金曜日になってしまったという感覚。そして、曜日が境目をなくして、無になっていく、この緩やかで静かな時間の喪失。この連続の中で薄くなっていく自分の人生が大人になるという現象なのか。
「トネシー君。私は今年のお気に入りをまだ決めかねていてね。珍しい子が参加しているから、その子に決めてもらおうかと思っているのだ。私としてはどちらでもいいからね。決断は運命の女神に決めてもらおうと思っていたところなんだよ。」
そう言って、ダーハルムは右手を上にあげてどこかに向かって手を振った。その先に目をやると、とても楽しそうに談笑する四人組の女性の姿があった。五秒ほど 手を振ったのちにようやくその中の一人がこちらに気づいて、ワイン片手に口を隠して笑っている女性の肩をたたいた。その人は友人たちに軽く挨拶をして、こちらに駆け寄ってきた。
「教授。失礼しました。久しぶりに友人たちに会ったものですから。思い出話がとっても盛り上がってしまいました。」
教授に軽く一礼をしたアマロ・コーカスは、ワインを机上に置いて、ちらと目線をトネシーにやる。
「こちらの方が、先ほどご挨拶申し上げた時にお話しされていた?」
「そうだよ。トネシー・ボーガス君だよ。君と同学年だったと記憶しているが、どうだろう。」
トネシーの顔を見ながらアマロは、はて、どこかで見ただろうかと黙りこくってしまった。唇を右に左に動かして、はっとして、目が大きくなった。
「トネシー!教授の犯罪学の授業で同じだった。あのトネシー。なんてこと。懐かしいわ。元気だったの。顔が学生の時より痩せているわ。元気がないみたい。それじゃあ駄目よ。もっとご飯を食べなくては駄目よ。結局大事なのは、バランスのいい食事なのよ。」
トネシーは驚いた。私のことをまだ何物でもなかったときの自分として接する人間に久しく出会っていなかった。私の人格のみを評価していている風を装って、私の富や利益をかすめ取ろうとした人間はいたが、出会い頭に説教してくる人間などいなかった。覚えてもらおうと突拍子もないことをしてくる人間もいたが、心配から出た言葉で、助言をされることなどなかった。
トネシーはアマロ・コーカスのことを覚えていた。同じ研究班で発表をした仲だ。彼は彼女の理想論的な部分が少し気に入らなかった。
ダーハルム教授の理論がまだ完全に評価されていない頃、だからであったからかもしれないが、教授の提唱する理論では、犯罪者は自発的にもしくは意図的に犯罪を行うのではなく支援の不足によって引き起こされている。つまり、社会の物質的支援によって、初犯を行う前に犯罪を撲滅できる。そして、副次的に再犯も防止できるということだった。
端的に言うならば、トネシーは人間を信じていなかった。教授の言う通りかもしれないが、やはりそれはすべての犯罪者に適応できるわけではなく、犯罪など出来損ないやどうしようもない低能どもが起こしていることだと。近年、人間を軽蔑しきっている彼の認識は強まってゆくばかりであった。
そんな彼の目に、アマロの教授の理論を信じる様子が、意識下に現れない程度に滑稽に、かつ同時に奇妙に見えていた。
「そうだね。僕も気を付けないといけないな。」
トネシーは母と話しているように安心していた。
「では教授、今年の教授のお気に入りは、彼女に決めてもらうということでしょうか。」
「そうだ。適任かと思ってね。トネシー君も何となく理由がわかっただろう。」
トネシーは、ふふっ、と声に出して頷いた。
「アマロ君にはね、今年の私の一番お気に入りの本を決めてもらおうと思っていてね。二つで迷っているんだよ。」
アマロは困惑していた。不思議な状況に巻き込まれてしまった彼女の心情がそのまま顔に出ていた。
「私がその、今年の一番面白かった本を決めるのですか?あまりよくわかりませんが、教授がおっしゃるのなら、もちろんお受けいたしますが、それは、次お会いするときまでに読んでくればいいのでしょうか?」
「すまないね。説明が足りなかったよ。今から私が二つの本の紹介をする。要約を言うから、君が面白そうだと思ったものを、選んでくれればいい。私の中では、どちらでもいいほどに、同点なんだよ。」
「その程度でしたら、はい。お役に立てると思います。」
アマロは微笑んで、そう答えた。
「アマロ君も座りたまえ。ずっと立ちっぱなしではないか。」
三人は教授用の席に座って、一つのテーブルを囲み始めた。
「一つ目の本はトネシー君と同じでね。私もティーナ神話なのだよ。ヤョーン君の詩が好きでね。アマロ君にも紹介しよう。彼らしい人物も透けて見えるよ。」
ダーハルムは鞄に入れている電子書籍用のデバイスを取り出して、老眼鏡をかけた。指先を数度動かして、ティーナ神話の引用をまとめたメモを開く。
「これだこれだ。青いが、私は好きでね。今の私にしか出せない言葉があって、それが人生の季節の旬のものであって、二度と出会えない、同じように感じることができない言葉がある。読み上げると、なんだか照れ臭いね。」
「教授がそんなかわいいことおっしゃるなんて。面白いですわ。」
ダーハルムは照れ笑いを。アマロは子供を見るような笑みで教授を見つめている。
「これなど、トネシー君は好きなのではないかな。人々は生きてゆくために何を支払おうとするだろうか。働く親は子供のために時間を支払う。では、欠乏を買うために何を支払えばいいのか。欲しいものが知らない硬貨で売られている。どのようにして不足を買うことが出来るのでしょう?この比喩と答えを出さない姿勢がヤョーン君らしいね。」
「私もその部分が好きです。確か、映画館の青年、の一節でしたかな。」
「おぉ、素晴らしいね。よくそんなに覚えているものだ。」
「すごいわトネシー。大学でも優秀だったものね。一緒に発表したでしょう。あの時もね、彼がほとんどデータや論文などの引用はやってくれたんですよ。私もいくつかデータなど持ってきたのだけれど、彼の調べてきたものの方が本文によく合うの。本当は駄目なんですけれど、一人二つは論文を読んでその内容を発表に入れないといけないのに、トネシーが班のメンバー分の引用論文をほとんどやってしまったのよ。今だからできる話ですよ。教授。」
「聞かなかったことにしておこうかな。」
「でも、私の調べてきた論文は一つトネシーに採用されましたわ。ねぇ、トネシー。」
「そうだっただろうか。全く覚えていないな。」
笑いあっているダーハルムとアマロと横目に、トネシーは考えていた。彼は、はっきりと当時のことを思い出せないが、このような研究内容ではでは自分の評価に響くと思い、半ば強引に押し切ったに違いないと思っていた。
「これで最後にしよう。私も恥ずかしくなってきた。戦争の時代には可能性を作り出すもしくは探し出す時代であった。しかし、自由である現代では、むしろ無限にある可能性を潰してゆくことで、自らの行き先を決めてゆかねばならない。その過程の中で諦めを自我の中に過剰に取り込んでいってしまった。こんな感じだよ。アマロ君どうかな。」
「まだ何とも言えませんわ。もう一つ紹介してくださいますか?」
ダーハルムは老眼鏡を外して、デバイスを鞄にしまった。
「もう一つの方は、あまりこういう表現をしないのでね。引用などはないが、好きなんだよ。あの実直な文体が良くてね。彼らしいと言えば彼らしい。タロ君の、あぁ、さすがトネシー君だね。目を通したのかな。「リオッチョ樹林帯におけるソラクラゲの意義」という題でね。」
「いえ、まだ読んではいないのですが、評価を方々で聞きまして、いかがですか?どんな内容なのでしょうか。」
「これが難しくてね。まず、ソラクラゲというクラゲがいてね。空中にぷかぷかと浮いているやつだよ。田舎の方で、君たちも見たことあるだろう。私の母方の実家の近くにいてね。蚊柱の近くで飛んでいるのを私もよく見たものだが、それが、リオッチョ樹林帯というところにもいるらしい。だがそこには、ソラクラゲの食べるものもなく、ソラクラゲを捕食する者もいない。つまり、存在しているだけのソラクラゲで、周囲の一切と無関係なんだよ。そのクラゲに目を付けたのが、タロ・クゥだ。彼も直接本をくれてね。彼は寡黙だからね。私が読んでいるときに、彼の声で読み上げられなかった。だが、タロ君がくれた数日後にヤョーン君が私のところへ来てね、ぜひと言って同じ本をくれたんだよ。大絶賛だったよ。話がそれたね。タロ君はそのクラゲは一体なぜそこにいて、何を食べているのか、という全てを調べ上げたんだ。そしてね、トネシー君。もし読むつもりなら黙っていた方がよいだろうか。どうだろう。私が調査結果を言っても構わないかな。」
「もちろん読ませていただこうと思います。しかし、教えていただきたいです。教授の解釈も知りたいですから。」
「嬉しいことを言ってくれる。結論から言うとだ。その樹林帯にいるソラクラゲは本当に存在しているだけだったんだ。何も食べず、そして興味深いことに何にも食べられない。食物連鎖の外どころか、生命の理の外にもいるのだ。タロ君が一匹捕獲して、ここが少し批判を受けている個所なのだが、彼も好奇心旺盛でね。少し行き過ぎるところがある。ナイフで二つに裂いたらしい。すると、少し時間をおくと、まるで何事もなかったかのように元に戻ってまた、ふらふらとし始めるんだよ。私も小さな頃触ったことがあるが、とても柔らかくてね、弟が本当に小さい頃に握りつぶしてしまったんだよ。気持ち悪かったね。特に液体とかが出るわけではないのだが、ソラクラゲは死ぬ。だが、リオッチョ樹林帯のソラクラゲは死なない。これはすさまじい発見だよ。」
「とても不思議なことね。そんなことがありますの?私も見てみたいわ。」
「そんな内容でしたか。」
ダーハルムはまた、引用を読んだ時のように恥ずかしさを顔に出しながら言った。
「ここからが私の解釈だが、私も重々承知しているのだが、これが難しい。つまり、結果に合わせて世界の方を考えなくてはならない、ということだ。決して、その理想に合わせて世界の方を解釈してはならない。私の実験や検証でもいくつかは、私の考えと違うものがいくつもある。それを否定してみようとしたこともある。しかし、やはりそれは動かないものを動かそうとする行為だった。」
トネシーは感心して、ダーハルムの話に聞き入っていた。
アマロは教授の授業を受けていた時と全く同じように新しい世界を知った喜びに満ちた顔で話に熱中していた。
「タロ君の本に関してはそれぐらいだよ。実験や結果にたどり着くまでの過程もとても興味深いよ。どうだろう。アマロ君。どちらが好きだったかな。」
アマロは首をかしげて、右手を顎につけて、真剣に悩み始めた。
トネシーが教授にデバイスを借りて、私はこの文章など好きでした。と話している。それを見て、アマロが思いついたように、トネシーに話しかけた。
「トネシーは一つ目の本の中で、どんな文章が好きだったの?」
トネシーは微笑んで、待っていましたと言わんばかりの顔をした。
「私はね。これが好きだったよ。サヨナラがゆっくりと来てしまったら、私の心は耐えられないだろう。病床で弱りゆく姿を見続けるよりは、もはや、言葉を交わせなくなってしまった姿で会う方が幸福のような気もする。いずれにせよ、喪失の苦痛は続くのであるし、もっとこうすればという後悔が、私の中から消えゆくはずもないのだから。 さよならは突然訪れる方が良い。私はそう考えている。これだよ。感動的だと思わないかい?」
アマロはひらめいたように目を真ん丸にして、勢いよく話出した。
「トネシーが読んでみて、はっきりしましたわ。この作者の人、教授のお知り合いですから、失礼かもしれませんけれども、真面目な感じの人じゃない気がするわ。そんな言葉遊びする人は女遊びをしている人でしてよ。女性の目の前では、女神だのなんだの言って、結局都合が悪くなったら逃げちゃう人のような印象を受けます。」
ダーハルムは腹を抱えて笑い出した。涙が出るほど笑っている。その隣では、トネシーがしょんぼりとして、恥をさらして傷ついた思春期の少年のようなやるせなさを感じていた。ダーハルムは笑い終わると、こう答えた。
「そう言われると、ヤョーン君でなくて、タロ君はアマロ君の夫に似ているかもしれない。タロ君の言外の意に取られることを気にして、断りを入れておくよりも、その言葉の正確性を高めることで良い文章と文体を作っている感じが、なんだが似ている気がするよ。アマロ君も読んでみるといい。君の夫のくれるメールに似ている。」
「教授はコーカスの夫とも見識があるのですか?」
「彼は警察の重役だからね。犯罪学者としても、友人としてもよく話をするよ。正義に燃えた非常に熱い男だよ。」
トネシーが教授の交友関係に驚く傍らで、アマロは頬を両手で押さえて、まぁ、と言いながら嬉しそうにしている。
「ということは、アマロ君の答えは「リオッチョ樹林帯におけるソラクラゲの意義」かね?」
「はい。果然として興味がわきましたわ。帰りに書店に寄ってさっそく購入しようと思います。夫にも読んでもらいましょう。夫は何というかしら。楽しみだわ。」
談笑している最中にトネシーには遠くの方で、明らかにアマロを呼んでいる数人の女性たちが見えた。トネシーはアマロの肩を優しく叩いて、彼女たちが呼んでいることを伝えた。
「あぁ、そんな。もっとお話ししていたいのに。そうだわ。男性に聞いてもらいたいことがありますの。息子のことでしてよ。私たちと同じ学校に現在も通っているのですけれど、お友達を家に連れてこないのよ。毎回話に出る二人よ。男の子と女の子。名前は忘れてしまいましたわ。写真は見たことあるの。かわいい女の子と男の子はね、髪が長いの。あごに着くぐらいはあるわ。夫に似て頑固者の息子とどうしてそんな子が仲良くしてくれるのかしら。家に招待しなさいと言っているのに絶対連れてこないのよ。私、友達っていうのも嘘なんじゃないかと思ってるの。教授のご意見伺いたいわ。トネシーも頑固者でしょう。ちょっと息子と似てるわ。どう思うのか聞かせて頂戴。必ず戻って参りますから、お二人とも帰らないでね。約束ですよ。」
一息で言い切ったかと思われるほどの嵐のような勢いで、中腰になりながら話しきったアマロは手を振って彼女を呼んでいた友人のもとに行ってしまった。
「どうだね。トネシー君。いい人間だと思わないかね。しかし不思議だね。彼女と君はこの会で会っていないとは。確かに思い返すと、私も彼女とこの会では話したのは初めてかもしれない。彼女の夫と会うときに、よく同席しているからね。」
「そうですか。いや、驚きました。自分の名が知られきっているという、私の傲慢を打ち砕かれたような気持ちです。」
「爽快だろう。」
教授と二つか三つほどの話題を終えた頃に、アマロは帰ってきた。彼女の相談を聞いて、二人が意見を述べる。それに対して、母としての心配やどこまで子供を信頼するべきか、もしくはもう子離れの時期か、とさらに疑問付け加えるアマロの話を真剣に、時に笑いを交えて話しているうちにお開きの時間が来てしまった。
トネシーは他の友人たちと二次会に行くアマロを先に見送った。トネシーはダーハルムを会場ホテルの玄関まで送りますと言い、ダーハルムは了承した。玄関先に明らかな高級車が止まっていた。トネシーが教授のために手配していたものだった。ダーハルムは一度断ったが、トネシーが全く引かずに車の方へダーハルムを強引に追いやるので、仕方なくダーハルムは車に乗った。
トネシーは久々に歩こうと思った。手配していた車から傘をもらって、ゆっくり歩き始めた。後ろに数人の護衛が何もついてきているのに、気づかないふりをしながら。
魂で納得していない解答を確信できなかった。確信していない答えを、疑念を持ったまま進むことが、トネシーを不安にさせたまま、雨の降る町に帰らせた。しかし、久しくなかった興奮の中で、彼は自身と対話していた。先程のような、旧友に会った喜びも感じていた。
私は熱中の中で安心していた。与えられている課題をこなしていくような日々で、自由が少なかったと表現される学生時代のような時間であったが、私はその「燃え盛る時間」を愛していた。もはや今となっては一言で言い表せるような目的や目標に向かっているだけの日々だった。そして、いつからかはわからない。しかし、明らかに、夢のようであった私の人生が、熱が覚めて行ってしまっているのを感じ始めていた。一日の感覚、一月の思い出、若い学生たちを見て明らかにこの子たちとは違う人間になってしまったと思うこと、もう戻らない過去に後悔とも憧憬ともつかない感情でおもいをめぐらすこと。この連続の中で薄くなっていく自分の人生を大人になると呼んでいるのか。
幸福で満ち満ちているべき世界が、不安と退屈で埋め尽くされ、容赦なく私の口の中から入りこみ、胃の中までを満たしている。鬱屈としている。自らに生きがいを与えられるほどに、私は独立していないということに、私は気づいていなかった。されども生活は続いていく。意義をなくしてしまっても、もしくは、元から意義などなかったということに気づいただけだとしても、その瞬間に心臓が止まるわけではない。
私は「自らで創り出した方向」に、向かっては走り続けなければならなかった。どこへも向かわずに生きられるほどの鈍感でもなかった不運である。誰かに必要とされるわけでもなく、大義を抱えているわけでもないその作業に、心の底から納得はしていなかった。意義と効果のある自分のための努力よりも、信頼する者から与えられる理由のない理不尽の方を愛してしまっていた。
そして、私は、昔軽蔑していた、あの嘲笑の笑みを浮かべた才の足りぬ連中そのものになってしまった。こうなる前に、一度友人と時話しているときに、近いうちに、お前もそうなると言われたときは、ドキッとして、必死に笑顔を取り繕って冗談めかして反論した。
今になっては、こちら側からの意見として、言えることがある。それは、何によってこうなってしまったのかということである。つまり、自分を信じきれないその弱さにまけていってしまったのだと。 教授のように表現するなら、信念に揺らぎがあったのだ。
体感として、その揺らぎは、「自分が納得していないことに気づいてしまっている」小さな不幸が、切り捨てられないまま私の中に積もり積もってこうなってしまったではないかと思う。
物憂げで陰気な内容を話し続ける私に対しても、教授は丁寧に接してくれた。こんな風に感情を繕わずに表に出して話せるのも、教授の人徳であろうし、私自身が教授に甘えているのだろう。
教授に対して私が、先ほどのようなことを言うと、我々は選んだ不安で苦しめる幸福を喜ぶべきだ。とおっしゃった。それは、この世界には感じる必要のない痛みに苦しんでいる貧しい子供たちがいる。という意でもあったが、この現状と悲しみは少なくともほとんどを自分自身で選ぶことができたのだから、少しは喜んだらどうかな、という軽い提案であった。 その後に、
「だからといって、幸福と不安が並んでいて、不安を選ぶものがいるものかね。」
と笑っておられた。
コーカスに出会えたことも嬉しかった。彼女のことを思い出すこともなかったが、彼女の天衣無縫な人間性にとても癒された。計算じみていない会話など、いつぶりであろうか。もうはっきりと思い出せそうもない。ものはすべからく腐ってゆく。思い出も思い出さなければ朽ちてゆく。そう思わされた。
トネシーは傘を少し上に向けて、目線を道から雨雲へと移動させた。
「やるしかない。やるしかないか。」
トネシーは声に出した。自らの口から出たあまりの浅薄な言葉に、口角を上げた。気だるい体を動かして、退屈から抜け出して苦痛へと立ち向かおうと。揺れる信念を前に倒して歩み始めた。誠実な姿であった。




