湖と騎士
夜の森に、ぱちんと枝がはじける音がした。篝火にくべられた薪の中で水分を含んだ小枝が割れた音だ。虫の羽音は止むことなく耳にまとわりつき、夜風は粘性にも似た湿気を帯びて肌に貼りついている。野営は徐々に戦場に近づいていることを感じさせるようになっていた。兵士たちの顔からは余裕が薄れ、笑い声の頻度も減っている。そこここに漂う焦燥が、野営地の空気をちりちりと炙っていた。
そんな中、輪の外に立っている騎士がいる。サティアだ。銀の鎧は磨かれてなお燻み、兜の奥の目は、油が切れた灯火のように静かだった。
「おい、《渇き》。今日の報酬だとさ」
彼女の元へやってきた数人の騎士のうち、ひとりが声を上げる。遠間から投げた一本のパンがサティアの足元へ転がった。硬く、乾いているが、野営の中では上等な部類のものだ——森の土の上に転がっていることを除けば、の話だが。
「いただこう」
サティアはそれを拾い上げる。僅かに付着した泥を払い、祈るように両手で眼前へ捧げ持つ。
「我は贖罪を乞う」
そして一言、神への赦しを乞う。十秒ほどの間そうしているがパンは砂になることもなく、実在を保ち続けている。欲を抑えて神へと食物を捧げる、ナリア式の正しく真摯なる神への祈りであった。
そこに笑いが起きる。
「ほら見ろ!砂にならねえ。これで今晩の分はオレのもんだな」
「ったく、どうなってやがんだ。呪いが薄まってきたか?」
「いやいや、あいつが腹が減ってるかどうかの問題じゃねえか?食いたいと思った瞬間がアウトなんだろ、あの伝承じゃ」
「じゃあさ、次は肉で賭けようぜ。どこまでなら砂にならずに持っていられるか——指先?口か?それとも喉?」
パンを放り投げた騎士の一団だ。サティアの動向で賭けをしているらしい。数日前までは確かにここまでの直接的な行為はなかった。西方へと向かう旅の中、騎士団の規律は少しずつ緩んでいる。
悪意というよりは、何かに攻撃をしないとやっていられないという緊張の発露なのだろう。何せこの先悪魔と戦うのだ。一体この中の何人が生きて帰れるかも分かったものではない。
そんな環境で己の鬱憤をぶつけられる相手を見つけたら、ヒトというものはそうせざるを得ないのかもしれない。サティアも他人事のようにそう思う。騎士団の中で唯一の異質、ナリアの名を冠する呪われの身はそうした理不尽にも慣れきっている。
彼女はその嘲りに黙して応えなかった。黙ってパンを拾い、腰に付けた革袋に突っ込む。食べられもしないそのパンは規則に則った「報酬」だった。
野営の間、歩哨に立つこと——それがナリアの者に課せられた規則である以上、それに報いるものがなくては騎士団としては外聞が悪い。これは差別ではなく物を食べないナリアの民の適所への配属であると、そう説明するための手当である。
パンは砂にならなかった。それはすなわち、彼女が今それを口に入れようとしていないということだった。ナリアの呪いは「欲する」ことで発動する。だから彼女は、何も望まない。口にしない。手に入れても、望まなければ、呪いは発動しない。
彼女の祈りがいかに滑稽か、彼女自身が一番よく知っている。いつかその日が来ると信じて欲を殺し、赦しを祈る。だが、祈りを捧げるように両手でパンを包んで立つサティアのことを誰も信じてはいないのだ——彼女自身も含めて。
そして、そのやり取りを木陰から見ていた若い傭兵がひとりいた。肩に泥をかぶり、鎧は継ぎ接ぎだらけ。だがその目は、炎に照らされ、まっすぐにサティアを見ている。
ガリアンだ。
彼は苛立っていた。
「なんで言い返さねえんだよ」
——知ったのか。呪いを、ナリアを、我が身の渇きを。
「言い返す?なぜだ」
「——アンタは何も悪いことしてねえだろ!」
そのときサティアの胸中に去来したものが何だったのか、そのときの彼女には分からなかった。分からないままに生まれたその感情をサティアは怒りと定義した。
「やかましい男だ。ナリアの民についてまだ理解してないのか?」
「アンタの口から聞いたわけじゃないから本当かは分からないけど……メシや飲み物が砂になっちまうって……」
「そうだ。だから食事の時間を私が取る必要はない」
「だったらありゃなんだ!パンを渡されたろ!!」
「規則だ」
「ッ!!食わないのにあんな……そんな馬鹿な規則があるかッ!!!」
「——やかましいと言っている!貴様はさっさと天幕に戻れ」
言い終わるや否や、サティアは背を向け去っていく。ガリアンが背から何度も声をかけても、それきり返事を寄越すことはなかった。
***
夜が深まるにつれ、森はひときわ重たく静まり返っていた。風は吹かず、虫すら羽音をひそめ、濡れた葉が冷気を帯びる。天幕の布には朝露の先触れのようにじっとりと水滴が滲んでいる。湿った土の匂いが足元から這い上がり、騎士鎧の鉄と馬具の革の擦れる音が、張りつめた空気の中でやけに耳に障った。
ガリアンは眠れず、夜の散策を行っていた。旅は問題なく進み、滅ぼされた村まであと三日ほどの距離まで来ているというのに、未だ西方に現れたという悪魔は姿を見せない。
募兵された人間は慣れない行軍に苛立っている。旅糧も残り少ないのか、配給の量は潤沢と言い難い。ガリアンもまた、くうくうと鳴る腹を抱えながら天幕のあたりをうろうろと歩いていた。
(ずっとこんな状態だってのか?それで呪われたのは自分たちのせいだから慎ましく生きていけってのかよ)
一人思うのはサティアのことである。ほとんど放置されて育ったガリアンにとって飢えとは強烈なまでの恐怖体験だ。明日食うものに困り動けなくなるあの恐怖は、どんな悪魔よりも強い。
そんなものを一生背負い生きていけというのか。彼女が一体何の罪咎を犯したというのか。ありとあらゆる世の理不尽に納得がいかぬガリアンのような傲岸な人間からすれば全くもってお門違いも甚だしい所業である。
ふ、と目が止まる。その視線の先、女が一人湖のほとりに立っていた。湿地の先、湖の岸。美しい蓮の花が静かに月光を受けて輝くその水際を彼女はゆっくりと歩いている。
すらりと伸びた手足、褐色の肌、顔に彫られた白い紋様。俯いて歩くその顔にはらりと髪がかかり、銀糸のようなそれが眩く光を反射している。
(誰だ?——まさかあの騎士か?)
女はただ湖面を見つめている。指先は震え、白い月の光を浴びて透けるようだった。彼女の背中は震えている。
「——許されるだろうか」
その呟きはガリアンでもなければ聞こえぬほどに小さくか細い。彼女自身にもなぜ問いかけるのか、その答えは分からず戸惑っているようだった。ただ水に触れたい、触れてはならないとその二つの相反する想いが彼女の内でせめぎ合っているように見える。
一瞬の迷いのあと、彼女はその手をゆっくりと水に沈めた。水を掬い上げようとしたのだろう。両手を椀のように器を作る。
持ち上げ、手のひらの間で揺れるその水を口に運ぶ——びきり、という音を立てて水は凝固した。赤茶けた砂に変わったのだ。
「——ああ、ああ…………」
途方に暮れたような顔だった。絶望に慣れ、さりとて希望を捨てることも出来ず、誰かがその頭を撫でてくれるのを待つ童のような顔だった。
「————おいッ」
たまらずガリアンが飛び出し、声をかけようとしたそのときである。
「騎士サティア!!何をしている!!」
強い叱責の意が込められた声だった。戦場で鳴らした、よく通る声が森を切り裂いた。反射的にサティアはその場で直立し、傾聴の姿勢を取る。
鎧を鳴らしながら現れたのは騎士団の副団長と、数人の騎士だった。長身痩躯、飾り気のない重厚な黒鎧を纏ったその男は、冷徹な視線をサティアに向けていた。
「規則違反だ、《渇き》。砂エルフの貴様が湖に触れることは禁止されているはずだ」
その声は凍えるような冷淡さと隔意を帯びていた。サティアは俯いたまま唇を噛み、身体は小刻みに震えている。
「……申し訳ありません」
彼女のその声は弱々しく、普段の張り詰めたような気の強さとはかけ離れたものだった。副団長の目にネズミをいたぶる蛇のような狡猾な色が浮かぶ。
「穢らわしい《渇き》め——我らの飲み水を砂に変えようとはな」
「ッ!そのような、ことは——」
「していない、と?ならば何故貴様の周りには砂が散乱している!なぜ飲めもしないのに湖に触れた!」
「それは…………」
「大方予想は付く。我らの末席に加わる栄誉も理解できず、その扱いに不満を持った貴様は悪魔と通じて我々騎士団の補給を断つために湖を砂に変えようとしたのだろう?」
「まさか!天地神明に誓ってそのような——」
「黙れ!神に罰せられた分際で神に何を誓うと言うのだ!!」
明らかな言いがかり。釈明など初めから聞くつもりもないこの男からすれば、サティアはずっと目障りだったのだろう。殊更に問題を大きくして騒ぎ立てること自体が目的であるようだった。
「処分を下す。明日以降、単独で先行偵察に出よ。お前の『呪い』なら、悪魔とて砂に変えられるだろう?」
団長代理の冷たい言葉がその場を満たし、騎士たちから薄い笑い声が漏れた。
「素晴らしい能力だ。是非その力を持って人類の未来のために役目を果たしたまえ」
体のいい死刑宣告である。悪魔は軍勢を率いている。そこに単身向かいなどすれば、まるで蟻を潰すのように簡単に捻り潰されるに違いない。
「…………はい」
それに加え、サティアの呪いは触れなければ発動しない。悪魔とヒトの能力は隔絶している。そう簡単に触れることが出来るのであれば、今ごろ悪魔などすべて駆逐出来ている。
「フン、呪われの身が我ら泉の聖騎士団を名乗るなど怖気が走る」
「悪魔を食うなど我らは到底出来んが、貴様らのような飢えた獣には丁度いいわ」
「精々人ならぬモノ同士、潰し合え」
周囲の騎士も侮蔑を隠そうともせずサティアを罵倒する。彼らはサティアを戦力や仲間だとは思ってはいなかったのだ。サティアからしても疎まれていることは分かっていたが、ある種憎しみにも近い感情をぶつけられ、蒼白な顔のままマトモな返事をすることも出来ない。
ああ、この世は残酷である。霧の合間で人は狭苦しくその身を寄せ合い、そしてその狭さに慣れてしまった。悪魔がひしめく外の世界よりも、この狭間で快適に過ごせればそれで良いと諦めてしまった人間が山ほどいる。
その小さな世界で己の場所を確保するために他者を虐げる者がいる。他の人と少し違うから、何をしてもいいと思っているヤツがいる。
仕方のないことだ。サティアは思う。罰せられた身で赦しを得ようとしたから、こんなことになったのだ。自分はきっと悪魔に八つ裂きにされるだろう。他の騎士よりも腕が立つ自覚はあるが、軍勢を相手に一人で勝てると思うほど馬鹿ではない。
「なあ、それ——俺にもやらせてくれよ」
若い男だった。少年と言っていい。歳の頃は十かそこらで、装備は継ぎ接ぎ。その身のこなしに見張るものはあるが、それも未だ途上。
「何だ、貴様」
「いや何、軍団を率いてる悪魔を殺せばきっと報奨金だって出るだろ?——そこの姉さんだけにチャンスをやるなんてズルいぜ」
言葉は軽薄。笑いながら話すその姿に真剣味は感じられない。ただ、その目が。透き通るように蒼い目の奥に魔力の種火が見える。抑えきれない怒りが、小さな火になって揺れている。
「……狂人の類か。呪われ人には似合いの道連れだ」
その火を副団長は狂気と取ったようだった。ガリアンにとってはどちらでもいい。自分が何を言っているのか、半ば理解せずに感情のままに動いているのだ。それが狂気だというのなら、確かにそうなのだろう。
「弔うための名を聞いておいてやる。名乗れ」
「ガリアン。ただのガリアンだ」
ここで余計なこと言えばタップにまで塁が及ぶだろう。ガリアンにとってそれは本意ではなかった。故に、ガリアンは村から出てきたただ一人の男として振る舞うことにした。
「おいおい、ガリアン。この間せっかく一党を組むのに名前決めたのに忘れたのか?」
背後から声がする。呆れたような声でガリアンを責めるのはタップ。いつからそこにいたのか、糸のように細い目を更に細めて笑っている。
「副団長さん、俺の名前も入れて欲しい。《厄介払い》のタップだ。ガリアンと組んでる」
「兄貴!!」
「全く、ガリアン。お前と組んでると退屈しないよ。山の猪でももうちょっと相手を選ぶぞ」
「……自殺志願者どもめ。もういい、命令は悪魔の軍勢への偵察と、その首魁の討伐だ」
「ああ、帰ってきたら報酬はきっともらう。きちんと憶えておいてくれ——あなたがさっき言っていた命令は団長には報告してあるから、握りつぶそうなんて考えるなよ」
「……ガキが」
タップの一言に顔色を変えた副団長は不快そうにひとつ鼻を鳴らすと、一団は身を翻し去っていく。
「さすが、兄貴は性格悪ィな」
「抜け目ない、と言ってくれ」
男ふたりが拳をぶつけ合う。にっこりと笑うガリアンとにやりと微笑むタップ。そのふたりを前に俯いたサティアがぶるぶると震えながら小さな声で呟く。
「——が……」
「あ?何だって?」
「誰がッ!一緒に来てくれなどと頼んだッッ!!!!」
静まり返った森を貫くような大声だった。その声は悲痛な引き攣り方をしていて、ガリアンにはそれが悲鳴のように聞こえた。
隣を見るとタップが眉を上げながら、ガリアンに向かって手のひらを差し出すように向けている。「どうぞ」とでも言いたげだ。
「うるせえな……確かに勝手にしゃしゃり出てきたのは悪かったよ」
「三人だぞ!相手は軍勢を率いた悪魔だ、勝てる訳がない!!」
「……俺がアンタの呪いについて知ったとき、どう感じたと思う?」
「不快だったのだろう?呪われた者の隣で飯を食っていたなど、怖気が走っただろう!」
「んなわけねえだろ。感動したんだよ」
「……は?」
「アンタはそれを言い訳にしなかった。努力で騎士団に入り、理不尽な扱いを受けても自分の仕事をやっている——俺には出来ない。アンタは立派だ」
「何を言っている……ナリアの民なのだから——」
「そう。そこだよ。次に段々とムカついてきた。なんでアンタがあんなことを言われなきゃならない?エルフだかナリアだか知らねえが——俺にはそれが我慢できねえ」
「なぜ、なぜ貴様がそんな…………」
「諦めなよ、オネーサン。こいつはそういう生き物なんだ。自分だろうが誰だろうが、理不尽な目に合ってると首を突っ込むんだよ、昔から。ま、そんなのに引っ付いてきた俺も同類か」
言いながらタップはガリアンの首の根を掴み、引き摺って連れていく。
「ほら、行くぜ。じゃあ騎士のオネーサン、明日の朝ここで集合ってことで」
「…………」
考え込むサティアの顔色が先ほどよりも良くなっていることを、彼女自身が気付く前にふたりは去っていった。おそらくそのことに気付いていたのは、この場でタップただ一人だけだった。




