囚われ
石の壁はひんやりと冷たい。黴と鉄錆の匂いが鼻孔を刺す。
薄暗い牢の奥、ひび割れた石壁を背に寝そべるのは一人の男だった。ガリアンである。
身に付けていた装備は剥がされ、襤褸布を纏うその肌には縄痕がうっすらと残る。顔には痣と滲んだ血が付いたままである。
誰が見ても哀れな虜囚だが、その眼だけはまだ鉄火場にいるかのように鋭く燃えていた。
他の仲間もそれぞれ別の牢に入れられたようだった。鉄棒で仕切っただけのこんな牢、破ることはいつでもできる。だが、日の高いうちから行動に起こせば露見する可能性は高くなる。
四日。ガリアンが牢番の交替の間隔やそれぞれの性格、大まかな仲間の場所を探り当てるまでにかかった時間である。迂闊に声を上げれば脱走を企てていることが露見する。慎重に確認し続けた結果であった。
(兄貴やラージルならもっと早く気づいてるんだろうけどな……ま、ルルノアよりは早いだろ)
「若様は鶏を育てたことありますかねェ」
暗がりに立つ男が牢の格子に近づいてくる。通路に蝋燭の灯りひとつないがその足取りに迷いはない。
ファティヒ。黒樽商会の若き首魁にして誰よりも信用できない種類の人間——商人だ。
「ねえな」
ガリアンは一瞥もせずに答えた。
「ありゃァいいですよ。育てりゃ卵を産む、老いぼれたら潰して肉になり、羽根を束ねりゃ売り物になる……」
ゆっくりと腰を下ろし、ファティヒは鉄格子の前で片膝を立てる。まるで気心の知れた旧友を訪ねたかのような親しげな所作。
「……」
ガリアンは言葉を返さない。代わりに、顔を上げる。暗闇の夜である。通路に灯りが差すことはなく、ファティヒの顔もほとんど影に溶けている。それでも声だけは妙に明るい。
「まさに捨てるところナシ。まるでわたしら商人のために産まれてきた生き物と言えますなァ」
「今の俺たちがそれだって言いてえのか?」
「ハハハ、まさかまさか!」
ガリアンは緩慢に身を起こしようやく顔を正面に向ける。睨むでもなく、凄むわけでもない。しかし確かにその目は透き通るような殺意を宿していた。
「——やっぱり領主の差し金か」
ガリアンはゆったりと寛ぐように壁をもたれて座り込む。それは獅子がゆっくりと腰を据えたかのような、脱力の対極にある行動だった。
「おォ怖い。若様たちがとっ捕まったのは確かに領主のせいですが、元の話をすりゃもっと上ですなァ」
「上だと?」
ガリアンはわずかに眉をひそめる。情報が足りていない以上、べらべら喋ってくれるのはありがたい。
(とにかく話が聞きたい)
「雲の上の上、我々草の根から生まれた庶民などは一生顔を見ることもない殿上人。もはや翳りしか太陽の紋章を掲げた我らが王国——その虚しき玉座におわすいと尊き君」
「……お前、急に何を言い出してる?」
そんな人間はこの国でただ一人しかいない。
「国王ですよォ。この国の王が、あなたたちが捕まることになった遠因だ」
「ああ?王なんぞお前の言う通り、会うどころか見たこともねえ」
「ええ、ええ!そうでしょうともォ。風が吹いて桶屋が儲かるような、巡り巡っての話です」
芝居ががった笑みを漏らす男に、ガリアンは舌打ちをひとつ放つと続きを促した。
「かのお方はクスリをキメていらっしゃる。今や一日の中で正気の時間の方が短いと聞きます。よほど人の世の落日が堪えたと見える」
「クスリだぁ?この国の全てを統べる人間が?」
「新聞屋なんぞが書けるワケのない醜聞でしょ?」
「——本気で言ってんのか?ご禁制のお触れを出したそもそも王だぞ!」
「このモラン=シラード領、霧で大地が多少汚染されて毒花なんかも咲いてはいますがねェ……元は毎夏、王族が避暑として使う風光明媚な御用地だって知ってました?」
「まあ、有名だな。それが?」
「国王は子飼いの貴族に領地を下賜する代わりに、この霧に汚された森で魔禍草を栽培させた。麻薬の産地なんですよ、それも国営のね。じゃなきゃなんであんな浅いところに植わってるんです?」
「……なんでわざわざ人に渡した土地でそんなことする」
「あげた土地で自分じゃァない人間がバカやってたら、人のせいにできるでしょ」
「……与太話も大概にしろ——」
「まァ話は最後まで聞いてくだせェよ。それで各地でこんな狼藉が頻発してるもんだから反発が抑えられないほどになりましてね——そんな混沌の最中、王はとうとう狂乱の果てに宰相の娘をバラバラにして犬に喰わせた」
ガリアンは絶句した。狂を発したと噂されるのも納得の暴挙である。宰相といえば国王の擁立にも関わっている大貴族だ。人格者と名高く、その名の付いた孤児院や救世院が王都にはいくつもある。ファティヒは顎髭を一撫ですると、まるで他人事のように続ける。
「王弟が宰相と組んで挙兵したのが一週間前。ラリってる国王なんかにまともな采配が取れるわけもない。すぐに大勢は決着し、後は政治の出番となった。玉座から絞首台へ。いやァ実に見事なもんでしたな。あんなにも速やかに進む裁判は初めて見ましたよ」
「それが本当なら血生臭い話だぜ」
ガリアンは吐き捨てる。貧民育ちにしてはガリアンはこのあたり潔癖だった。生来の正義感とも言えるだろうが、彼はこういった人の生き死にを娯楽のように扱う連中が好きではなかった。
「ここでモラン=シラード領主のベリオは岐路に立たされたワケです——王位簒奪を成した王弟を次の王と認めるか認めないか。認めなきゃァ王弟と争うことになり、認めるなら己のやっていた悪事が明るみに出るのは時間の問題だ」
ガリアンの目が細められる。
(いくら何でも話しすぎだ。ここで俺を始末するつもりか、もしくは——)
「ベリオは考えた。自分がされたことを誰かにやろう。『人のせいにできる相手』を探したってわけだ」
「ようやく話が飲み込めたぜ、それが俺らだって言いたいワケだ」
(どっちだ——。暗殺か、味方か——?)
口ではファティヒの話に納得したかのように振る舞いながら、頭を回し続ける。ガリアンとて、タップやラージルほどでなくとも多少は頭を使う。こんな状況で旗色の分からない人間の話を頭から信じるほど素直ではなかった。
「阿呆というのは読めないものでしてねェ——まさかあんな杜撰な冤罪でやり過ごせると考えるとは。方々調べてあなた方が哀れな生贄だと分かった頃にはもう依頼は受領された後……いやァあれは参りましたよ」
「市場での騒ぎはお前の仕込みか?」
「そのとォり!せめて道具でも情報でも、ここはひとつ支援でも、と思ったんですが気が変わりましてね。締め殺されると助けに来てみればその鶏が面白いこと言うもんですから——」
ぶらぶら、とファティヒが摘むようにして持った牢の鍵束が、暗闇の中で擦れる音を立てた。
「つまり、てめえ——助けに来たのか?王弟派の子飼いってとこか?」
頬がひくつく。何という紛らわしい男だろう。どう見ても敵方の出方である。
「正ェ解。言ったはずですよ、『あなたの求めるものをお持ちしますよ』ってね」
「……あぁ、そうかい。回りくどくって面倒なこった。じゃあここ、開けてくれ」
肩の力が抜ける。何のことはない、このしち面倒な商人は最初から助けに来ていたのだ。ガリアンは鉄檻を手枷で軽く叩く。
ファティヒは微動だにしない。
「ん?どうしたんだよ」
「若様、政治の話はさっきので終わり。ここからは商売の話と行きましょうや」
「はあ?商売だあ?」
「このファティヒ、それなりに腕も立ちます。商売ッてのは鉄火場に踏み入ることもありますからねェ。そのわたしから見て若様、アンタは上澄み中の上澄みだ」
ベタ褒めの台詞とは裏腹にファティヒは微笑み一つ見せない。そして、微動だにしない。
「いずれはモラン=シラードのような小さな領地での評判ではなく、その名が広く知れ渡る時が来る。だから今、あなたに貸しを作ってる——そう、これは貸しだと、そう思ってほしいんでさ」
「手紙と引き換えに何でも持ってくるんじゃなかったのか?」
「まァ、『お代はもちろんいただく』とも言いましたがね。若様、命の代金は今払えます?」
にやりと笑う髭男は悪魔のような顔をしている。舌先三寸で人の運命を手繰る性悪は『金の鶏』を見つめる。さあ、どのように管理しようか——そんな声が聞こえるような顔だった。
「俺たちに何をさせようってんだ?」
「もちろん、悪いようにはしませんよォ。お互いに利益が出るようにしますとも。ただ、貸しを返すちィとばかりの間ウチの商会の仕事を手伝ってほしいだけですよ」
分かりやすい嘘だった。命の代金、と言ったからには『ちィとばかり』なんて生易しいことではあるまい。王弟の子飼いの商人であれば権力者とも繋がりがある。いくら腕が立つと評判の《厄介払い》であっても、世俗権力に逆らえるほどの力があるわけではない。——それこそ竜や高位悪魔でも倒せばその限りではないのかもしれないが、今のガリアンたちには到底敵わない。
「そうかい、わかった————」
だが、ガリアンがなぜ未来において英雄と呼ばれるのか。その最たる理由をファティヒはまだ知らない。
「俺をここから出したきゃあテメェが金を払え」
「————は?」
歴史に名を残す英雄達に共通する、ある要素。それは魔術ではなく、膂力ではなく、知恵ではなく、底意地の悪さでも、高潔さでもない。
「テメェ、なんで俺らをわざわざ助けに来た?」
「そりゃァ、これはと見込んだ若者が死ぬのは忍びないでしょう」
「王弟派の人間が不正の証拠を掴んだんだ。俺を秘密裏に助けるより、俺が牢にいるところを視察でもして見つけた体にしたほうが言い逃れのしようがないだろ。そっちのほうが楽だ」
「……ふゥん?」
「テメェらは俺達を戦力に数えてる。王弟が王都を抑えたような言い方してたが、実際は玉座にはまだ座ってねえと見た。恩着せがましくたらたら講釈垂れやがったが、つまるところそっちこそ助けてほしいんだろ?」
——エゴイズム。
「舐めんじゃねえぞ。狭苦しい霧の隙間であれこれやり繰りしてるカネ稼ぎや国盗りなんざ興味ねえ。俺たちは霧を晴らす。そうすりゃ土地なんかいくらでも余る。王を名乗りたきゃ好きにしろ——」
瞳の奥に蒼い魔力がにじむ。ほんの小さな種火のようにちろりと瞳孔を撫でる。ガリアンは手枷を粘土細工のように引きちぎった。
「いいか、俺たちが霧を全部晴らしたらどうなると思う。そんなことやってる暇はねえぜ。耕す田畑は腐るほどある。掘るべき金銀は唸るほどある。運ぶべき物も、売るべき物も——もう霧の隙間から太陽を待つ必要もねえ」
気炎万丈。いずれ人の希望を背負い、黄金を背負って立つ麒麟児が吠える。檻を掌でがしりと掴むと、人ひとりが通れる分の隙間を曲げて作り出す。しかし、けしてそこから出ようとはしない。
「だからテメェが俺に頼むんだ。『お願いですからどうか出てきてください、手伝わせてください』ってな」
傲岸。不遜。奇しくも、それは優れた商人の素質と同じである。
「分かったらさっさと俺の仲間を牢から出して連れてこい!盗られた装備もぴかぴかに磨いて持ってきな。それから冷たい石で寝たから体が凝ってやがる。肩の一つでも揉んでもらおうか!」
雷鳴のようにガリアンは大喝した。
「俺を助ける権利を貸しつけてやる——だからテメェは恭しくこの牢を開けろ!」
「…………」
静寂。
夜半の牢獄に静けさが満ちる。面罵されたファティヒは小さく震えている。
「————フッ、クククク」
震えが大きくなる。肩、腹、喉。口端は三日月のように大きく釣り上がる。湧き上がるのは笑み。
「クク、クハハハハッッ!!いやあ、中々いい啖呵ですなァ若様!分かりました。このファティヒ、謹んで助けさせていただきやす」
黒樽商会《皮剥》ファティヒがガリアンの仲間になった、はじめての夜のことであった。




