それは月影のごとく
『庭師』と名乗る悪魔がいた。『厨番』を名乗る悪魔がいた。
いずれも弱い、これまでの旅を思えば拍子抜けするような敵だった。
先だっての精神操作魔法のこともある。開幕ガリアンが『太陽の槍』を放つと、何やら甘言を吐きかけていたその口諸共消え去った。塵すら残らぬ完全なる消滅である。
残されたのは作りかけの料理と美しく整えられた中庭の薔薇。
ただただ広いこの城の中、悪魔たちは各々が役割を持っているらしかった。むしろ、王はこれらの悪魔に名をつけていなかったことから単にそういった小間使いのような役割を持たせていたのかもしれない。
そうなると『司書』の言う通り、門兵以上の悪魔というのは王を除いていないのかもしれない。そんな楽観が薄らと言葉なく一行に漂う。
「こんな強者揃いで百も承知、釈迦に説法。あるわきャァないですが——各々方、油断は禁物ですぜ」
「もしそんな腑抜けた奴がいたら凱旋パレードでは一番目立たないところに配置してやる」
冗談めかした皮肉を飛ばすファティヒと笑いながらも場を引き締めるサティア。
張り詰めていない、弛んでいない。
戦場の妙とも言えるこの脱力。百戦錬磨の戦巧者にかかれば敵の本拠地でも自然体であれる。
「————あ?は、こりゃ、なんだ?」
ただし最も強大な力を持ち、死すらも超越したガリアンだけが何故かひどく狼狽していた。
天を仰ぐ。耳鳴りがする。視界が回る。
『おや、ガリアンさん。今日の食事は畑で取れたスープですよ。勿論、君の嫌いな玉ねぎは入っていませんよ』
『ガリアン様、見てくだせえ!青い薔薇が咲いたんです!あなたの瞳と同じ色です!』
幻聴が聞こえる。見えるはずのない光景が目に映る。暖かな湯気の上がる厨房、刈り込まれた庭木。
「おい、どうしたガリアン?今から演説の内容でも考えてるのか?」
緊張しているとでも捉えたのだろう、揶揄うように投げかけられたその言葉にも取り合わず、ガリアンはぽつりとひとりごちる。
「なんだ…………?なんで、俺はここを知ってる……?」
目が虚に、顔面は蒼白。冷や汗が止まらず顎を伝い落ちる。手のひらが細かく震え、その姿はどこから見ても魔境に怯える小僧のものであった。
(明らかにおかしい。ガリアンが怯えるだと?こいつは飛竜を前にして晩飯のこと考えるような男だぞ!!?)
明らかな異常。死に至る猛毒の吐息すら恐れぬ不死の英雄が、ただ暗く長い廊下で震えている。
帯同する一同は驚愕とともに理解する。先ほどの魔術、やはり効いていた。
「ああ、クソ、クソ、クソ————」
「ファティヒ!」
「聖水——チッ!魔術解除薬を持ってこい!写縛石もだ!……さっきの魔術の影響か?」
「分からん、ああクソ!よりにもよって魔術に詳しい二人が不在のときに!!」
あるいは、第七教会の差し止めている聖水が黒樽商会の手にあれば話が違っただろう。
あるいは、魔術の専門家であるラージルがここにいればすぐに看破しただろう。
あるいは、博識なタップがいればぴたりと言い当てたかもしれない。
もしも。探知と防御に優れたルルノアがこの場にいれば、それに驚愕しただろう。
静かな声が闇から這い出てくる。枯れた老木のような、死を想起させる声だ。
「慌てるなよファティヒ、サティア」
「思い出してるだけだよ、なあ英雄?」
暗い《宮殿》の内装に溶け込むような黒色のローブに身を包み、ゆらりと幽鬼のごとくこちらへ近づいてくる。
もしも、の話。どれかの要素が違ったなら彼らはすぐに気付けたはずだ。
ガリアンには魔術の影響など残っていない。
ただ彼は恐怖していただけだ、ということに。
「……お前は何だ」
「————この、なんなんだこれ……」
「こいつ————ッッ!!!」
「いつの間に……!!!」
サティアが『真榊の剣』を構え、ファティヒが暗器を仕込んだ腰に手を当てる。背後の騎士や武装商人も各々の武具をもって迎撃の構えを取ったその瞬間。
突如現れた敵。
正体不明のその敵の、ローブの奥で————昏く藍色が揺らめいた。
「『聖レノ記』“終章”行動開始」
『Roger』
「馬鹿な!それは——それは、ガリアンの——」
祝詞と共にその右腕に輝きが纏わりつく。まるで世界に憎悪されるが如く、それは肩ほどまでを包み、鎧を形取った。
「おいおいおい、冗談だろ……?」
汚泥を煮溶かしたような、見渡す限りの血溜まりのような、あるいは月のない夜に潜むような——闇。
「“其は齎すものなり、其は覆すものなり、不浄詳らかとなりただ一切を灰に帰すものなり”——『|Forsaken Order《見捨てられし世に》:Pray 』」
『Sorry, folks. This is your last stop.』
——じゅ、と濁った音がした。
未だ正体掴めぬ敵の右腕、その人差し指の先から室内の暗闇よりも濃い『黒』の光線が放たれる。
バヂヂヂヂヂ!!!!
雷、蜂の威嚇、破裂——聞くだけで痛みを感じるようなそれらを思わせる音を鳴らしながら直進する黒色の光の槍。
呆気に取られた一行の心の隙を突くような、神速の一撃。
光線はガリアンを庇うように前に出ていたサティアの首元を掠めるように通りすぎ、一拍遅れて踏み出したファティヒの逆足側に逸れる。
「グッ、う——!!」
その先にいるのは冷や汗に塗れ、平静を欠いたガリアン。
慌てて左手で顔を庇ったそこに着弾。ばつん、と音がして肉が弾ける。小指と薬指が取れ、手のひらの一部に穴が開く。
神の加護で傷が——治らない。
「なんだ、これ!」
「いや、それよりも——」
黒い汚泥じみた魔力が傷口に纏わりつき、加護の力が阻害されている。まるで生きているかのように、左の手のひらで蠢くそれに気を取られたのは一瞬。
「指だ!!そこから直進する光に攻撃されてる!散開しろ!!」
ガリアンは痛みを超越している。指の一本や二本、飛んだ程度で止まるほど弱卒ではない。
そして、また仲間たちもまた同様。
そこでようやく黒い光線による反動で風がふわり、と吹いた。
「嘘だろ——」
「何だ、なんなんだ!!」
二度目の驚愕。
風に惹かれて灰のフードがぱさり、と音を立てる。ゆったりと足音が響く。
フードの中からはらり、と白髪が紗のように零れ落ちる。顔を覆っていた影がまるで欠けた月の満ちるがごとく仄かな灯りに照らされて露わになる。
そこにいたのは、老人だった。
ひやり、とした感覚が一行を襲う。
姿を現したその男の全身は、長い放浪と無数の戦いの跡を物語っていた。灰色に色褪せあちこちが擦り切れた深緑のローブは、幾度となく繕ったであろう痕跡が散見され、端がほつれて糸が垂れている。胸元にはかつて銀色だった鎧が覗いているが今では幾度もの戦いの果てにひび割れ、歪み、錆びついていた。肩口の金属板は歪み、胸当てには大きく刻まれた刀傷が鋭く走る。
背にはかつて鮮やかであったはずの藍色のマントが掛けられているが旅と戦闘で酷く汚れ、ところどころ穴が空き、乾いた血痕や泥汚れが残っている。端には今も折れた矢の破片や細かな刃の欠片が突き刺さり、幾度も死線を潜り抜けてきた証を刻んでいた。
老人の顔は疲労と悲哀の深い影に覆われていた。乱れ伸びきった白髪交じりの黒髪は顔を覆い隠し、伸び放題の髭が頬から顎を覆っている。
深く刻まれた皺はかつての若々しさを完全に奪い去り、頬に斜めに走る深い傷跡が彼の過酷な運命を雄弁に物語っていた。右の瞳は失明しているのか、色が濁り白く曇り、左の藍色の瞳だけが暗がりの中で鋭く冷たい輝きを放っている。
足元には左右で形の異なる革靴が履かれ、埃と泥にまみれて酷く磨耗していた。歩くたびに床に擦れた音が響く。
彼はゆっくりと右手を上げる。手は節くれ立ち、火傷や刃傷で酷く荒れていた。指先には使い込まれた革手袋がはめられているが、数本の指は魔術を行使した痕跡で黒ずんでいる。
「んー……流石に一発とは行かねえか」
「ッッッッ!!!」
喉の奥で引き攣ったような音がする。隣を見回すようにして仲間のみながこちらを呆然と眺めていることが分かる。
そこで初めて、ガリアンは自分が僅かに震えていることを理解した。
目の前の敵は、自嘲的に口の端を僅かに持ち上げて言った。
「よう、英雄」
その声は枯れ果て、重く疲れていたが、その奥には悲壮なまでの強固な意志と深い憎悪が渦巻いていた。
「俺がお前の探してた悪魔の王だ————」
そしてその敵は、ガリアンと同じ顔をしていた。
「お前を、殺しに来たぜ」
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