閑話:蜥蜴人の夜
ラージル・ウェンドリクス。蜥蜴人のその男はその晩、豪奢な一室に立っていた。
「ひ、ひッ、ひぃ——」
「475年のノスタジェ、レ・シャン・ド・ラ・リュミエール——最高級品だナ」
瀟洒な調度品、淫靡な煙を吐き出す香。黄金で装飾された聖書が書見台に載せられ、シワのひとつもなく美しく配置されている。
「ああ、少し溢れてしまっていル……勿体ない。失礼、そこのお嬢さん。グラスはどこかにあるかナ」
「えッ、あっ、は、はい!ここに……」
「ありがとウ。さて猊下、お待たせしてすみません。ワタシもこちらのワインを頂いても?」
「…………ッ!……ッ!」
「——あア、これは失礼。《消音》の魔法をかけていたんだった」
黄土色の瞳がきらりと輝く。眼前の男は喉のつっかえが取れたように荒く息を吐くと、眦を釣り上げて叫ぶ。
「……貴様ァ!!何者だ!!」
「良い夜ですナ。月は隠れ、雨が降る。こうして人知れずお宅にお邪魔するのに絶好の日だ」
「質問に答えろ!!私を誰だと思っている!!」
「そんなに叫んでも意味はありませんヨ。この部屋以外に音は漏れませン」
眼前の男は服を着ていない。魔術で縛り上げられ、芋虫のように這いつくばりながら権威を口にするその姿、あまりにも滑稽である。
「おい!誰か!!誰ぞおらんか!!」
「……ヒトの話を聞かない人だ。そもそもあなたが人払いをしたんでしょう」
第七教会本部。『秘蹟の間』と名付けられたそこは、敬虔で徳の高い一部の信徒にのみ入ることを許された場所である。
そこはまさに酒池肉林。美食、酒、女、賭博、ドラッグ——この世の快楽を煮詰めて焦がしたような薄汚い欲望の部屋。
今日ここは枢機卿の貸切となっている。美姫をはべらかし、ドラッグに溺れ、勝利の美酒に酔う。どうやら今日の彼はそういった予定だったらしい。
「やれやレ……これだから聖職者は好きになれないナ」
いつもフードで面相を隠す彼の姿はここにはない。魔法の茨で全身を拘束された全裸の男——世界に十人しかいない枢機卿を冷たい翠色の瞳で眺める彼をガリアンは知らない。
寡黙なこの男が抱える、いつまでも消えることのない熾火のような怒り。それは今も彼を焦がし続けている。
「ガリアン……」
何もかもを伝え合うことだけが友情ではない。ラージルはそう考える。
己が暗殺業で身を立てていたこと、義賊めいた行いで自分を正当化していたこと、そのせいで貴族に目を付けられて奴隷になったこと。同胞がたくさん捕まったのはその報復だったこと。
それらを伝えればきっとまたガリアンは憤り、気に入らないとその貴族に突撃していくだろう。ルルノアもきっと一緒に怒ってドアのひとつでも粉砕しそうだ。タップはそんな二人を宥めながら、それでいて最も苛烈な策を練るに違いない。
そんな姿を想像するだけで、それだけで救われる。
面白半分にナイフで背に刻まれた「奴隷」の文字も、抉り出された片目も、何度も切り刻まれ再生しなくなった尻尾も、剥がされすぎて変形した爪も——その全てをいっとき忘れられる。
魔法の茨でより強く締め上げる。食い込んだ棘が首や腕、足に突き刺さり鮮血を撒き散らす。
「いギャあ!!やめ、や、やめろォ!!!!」
「これは古城の民が好んで使う拷問方法でしてネ……生かさず殺さずの魔法で痛みと失血のバランスが丁度いい」
「ふざけるな!!う、薄汚い、ヒトモドキめ」
「さて——念のため訊いておク。泉の聖騎士団や黒樽商会に圧力をかけたのは貴様だナ?」
「お前のようなトカゲになど——うグァ!!」
「そうだと言エ、それが出来たら楽に殺してやル」
縦に裂けた蜥蜴の瞳孔が酷薄に歪む。
「『有能な敵より無能な味方』とはよく言ったものダ——以前から馬車の手配や食糧の買い出しに問題があると感じてはいたガ……まさか枢機卿じきじきに足を引っ張っていたとはナ」
ぎりぎりと音を立てて締め上げる茨が血を吸い、喜ぶようにその身を捩らせる。その度に男は情けなく悲鳴を上げた。
「貴様ラの目的は悪魔との戦乱の継続、長期化——世が乱れたときほど宗教屋の稼ぎ時だからナ……違うか?」
問いかけたにも関わらず、答えを待たず茨は男の口の中に入り込む。柔らかな肉を切り刻みながら口いっぱいに入ったそれにもはや悲鳴すらもか細くなっていく。
「あア——我は所詮下賤の身なのだろうサ。こんな汚れ仕事が嬉しくてしょうがない。我々蜥蜴人を虐げ、見下して私腹を肥やす権力者を殺すのは胸がすく思いダ」
その姿に枢機卿は恐怖を抱く。もはやこれらは質問ですらない。この蜥蜴人の中では『体裁を保つために一応訊いている』程度のことであり、目の前の男を殺すことなど既定路線。
「ドウやって貴様を殺そうか……見せしめに教会のシンボルに括り付けるカ?それともこのまま内側まで茨を這わせて破裂でもさせてみたら面白いかもしれないナ?」
「んんんんー!!!ひゃえてふえ!!!」
そこでしゅるり、と静かに茨が引いていく。ラージルは相手の顔色を読むことに長けている。蜥蜴人への敵意や軽蔑が、はっきりと恐れのみに塗り変わったこのタイミングで口枷を解く。
「しかし——聖書には『人の改心を赦したまえ』ともあル……もしもこれまでの行いを悔い改めるのなら、我はそれをきっと赦すべきなのだろウ」
「ああ、ああ、そうだとも!!私は改心した!!」
「おお、なんと。まさに女神サウラのお導きだナ」
「その通りだ、もう邪魔したりしない!協力するとも!!」
第七教会は腐敗している。高額な献金の要求や破門をチラつかせた恐喝。免罪符の販売による一般信徒からの搾取。果てはこのような愚物が名誉ある枢機卿に選ばれる始末。
ラージルは内心の侮蔑を覆い隠し、三文芝居に乗る。
「なるほど、なるほど。さすが枢機卿。己の誤ちを自ら正されようとハ」
「おお、そうだとも!!ガリアン?殿の一行にはこれまでより一層の支援を約束する!!」
「これはこれは、ではこの件について遺恨は水に流すといたしましょウ」
にっこりと笑んだラージル。枢機卿は汚物でも見つけたように顔を顰めたのち、慌てて笑顔を取り繕って応じる。
ラージルはくるりと周ると周囲で怯える女たちに声をかける。幾分か落ち着いたトーンだ。
「さて、では君たちも帰ってもらおうカ。ここでは『何もなかった』——そうだネ?」
元より枢機卿の『遊び相手』である。高級娼館などから連れて来た弁えた人間ばかり。彼女らは高い知性と教養を持つ。ラージルが英雄ガリアンの一党にいたことも、目の前の枢機卿がその一党に圧力をかけたことも、その結果一党が解散したことも知っている。
そしてその一党のメンバーが元凶である枢機卿の元に忍び込んで脅迫している。この国で有数のセキュリティを誇るこの場所に騒ぎも起こさず入り込んできたのだ。迂闊に触れ回れば次は自分の部屋が『こう』なる。
彼女たちには軽々しく口にしていい話題と、そうでないものくらいは理解できる頭がある。これは明らかに後者の類であると、ラージルは言外に告げていた。
「こんなことに巻き込んですまなかったネ。お忍び用の裏口があるだろウ?そこから出なさい、誰にも見つからないように」
目を伏せ、声ひとつあげない女たちにラージルは頷くとドアを開け、紳士的に外へと誘った。
女たちがいなくなって数秒後。
「ではそろそろ、この魔術を解きなさい。本来なら私に拝謁す————」
「カネとメシの中抜きは許した。しかし、ガリアンに関しては別ダ」
茨が生える。簡単に枢機卿の手のひらを貫通させ、勢い衰えず床に突き刺さる。血飛沫が舞う。
《消音》の魔術で音は漏れない。誰も気付かない。部屋は静かなままだ。
「ああああ!!あああ!!!!」
「アイツを殺して聖人にでも認定するつもりだろう?悲劇的なエピソードでも付けて教会の権威付けに利用しようとしていル」
「アイツは霧を晴らす」
「アイツは世界を広げる」
「そのとき、貴様ラはいらなくなる。それが怖いのだろウ?」
「ううぐううう!!!きさ、き、貴様この私に!!」
「『この私に』——何ダ?言ってみろ」
これまで抑えていた圧を解き放つ。魔力の奔流が感情により励起し、体全体から稲妻のように走る。瞳と同じ黄土色に輝くそれは攻撃的に破裂音を鳴らしながら彼の周囲に迸っている。
「ヒュッ————」
呼吸することが出来ない。枢機卿は老境に差し掛かり初めての恐怖を覚えた。すなわち魔力による圧死への恐れである。
それは通常、あり得ない現象である。体内を巡る魔力が体外に表出するだけでも天賦の才と呼ばれるこの世界で、その魔力が圧力をもって具現化して他者を圧するなど、理外の化け物。
百年——いいや、千年に一人の才能。
「どうしタ?あのガリアンを脅してみせたのだろう?その胆力を見せてくれ」
英雄の一党だろうということは予想が出来た。しかし、教会権力を前に個人の武勇がなんだと言うのか。結局破門をチラつかせて圧力をかければ大概の者は折れる。あの英雄とてそうだったのだから、いわんやその一党などたかが知れている。
「ぃき……で、でき……」
そんな浅い目論見は、事ここに至って全くの見当違いであることが分かった。
目だ。何度か見てきたこの目。己の使命に殉じ、それ以外の全てを燃やし尽くしても目的を達成する——殉教者の目。
殺す。きっと枢機卿などという肩書きを無視して、それが影響することも無視してこのトカゲは自分を殺す。
ラージルが苛立ち混じりに拳を叩きつけた一枚板の焼け樫のテーブルが床にめり込むのを眺めながら、枢機卿は後悔していた。
「ガリアンのように『もう一度』がある人間はいなイ。だからあいつは俺たちを見捨てられなイ」
口が酸素を求めて自然に開く。手足がぶるぶると震え、血の気が失せていく。
「手のかかる奴だよ。タップが弟分と呼ぶのも良くわかル」
喉を掻きむしりたい衝動に駆られながらも、枢機卿は手指の一本も動かすことが出来ない。
「俺たちの仕事はガリアンの前に転がる小石を退けてやることダ。あのいじらしい末っ子が転ばぬように、後ろを振り返らずに済むように」
その蜥蜴人はにっこりと笑んだ。
「ァ——ァグァェ——」
まるで威嚇するかのように。
「だから退け、小石が」
「——!!————ッ!ッ!!」
バタバタと手足を暴れさせる枢機卿。死ぬ直前の生命は最期に強く抵抗する。たとえそれが何の意味をもたらさない、無為なものだったとしても。
命の消える気配。尿と糞を撒き散らしながら死んでいくその無惨に、ラージルは眉ひとつ動かさない。
数秒の沈黙ののち、呼吸が止まった枢機卿を見やると魔術を解除し、手を二回打ち鳴らす。
速やかに入室した老医師が枢機卿の瞼を押し上げると、「悪魔によるものですな」と平坦に言う。
「では、私はこれデ。教皇様にはくれぐれもよろしくお伝え願いたイ」
「枢機卿どのは悪魔の手先に拐かされ、行方が分からなくなっていたところを発見された。勇敢にもその誘惑に抗ったものの、教義に殉ずることとなった——教皇様にはこの悲劇を必ずお伝えすると誓いましょう」
ふ、とラージルは笑うと陰惨な笑みを浮かべた。
「お互い地獄に堕ちますナ」
「それで民草が安らぐのであれば、本望」




