司書
宮殿は灯りのひとつもなく、静けさに満ちている。
闇の中ですら薄っすらと輝くほどに磨き上げられた床石が、歩を進めるごとにかつかつと音を立てる。反響するその靴音が、この場所の広さを物語っていた。
ガリアンはヒトの持つ城や屋敷、あるいは宮殿というものに慣れている。巨大な自画像、美しい調度品、数多くの使用人とぴんと張られた旗が誇らしげにはためく様。それらがガリアンにとっての宮殿の象徴だった。
「誰もいない——?」
だがそこは、あまりに空虚だった。
美術品のひとつもなく、調度品のひとつもなく、靴音も衣擦れも呼吸の音ひとつしない。
死んだ建物、とでも形容すべきものであった。
「悪魔どもの棺桶にしちゃ上等だ」
「違ェねえ」
背後を警戒している商人達が冗談を言うのを騎士たちは黙殺しながら進んでいく。
半刻は歩いただろうか。見通しの悪い暗闇の中、広く長い廊下をただ歩く時間は、距離と方向感覚を鈍らせる。張り詰めるような静寂が、否応なく心の糸を張り詰めさせる。
前触れもなく。
その声はした。
「お客様」
飛び上がるように身構えた一行を迎えたのは椅子に座った女だった。座っているとはいえ、足元までもある長い長い髪を後ろで三つ編みにした、か細げな女だった。
その女は、手に持った一冊の本を矯めつ眇めつ眺めながら、片手間にそうするように声をかけてきた。
「あなた方はゆく先を間違えていらっしゃる。ここは書庫、玉座はあちらです」
「ほォこれはこれはご丁寧に。あなたはどちらサンで?」
「わたくしは司書でございます。ここで生来よりずっと、本の整理をしております」
司書を名乗る女はシャツにカーディガン、スカートといかにも庶民然とした振る舞いであったが、一行は全く警戒を解かなかった。それも当然の話である。ここは悪魔の王の城。ただの人がこんなところにいるはずもない。この女もまた、悪魔なのだろう。
「はァなるほどォ。ではあなたは戦闘員ではない、ということですかな?」
「そうですね。荒事は門兵の仕事。わたくしはそのようなことは出来ません」
ファティヒは大袈裟な笑顔を浮かべながら話す。ガリアンはその体重移動の繊細さに、彼がこの女を殺すつもりであると悟った。
ホルスターに下げた手斧を取り出しやすいように腰に手を当て「なるほど!」などと明るく笑うこの髭面の男がそうした奸計に長けた悪漢であることをガリアンは知っている。
しかし、いかにか弱げとて悪魔は悪魔。女はうっすらと微笑むと、表情も変えず息を吐いた。
「はあ……なぜあなた方はいつもわたくしの話を聞いて下さらないのでしょうか。邪魔などするつもりはありません。王に挑みたいのであれば、わたくしになど関わらずそうされればよろしいのに」
バレている。ファティヒがほんの僅か、親しい者にしか分からない程度に顔を強張らせる。
悪魔の位階が高ければ高いほど、知能や能力も比例する。目の前の悪魔は明らかに高位のそれである。
「フン、そうするには我々は貴様らに殺されすぎた。貴様らは背を向ければすぐに襲いかかる獣だ」
サティアがファティヒへの目線を奪うように声を上げる。
「そのような野蛮な者と同一視されたくはございません。あなた方も山賊の類と一纏めにされたくないでしょう?」
半眼でこちらに嫌悪感を露わにしている女は、ガリアンから見ても本心から話しているように見えた。
「へェ、話の分かる方というワケですか。それで、王サマのところまで素通りさせてくれる、と?」
「ええ、わたくしは兵士ではございませんから」
「命乞いのつもりか?私達がそれを素直に信じると思うか?」
「信じる、信じないはそちら次第。わたくしの努力など何の意味がありますか」
ファティヒとサティアが続けている問答も堂々巡りになりかけている。
「なあ、司書さんよ。俺たちはアンタの王を殺しに来たんだぞ。何とも思わねえのか」
「仮に我が王を殺せるほどの力をお持ちの方であればわたくしが抵抗して何になりましょう」
「逆の場合は俺たちは王に殺されるだろう、って言いたいんだな」
「ご賢察のとおり。この状況になった時点でわたくしの手には負えない事態なのでございます」
その目には反抗的な色は全くなく、無力な人間の諦観が色濃く影を落としていた。彼女はけしてその身を犠牲にしてまでこちらを攻撃したりはしないだろうと、ガリアンの目には映った。
だから、殺す。
もしかしたら悪魔にもいいやつはいるのかもしれない。もしかしたら話し合えば分かるのかもしれない。
だから、殺す。
悪魔の全ての能力は平均的なヒトを上回る。それは会話や表情のコントロール、演技においても同様である。名優が涙を自由に溢すように、見る人の感情さえも揺り動かすように、悪魔にも同じことが容易にできる。
つまりはヒト種が言葉を用いたコミュニケーションの際に行う、表情や口調などから相手の気持ちを想像する手法は高位の悪魔に対して全く適用できないことを意味する。
ガリアンは無学である。人の機微にも疎い。
そしてもしかしたら程度で仲間の命を賭けるつもりはない。
だから、殺す。
「俺は悪魔とは仲良くしねえ」
エゴイズム。差別主義者。何と罵られようが世界を救うために配慮などしてはいられない。
抜いた剣が風圧を撒き散らしながら女の顔面に激突する。生物の体に鋼が当たったとは思えない金属音が発生し、火花が散る。
手応えは——ない。斬れていない。
「ですから、わたくしはあなた方と争うつもりは——」
一、二、三、四、五、六。ゼロコンマ数秒の間に六連撃の早業が軌跡を残してぎいんと耳障りな音を立てる。
風圧により座っていた椅子が破壊されて、本の装丁が壊れてバラバラに紙が舞う。
「ガリアン?」
サティアの不思議そうな声が響く。あたりにいたはずの見方が見当たらない。己の放った風圧で紙片が吹き飛ばされ、中空を埋め尽くしながら旋回するのを見て、ガリアンは違和感に苛まれる。
ここはこんなに長い廊下だったか?
「ガリアン、どうした?」
紙がいつまでも舞っていて、一枚も落ちて来ない。床はぴかぴかで顔が映るくらいだ。女は椅子に座っていて——椅子は今、壊れなかったか?
「わたくしは司書でございます。ここで生来、本の整理をしております」
「はァなるほどォ。ではあなたは戦闘員ではない、ということですかな?」
同じ会話をしている。全く同じ様子で、初めてそうするかのように。
「ガリアン、どうした?おい!」
どこか遠くでサティアの声がする。
紙が宙を舞っている。
ファティヒが檻の前に座っていて、サティアは泉のほとりに——違う、それは昔の記憶だ。
椅子が壊れては直り、女がそこに座っている。
「わたくしはけして争いごとは得意ではありませんが、黙って殺されるほど優しくもありません」
いつまでも紙が宙を舞っている。何かがおかしくなっている。どこかでごうんと鐘が鳴った。
「ファティヒ!ガリアンの意識がない!」
どこか遠くでサティアの声が聞こえる。だが、周囲には人はいない。場所は変わらず宮殿内。
(精神操作系の魔法か……?)
何が起こっている。ガリアンには分からない。だが、一つわかることがある。目の前の微笑を絶やさないこの女。こいつが原因である、という一点。
「異空間にでも隔離されたか」
「その通りでございます。流石、お客様は戦い慣れていらっしゃる」
「逢引きのお誘いにしちゃ積極的だな」
「殺すつもりはございませんが……少々地獄を見てもらいます」
「見せてくれるなら別のにしてくれ、そいつはもう見飽きた」
そうして、ガリアンの意識は暗転した。




