軍病院
「あ、まぶしい」
朝日で外が明るくなって私は目を覚ました。ぐるりと周りを見回してもヒルダもいなければ黄金のドラゴンもいない。
「もしかしてヒルダさん、ドラゴンに乗って行っちゃったのかな?」とかたわらを見ると、小さなリスくらいの大きさの全身を白い毛で覆われた小さな生き物が走り回っているのを見つけた。私が起き上がると、ちょこちょこと肩に登ってきた。
「こんな変なの昨日はいなかったよね」
けれども、かわいいは正義である。こんなかわいらしい生き物は見たことがない。この生き物は私が歩き出しても肩に止まったままだったので気にせずに連れてゆくことにした。
全部使い尽くしたはずの魔力も寝ている間に復活しているようである。つまり、昨日の出来事は夢ではなかった。少なくとも私は魔力を持たない無能ではなくなったようである。
お堂の扉を開けて外に出てみると、綺麗に晴れ渡った空の向こうに尖塔が見えた。おそらく、あれがグレゴリウス修道院であろう。
丘を降りてゆくと修道院が近くなってきた。
「ごめんくださーい」と案内を頼むと中から3人の修道女が出てきた。
「どうなされたのですか?」と修道女の一人が尋ねる。
「私はシンクレア伯爵家のクリスティーナ・シンクレアと申します。この度はそちらの修道院にお世話になりたいと思い参りました」
「あら、そうなのですか。それにしても身の回りのものはお持ちでないようですが、どなたかお連れの方がいらっしゃるのですか?」
「実は昨日、こちらに来る時に盗賊に襲われましてカバンを失ってしまったのです」
「では、お布施のお金などは?」
「それも全部カバンと一緒に失ってしまいました」
そう答えると、一瞬修道女の顔が厳しくなり、その後明らかな営業スマイルになって「それでは、えーっと、現在修道院のお部屋は一杯で新しい修道女を受け入れる余裕はないのです。この街道の先に軍病院がありますからそちらでお勤めなどされて修道院の部屋が空くのをお待ちになられてはいかがかしら。」
それを聞いてギョッとした顔をしたのは後ろの二人の修道女である。小声で囁くが、魔力のせいで内容が聞こえてしまった。
(お姉様、軍病院はあまりにひどいのじゃありませんか)
(どうせここに来るのは魔力のない無能ですよ。お金もないのであればただの穀潰しじゃありませんか)
(でも軍病院をみると驚いて逃げ出すかもしれません)
(それで何の問題があるのですか。無能が逃げ出したところでこちらの知ったことではありません)
この辺りまで聞いたところでむかむかを抑えられなくなった私は「承知しました。それでは軍病院に向かうことにします」と言わざるを得なくなっていた。
慈悲心のかけらもない修道院にお世話になどなるものかとプンプンしながら進んでゆくと病院が見えてきた。多分、あれが軍病院なのだろう。
病院に近づくと「うぎゃー」という男の悲鳴が聞こえてきた。
慌てて中に入ってみると、ベッドに寝かされて両手を縛られた男にその傷口に熱せられ、沸騰した油が注ぎ込まれていた。そして別の傷口には燃える石炭で熱せられて赤く光る焼きごてが押し付けられたわけである。
そんな「治療」を受けた男たちが激痛に悲鳴をあげるのは当然である。
私はその横でぼーっと立っていた、薄汚れた白衣を着た男に突進して「一体こんなひどい治療をしてどうするんですか、すぐやめてください!」と叫んでしまった。けれども、その男はぼんやりとこちらに顔を向けて「お前は誰だ。どうしてここに入ってきた。黙れ。医者の言うことに逆らうな。ここではこうするしかないんだ。どうしてもというならば黒狼騎士団長に言うがいい。騎士団長の命令であれば我々も従わざるを得ないからな」
そういうと彼は私に背を向けて椅子に座って何かを書き始めたのである。
私はすぐに病院を出てその向こうの騎士団本部らしい建物に向かった。
騎士団本部の門には番兵が警護しているのでちょっと入れそうにない。と、向こうから荷馬車の一団が近づいてきた。恐らく騎士団に物資を運び入れるのだろう。その一団が門を通り抜けるときに、私もどさくさに紛れて騎士団の中に入ることに成功した。
それで中央の建物に向かって歩き出し、建物の中に入ろうとすると、不意に後ろから「あなたはどなたです?ここは騎士団長の建物ですから許可なく入れませんよ」と言う声がした。
見れば明らかに鍛え込まれた肉体の上にまだ少年の面影を残した甘いマスクの男がいた。
「私は大至急で騎士団長にお会いしたいのです」と私が叫ぶようにいうと、その甘いマスクの男は「何かお約束をされているのですか?私は団長の秘書をしていますが面会の連絡はなかったと思うのですが」というのである。
私は「私はシンクレア伯爵家のクリスティーナ・シンクレアと申します。確かに団長との面会のお約束はありませんが、至急にお目にかかりたい要件があるのです」と丁寧に頼むしかなかった。
けれども、その男は「私はこの黒狼騎士団の副団長を務めているレンドルフというものです。伯爵令嬢、あなたも貴族であるならば面会する時には先に面会の予約を取るのがマナーであることくらいご承知でしょう。お引き取りください」とすまし顔で言うのである。
もうむっとした私は「そんなことは先刻承知です。今回は急ぎの要件なのであえてお頼みしているのです」と少し声を荒らげて伝える。
レンドルフは「やれやれ、困ったお嬢様だ」と天を仰いでいるが、そんな暇があればさっさと団長に取り次げばいいじゃないの。
不意に「一体何事だ」という声が上から降ってきた。見ると彫刻のように整った顔の男が氷のような視線を注いでいる。イケメンである。
レンドルフは「団長、申し訳ありません。この伯爵令嬢が急に訪れて予定外に団長に面会したいと騒いでおりまして」と彼に頭を下げた。
団長は私に一瞥をくれると「では要件を手短に話してみろ」と冷たく言った。
私は慌てて「私はシンクレア伯爵家のクリスティーナ・シンクレアと申します。先ほど軍病院を伺ったのですが、そこではケガ人の傷口に熱した油をかけたり熱した焼きごてで傷口を焼いたりしておりました。あれは人道的な治療ではありません。何卒すぐにやめさせていただきますよう」と早口で返事をした。
団長は一瞬目を瞑ってからまた目を開いて「私はこの黒狼騎士団の団長のエリックだ。軍病院の治療についてはあれをやらないと手足が化膿して切断しなければならない者が出てくる。あなたの話は受け入れられない。もしあなたが病院の入院患者全員を今すぐ治癒させられるというなら別だが、そんなことは無理でしょう。さあ、もう用は済みました。帰ってください」と言ってくるりと向きを変えてもう何も言わずに部屋に戻って行った。
レンドルフは明らかにホッとした表情で「お嬢さん、さあ、お聞きになったでしょう。軍病院の患者全てを治さなければ話は終わりです。でもそんなことができるのは伝説の大聖女だけでしょうからね!さあ、まずはお引き取りください」と私に門の方に向かうようにジェスチャーをしたわけである。
やむを得ず騎士団の敷地から追い出された私はさてどうしたものかと考えながら歩いていた。
多分、聖女の魔力を使えばあの小さな病院の患者を全員治すことは簡単だろう。その後どうやってあのいけすかない騎士団長にそのことを認めさせるかである。
と考えていると、ふと重大な事実を思い出したのである。
私はなぜこんな北辺の人もいない場所にいるのか。それは侯爵家から婚約破棄されたからである。じゃあなぜ婚約破棄に至ったか、というと私が魔力のない無能だったからである。
今ヒルダ様からいただいた魔力を見せてしまうとなぜ私がこんなど田舎に来なければならなかったかという理由が消え失せてしまうのである。さらにいうと、私自身、夢じゃないかと思っているあの昨日の出来事を説明しても信じてくれる人がいるとは到底思えない。それに、もし私に魔力があるとわかれば侯爵家が婚約破棄をした理由も消えてしまうのである。そうなれば今、婚約が成立して喜んでいるであろう妹のミランダを傷つける事になるかもしれないわけである。
そこまで考えると私が大っぴらに魔力を使うことはまずすぎる、私はあくまでも無能女でいないと事態がますますややこしくなるように思えたわけである。
(そ、そうね。魔力はこっそりと病院の裏側からかければみんなにはわからないでしょう。あとはあの騎士団長をなんとか説得すればいいわ。)
軍病院に着くと、人気のない裏側に回り込んでその壁から見ると、入院している人のケガの様子が見えたので、それに合わせて魔力を調節して病院に向かって投げつけた。
そうすると病院全体が白い光に包まれたかと思うと風船のように弾け、光る粒子が病院の内外に降り注いだのである。
病院の中からは「お、俺の切断された足が生えてきたぞ!」とか「俺の腕も生えてきた」とか「目が、目がまた見えるようになったぞ!」という叫びが聞こえてきた。
ふふん、うまくいったわ。とニマニマしながら見ていると病院内からは三々五々恐らくは治癒した入院患者であろう、若い男たちが出て騎士団の方に向かって歩き去っていた。
一通り男たちが病院から出ていくのを見送ってから、病院内に入っていくと、先ほど「治療」していた医者が「な、なんて事だ、患者が全員治ったと言って退院するなんて。オレの持病だった腰痛も治っているみたいだ。もう訳がわからない」と頭を抱えていた。
ふふっ。うまく行ったわ。
で、その医者に「じゃあ、キズ用の軟膏を作りますからあぶら薬はありますか?」と聞いてみた。
医者は「ああ、あるにはあるけれど、どんな薬草を使うんだ」と聞いてきた。
「そうですね。月光草と紫根とトウキですね。」と返事すると医者は「月光草だって?紫根やトウキはこの病院にもあるが、もう月光草はどの植物だったのか失われて久しいぞ。名前は残っているけれど、幻の薬草なんだ」と驚いた声を上げた。
私の方もその知識はどこからきたのかわからないがきっとヒルダ聖女のものなんだろうけれど、普通にそのあたりに生えている普通の植物だからまさか幻の植物になっているなんて知らなかった。
「え、えっ」ってこちらも驚いた声を上げると医者は「お前、どこでそんなことを知ったんだ」と低い声で聞いてきた。
「えっ、えっとお、たぶん、私が小さい時に領地でおばあさんに教えてもらったんですわ、おほほ」って誤魔化そうとしたけれど、医者は「なんていう名前のお婆さんなんだ」とさらに詰め寄ってくる。
「え、た、確かヒルダって名前のお婆さんでしたわ。ヒルダおばあさん。本当のおばあさんではなくて遠縁の人でしたけれど」ってさらに誤魔化すとどこからともなく「人を勝手にお婆さん扱いするな!」っていうヒルダの声が聞こえてきたが空耳ということで無視する。
医者は「そうか。王都ではもう失われた知識も地方では残っていたのかもしれないな」と勝手に納得してくれたので私もほっと胸を撫で下ろした。
そして騎士団の建物に戻る事にした。もう夕刻でさすがに空腹を覚えている。
騎士団につくとその門のところにレンドルフが立っている。彼は私がきたのを見るとすぐに近寄ってきて「お前に聞きたいことがある」と私の腕をぐっと掴んで建物の方に引きずってゆこうとした。
「あなた、貴族の令嬢に無礼でしょう。騎士団の人はそんなに礼儀を知らない野蛮人なの?」と叫んでも耳を貸そうとはしない。もう有無を言わさずに騎士団長室に連れて行かれたのである。
騎士団長室には例のイケメン団長がいてなんとイタズラっぽい目でこちらを見てくる。
「一体ここの騎士はどういうことなんです!女性に対する礼儀に少々かけているのではないでしょうか」と私が言ってやると、騎士団長は「すまないねえ。けれども大事件が起こったので。あなたはその重要参考人なんですよ」と落ち着いた口調で話しかける。
「先ほど、あなたと話してから一時間も経たないうちにあの軍病院に入院していたうちの騎士団の連中がみんな『治った』と言って帰ってきたんですよ。あなたはそれについて何か知りませんか」とレンドルフが聞いてくる。
「そ、そうですわね。軍病院の医師に聞くと全員退院したということでしたわ、おほほ」と私ができるだけ上から目線で言ってやると、騎士団長のエリックが「それであなたは何をしたのですか?」と聞いてくる。
え、そ、そんなイケメンに面と向かって聞かれたらどうすればいいのよ。
「え、えーっと、わ、わたしですか?わ、わたしはなにもしていませんよ。」あーもうしどろもどろの返答だわ。説得力のかけらもない。落ち着くのよ、私。さあ、深呼吸して。
「私は魔力なんてありませんの。なのでグレゴリウス修道院にお世話になろうと思ってこちらに参ったのですわ。もしかしたら修道院の聖女様が癒しの手を用いられたのかもしれませんね。」と用意してきた説明をしゃべると、レンドルフが堪えきれないようにぷっと吹き出した。「あ、あの修道院のごうつくばりの婆さんたちがただで聖女の業を行うわけないじゃん」
エリックは「レンドルフ、レディの前で失礼だぞ」と彼を制し、「ではシンクレア嬢は現在はグレゴリウス修道院に滞在しておられるのですか?」と尋ねてきた。
「い、いえ、修道院は一杯で空きがないということで軍病院の方に参った次第です」と私が答えると、レンドルフは「では荷物などはどうされていらっしゃるのですか?」と当然の質問を投げかけてきた。
「あ、あの、北の街道を通ってくる時に盗賊に出くわして、逃げる時に失ってしまったのです」と説明すると、エリックは「これは失礼した。街道の警備は我が騎士団の仕事であるのですが、急な襲撃で怪我人が続出してそちらが手薄になっていたのです。お怪我がなくて何よりです」と謝ってくれた。
「い、いえ、無事に逃れられたので気にしてはいません」と私が答えるとエリックは「では今日の宿所はお決まりではないということですか」と聞いてくる。
しまった、そうだわ、今日泊まるところを考えていなかった。荷物もなしに野宿ってできるのかしら。
黙って俯いていると、エリックは「では今は使われていないのですが、我が騎士団の女性用宿舎をお使いになりますか?」と申し出てくれた。レンドルフは「きちんと掃除はしてありますよ。緊急用の着替えも何着かはあるでしょう。男所帯なので粗末な食事で申し訳ありませんが夕食もご一緒できれば幸いです」と言ってくれた。
もう疲れ果てて空腹でお腹がぐーぐーなっているのをいかに気付かれないようにしようかと悩んでいた私はもう一も二もなく「ありがとうございます。親切なご申し出を受けさせていただきますわ」というしかなかったのである。