北の荒野
サラを帰したあと、カバン一つ持って北の街道に足を踏み入れてみた。無理やり帰りなさいと言ったため、大泣きしながら帰っていったサラを思うとちょっと胸が痛い。それに、これまでの整備された王都の街道と違って北の街道は石ころだらけで歩きにくい。けれども、今日中に修道院に着かないと野宿する羽目になる。
さすがに一人で野宿するのは危険すぎることはわかる。
休憩も最小限にしてもうひたすら歩き続けたのである。行き交うものの姿もない荒野に続く一本道をひたすら歩き続けるうちに次第に陽も傾き出し、荒野から次第に山沿いの道になった。両側に山が迫り、谷間に入ったところで物陰から急に一人の男が現れた。びっくりして思わず「ごきげんよう」と挨拶すると、その男は下卑た笑みを浮かべて「ごきげんよう、嬢ちゃん。じゃあ有り金を全部置いて行ってもらおうか」と凄みを効かせた。
「盗賊だ、殺される!まだ死にたくない!」と咄嗟に思い、「え?私まだ死にたくないのかしら」と笑いそうになったが、その盗賊の男はゆっくりとこちらに近づいてくる。
「えい!」とカバンをその男の下腹部に叩き込むと、むう、とうめいてへたり込んだ男を尻目にもう方向もわからずにひたすら駆け出した。「はーはー、ぜーぜー」もう息が切れそう、カバンも捨てよう。
なおも駆け続けていると、向こうに古いお堂のような建物が見える。あそこなら隠れられそう。最後の力を振り絞ってお堂に辿り着くと、その扉を開けた。鍵はかかっておらず、もう這いずるようにして自分の体をお堂に潜り込ませると必死で扉を閉めた。どうやらあの盗賊が追いかけてくる気配はなさそうである。もう疲れ果てて動けないよと思いながら、少し安心すると自然に瞼が閉じて行ったのである。
どれほど眠ったのだろうか。ふと目を覚ますと辺りが明るいし、寒さもなくぽかぽかと暖かいのである。
「これはスティクス川を渡ったということなのかしら。それとも神々の遊ぶエリュシオンの野にきたのかしら」
そう呟くと、誰かが「残念、ここは禁断の聖地だよ。ここにきた以上はきちんと働いてもらわなくては」と返事したのが聞こえた。
慌てて起き上がると向こうに若い女性が見えた。
「ごきげんよう。私はクリスティーナ・シンクレアです」
「私はヒルダだよ。ちょっと手伝って欲しいことがあるんだ」
よく見るとヒルダの足元には金色の何かが見える。どうやらドラゴンのようだ。
「ひっ、ひぇっ!ド、ドラゴン!?」
「大丈夫だよ、噛みつきやしないよ。大怪我してるんだ。」
よく見ると、おそらく誰かに引き裂かれたのだろう。片方の翼はもうちぎれそうになっているし、鱗はあちこちはがれ落ちて出血しているらしい。ドラゴンは目を開ける元気もなさそうで呼吸も荒く虫の息になってきているようだ。
「ちょっとあんたにこのドラゴンの治療を助けて欲しいんだよ」
えっ?えーっ!「い、いや、私は魔力のない無能なので治癒魔法なんてかけれませんよ。ドラゴンの傷の手当てなんてどうすればいいのか分かりませんし。ごめんなさい。とてもお役に立てそうもありません」
「まあ、まあ。もうあんたの魔力のゲートは開けたからね。魔力は十分に回っているはずだよ。自分でもわかるだろう?」
「そ、そんなこと言われても。私は魔力測定で魔力なしって判定されたから魔法の勉強なんてしていないんです」
「そんなの簡単なことだよ。回復のイメージを持って、せーので思いっきり魔力をぶつけてあげればいいんだよ。ドラゴンなんだから遠慮することない。ガンガン魔力をぶつけたって平気だから」
「えーっとお。こ、心の準備が…」
「もう。仕方ないわねえ。じゃあ、クリスティーナ、あのドラゴンの傷が見える?よく見て」
クリスティーナはドラゴンの傷をよく見てみる。
「あら、あの傷は別のドラゴンが噛んだ傷だわ。翼はその爪で引きちぎられたということでしょう。で、噛まれた傷は骨を砕いている。で、その折れた骨がドラゴンの心臓に突き刺さっているわ」
どうやらつい口に出してしまっていたらしい。
「ご名答。よく見えたね。小さい傷には小さな魔力、大きい傷には大きな魔力が必要なんだけれど、ドラゴンを治すためには最大限の魔力が必要だよ。さあ傷を治すイメージをして、そこに全力で魔力を浴びせかければいいんだよ」とヒルダは優しく言った。
魔力を浴びせかけるってねえ。クリスティーナは体内の魔力を掴み上げるイメージをしてみた。するとまるで雪合戦の雪玉のように魔力が掴み上げられるイメージができたので「うりゃっ!」ってドラゴンに投げつけてみた。
魔力がドラゴンにぶつかると、そこから白い閃光が走り、光が消えた後にはウロコの傷や翼の傷はほとんど見えなくなっていた。出血も止まったようである。
ふと横を見ると、ヒルダが大笑いしていた。「あーっはっは。治癒魔法で『うりゃっ』て唱える子は初めてみた。もう涙が出そう」
うっ、で、でもちゃんと傷は治せたよね。体の中の傷はまだ残っているけれど。
「そうね。でも聖女様が治癒する時に『うりゃっ』て治癒魔法をかけたら周りの人はびっくりするでしょうね。」
「えっ、聖女様って、もしかしてあなた様はお父様のおっしゃっていたヒルダ大聖女様ですか?」
「『大』は余計だけれどね。私はヒルダ聖女。あなたという末裔に出会えて幸せだわ、かわい子ちゃん」
そうなのだ。それなら私は今ヒルダ大聖女様から治癒魔法の手解きを受けたということになる。これって一番由緒正しい指導じゃないの。じゃあやってやろうってことよね。
私は不敵な笑みを浮かべながら魔力を大玉のようにどんどん集めながら「キュア!」と叫びながらその大玉をドラゴンに投げつけてみた。魔力がドラゴンにぶつかると「あ、完全に治った」という感触があり、ヒルダ様も「お、やるじゃん」と言ったような気がするが、もう体の中の魔力がすっからかんになった私は立っていることができずに前に倒れ込み、両瞼が閉じて意識を失ってしまったのである。