2.SE
「太陽が黄色い …」
本来は夜通し放蕩かました人間のほざく言葉らしいが、この現代社会においては睡眠不足すぎて過労死予備軍が思わず呟いてしまう言葉かもしれない。
それをぬるりと口から吐き出して、中年というにはまだ少し早い男が覚束ない足取りで自宅に向かっていた。
向かう先はどこにでも林立している1人暮らし用賃貸マンション。およそ4日ぶりの帰路である。正直、気がついたら会社内で4日経っていた。何を言っているのか自分でもよく判らないが、出社して仕事してメシ食って仕事して仮眠してメシ食って … あれ? って首を傾げたところで血相変えた先輩に会社から放り出されたのだ。
「過労死する気かバカタレッ!」
そんなわけあるか、と思ったが、彼に今日の日付を教えられて愕然とした。うん、やべえ。
日付という確固たる現実を突きつけられた途端、どっと疲労が押し寄せてきて、玄関でバッグを渡してくれた先輩にぺこりと下げた頭が戻らないかと思った。
自覚してしまうと、足を止めたらそのまま寝てしまいそうな睡魔に抗いながら、習慣的に駅を通過して自宅マンションを目指せば、きちんと身づくろいした人々とすれ違う。ぼんやりと、そういえば世間一般じゃ出勤時間だわ、と納得し、これまた出勤するのであろう妙齢の女性とすれ違って自宅マンションに足を踏み入れる。
通勤、通学ラッシュが過ぎ、すっかり人気のなくなった外廊下に、かろうじて立ち寄ってきたコンビニのレジ袋がこすれるガサガサという音がやけに響いた。単身者用のマンションは、皆が出て行く時間に帰ってきた者に冷たい気がして、生あくびを飲み込み、ぶるりと身を震わせる。
「マジ、殺風景だな」
ひとりごちて、ポケットから取り出そうとした鍵を落とした拍子に思わず舌を打った。
「あー、ついてねえ」
実際、会社を出てからここまで散々だった。
改札を通ろうとして何故か定期ではなくスマホをタッチさせ、大いにブザーを鳴らされたし、階段を降りようとしては最後の一段を踏み外してコケそうになったし、弁当を買おうと財布を取り出しては手を滑らせて小銭をぶちまけた。
ついていないというよりは身体的不調による注意力低下によるものなのだが、もちろんそんな考えに至れる余裕もない。
ひどく億劫に感じながら腰を曲げて鍵を拾い上げた指先に、ひるりと何かが掠めたが、気付きもせずにそのままドアの開錠をして久しぶりの我が家に上がる。
その足元に、ひるりひるりと揺らめく何かと共に。
重い足取りで短い廊下を数歩進み、ちらと風呂場に目をやったものの、とてもじゃないが入浴する元気は残っていない。むしろ緩んで倒れるか溺れる未来しか見えない。断じて拒否するありえない。
幸い明日は週末だ、清潔でなくたって誰にはばかる事があろう。目にはもう、ぐしゃぐしゃのベッドしか映っていない。最後の気力で弁当を冷蔵庫に放り込めば、踵を返したときにはもう、上着を脱ぎ捨てていた。
「あー寝るもー寝る絶対死んだように寝てやる」
最近はもう、寝るだけの部屋になってはいるが、長く暮らしていればあれこれ蓄積されていくのが生活雑貨というものだ。これがゴミ袋の数々でないだけ、彼の生活レベルは波レベルなのだろう。
とはいえ、だからといって足元がいささか覚束ない今、あっちこっちにぶつかっては雑誌の山を崩し、こっちのローテーブルに足をぶつけて悶絶し、と、わずか数メートルもないベッドまでの道のりは妙に遠い。
「おー痛、目が覚めたわクソ」
強かに打った向こう脛を蹲って擦っていたその目にふと、雪崩た雑誌が映った。
そこに写ったキャンプシーンは、なんとなく、遠くに行きたい、1人でボーっとしたい、という思いを具現化したかのごとく生活感のない、明るい楽しそうなカップルのものだった。
実際に行ってみれば、この写真のような山中なら虫も多いし、焚き火の火の粉や灰だってカップに舞い降りる。それなのに、折りたたみチェアに座って楽しそうに談笑しているカップルの手にあるコーヒーはめちゃくちゃ美味そうだ。
「―― 絵に描いた餅ってこーゆー事なのかもなあ …」
憧れ、目指して手に入れた時には色褪せてしまう。そしてまた別の何かを求める。人の望みというのは、かくも限りないものか。
―― などと哲学的な考えに至るわけもなく。
ぐーぎゅるぎゅる。
「腹減ったな」
一度目が覚めてしまえば、今度は写真に触発されて空腹を思い出す。
記憶をたどって見れば、何時間か前に固形バーを齧っただけだった気がする。どうせなら腹を満たして寝た方がきっとたぶんよく眠れるはずだ。メイビー。
よっこらせ、とかけ声をかけて立ち上がり、先程冷蔵庫に放り込んだコンビニ弁当を取り出してレンジにかけ … ようとして、手が止まった。
「何でコレ買ったオレ?」
手の中に在るのは最早季節外れの冷やし中華。
そもそもなんでまだ売っているんだイヤ好きだけど!
「たぶんツルッと食べられそうだと思ったんだろうが …」
それならあったかいうどんでも良くね !?
わずか数十分前の自分の決断に疑問を覚えつつも、今手間をかけずに食べられる物はコレしかない。
「疲れてる時に冷たいモンって大丈夫だっけ? 腹壊さねーかなイヤもういいんだけど」
ぶーたれつつラッピングを外し、具トレーをよけて黄色い麺にタレを混ぜると、ゴマの香りがふわりと鼻をくすぐった。
〝ゴマダレだった、良くやったオレ〟
個人の好みでもあるが、今日これで啜ったとたんに噎せてリバース大惨事になりそうな中華ダレでないのは単純に嬉しい。大雑把に具も麺の上にぶちまけて少し割り損なった割り箸を手に
「いただきます!」
と季節外れの冷やし中華に挑みかかった。
食えば腹はくちくなるし、くちくなれば眠気も戻ってくるのが人間というもの。
空になった容器や包装フィルム等をレジ袋に戻してゴミ箱に放り込めば、もう立ち上がるのもしんどいくらいだったが、気力を振り絞って立ち上がり、洗面台で今更ながらにうがい手洗い、ついでに顔を洗って服を脱ぐ。スウェット最強。
「やっべー、絶対やっべー、明日起きられる気がしねー」
はあ、と知らず吐いたため息の下で、きゃわきゃわと笑いさざめく幼子のような声が囁いた。
―― オクレ … オクレ … 。
のろのろと歩き出した男の爪先やくるぶしに、細く小さな黒い鉤爪が追いすがる。
―― オクレ、オクレ … 。
かやかや、きゃわきゃわ、といたずらに仕掛ける幼子のように楽しげに、小さく幽かなたくさんの声が追う。
オクレ … オクレ … 。
… ウフフ … オクレ … ウフフ … アハハ …。
細い爪が男の爪先に引っかかっては零れ落ち、くるぶしにつかまっては外れてころりと転がる。そのたびに、幼子じみた幽かな笑い声がさざなみのように連なるが、数歩歩いただけでもう目が半分閉じかけている男には聞こえない。
そのままぼふりとベッドに倒れ込むや即座に意識を手放した男の体に、黒くか細い爪がいくつもよじ登っていく。
オクレ … オクレ … 。
己の不遇に対する苛立ちを、不備を、負の感情を。
その体にたかる鉤爪達の糧となる負の感情を。
オクレ … オクレ … 。
きゃきゃと楽しげに集って男の体によじ登る鉤爪達の、なんとか細く小さく多き事か。
オクレ … オクレ … ゼンブ、オクレ …。
… ウフフ … ゼンブ … ゼンブ、オクレ …。
いかにか細かろうと、いかに小さかろうと、大の大人1人すっぽりと覆うほどに集いさざめくのであれば、それの醸し出す怖気はいかばかりか。
聞く耳を持たぬ者とてふるりと寒気を覚える程のその影響力、まして今、夢現の狭間にいる者にとってはいかばかりか。
…オクレ …。
オクレ … 。
… ゼンブ …。
オクレ …。
オクレ …!
「うるせえええッ!」
弾けるバネのごとき鋭さで跳ね起きた男は、両手で頭を掻き毟りながらブチ切れた。
「送れ送れうるさいわッ! デバッグ終わったろーが! バッチ当ても終わっとるわッ! リソース完了メールも送ったし詳細報告メールも別途送っとるわ! 先にてめぇの受信メール確認してから督促してこいやッ! 大体デバッグデバッグうるせーよッ! まずころころ仕様変更すんなや終わらねーじゃねーかッ!」
…… しーん。
一息に鬱憤吐き倒した後の静寂にはたと正気づいた彼は、「あ゛ー」と濁音混じりにため息を吐いた。
「いかんわー、ここんとこずっとデバッグ作業だったもんなー。だからって夢の中までしなくていいだろオレ …いやすっきりしたけど」
と、ボサボサになった髪をかき上げ、改めて掛け布団の下に潜り込む。
「―― 寝よ」
程なくして室内に穏やかな寝息が聞こえ始めた頃、彼が跳ね起きた事で霧散し消えた鉤爪のうち、ほんのわずか残ったそれらがようやく我に返ったかのように互いに顔を見合わせてるようなしぐさをする。
… デバ …。
デバ …?
…… デバ … ボウチョウ?
業界用語、専門用語での会話は門外漢には全く届かないのは、世の常である。
それは、世の外に「ある」ものにも。




