たこ焼きの舟は小さな幸せを運ぶ
甘ったるいたこ焼きをどうぞお召し上がりください。
瞼の裏からでもわかる朝日。外のスズメの鳴き声。そして、すぐ近くに感じる大切な彼女の気配。
俺はゆっくりと目を覚ました。すぐに、俺の顔を覗き込んでいた彼女と目が合う。
「おはようございます」
「ぶはっ」
にこやかに挨拶してきた彼女に対して、しかし俺は吹き出してしまった。
彼女は両手それぞれの人差し指と親指で輪っかを作って、自身の頬に押し当てていたからだ。そのポーズは……。
「……おはよう。何だい、それは?」
「たこ焼きです」
機嫌良さそうに答える彼女。いや、それはわかるんだけどね。
「点けていた朝のニュース番組でたこ焼きの特集をやっていたんです。見ていたら食べたくなってしまって」
「それで、たこ焼きなの?」
「たこ焼きです♪」
「ぶはっ! ……くくくっ」
もう一度頬でたこ焼きを作った彼女に、僕は今度こそ吹き出すだけにとどまらず笑ってしまった。
「ふふっ、そんなに可笑しいですか?」
「可笑しくはあるんだけど……」
それ以上に、可愛いことを考える人だと思ってね。
「私、たこ焼きを食べたことがないんです。美味しそうですよね」
「え、食べたことないのかい?」
随分なお嬢様育ちであることは知っていたけれど、まさかたこ焼きを食べたことがなかったとは。
「む。何か失礼なことを考えていませんか?」
「そんなことはないよ。お嬢様」
「もうっ、私がお嬢様扱いされるの嫌いなのはご存知でしょう。めっ」
叱られてしまった。そう言って頬を膨らませる彼女はたこ焼きを通り越してフグのようだ。
美人な彼女は内面を表情として露にすると、たちまち可愛らしくなる。
「ごめんよ。どうしたら許してくれる?」
「お仕事の帰りにたこ焼きを買ってきてください」
「やっぱりか」
「冷めないように早く帰ってきてくださいね♪」
「オーケー、任せろ」
帰り道のどこで買おうかと思案しながら快諾したのだった。
「ただいま」
「お帰りなさい、旦那様♪」
いつも以上にご機嫌な彼女に出迎えてもらった。その理由は恐らく、俺が鞄とは逆の手に提げている袋にあるだろう。
「たこ焼きにしますか? たこ焼き風呂にしますか?」
「そこは、ご飯かお風呂かを訊くところじゃないの?」
たこ焼き風呂って何だよ。湯舟とたこ焼きを数えるひと舟をかけてるのか。
「それとも、私?」
「ぶはっ」
朝に続いて再び頬でたこ焼きを作る彼女に、ダメだ、何度見ても吹き出してしまう。ツボに入ってしまったのかな。たこだけに。
「ご飯をもらいながら、一緒にたこ焼きを食べよう」
「はぁい♪ 私のたこ焼きは要りませんか?」
「…………」
……そんな訳がなかった。上目遣いでそう訊いてくる彼女の頬をそっとつついてみた。
当たり前だけど、カリッとはしていない。
「いかがでしょう?」
「とても柔らかいね」
「では、お土産のたこ焼きは全部私のものということで」
「そんな訳あるか」
少食な君のお腹が爆ぜたらどうするんだ。
スーツから着替えて彼女の手料理を堪能してから、尻尾を振っているかのような彼女の期待に応えて、たこ焼きの袋を開けた。
ご要望通り冷めないよう早く帰ってきたため、まだたこ焼きの熱は十分に残っている。
「いただきます」
爪楊枝をカリッとした皮に刺して、ひと口で丸いたこ焼きを頬張る。皮に反して中はトロッとしている。中のたこの弾力ある食感と、紅生姜のピリッとした塩気と辛味で、ああ、たこ焼きを食べているなぁと実感できる。久しぶりに食べたけれど、やっぱり美味しいな。
彼女の方を見ると、モグモグする頬に手を添えながら瞳を輝かせていた。感想のお言葉を貰わずとも、その表情が全てを物語っている。
ゆっくりと咀嚼してから飲み込んで、彼女は叫ぶようにして言った。
「美味しいです! どうして今までこんなに美味しいものを食べずにいられたのでしょう!」
「そんなに喜んでくれたら、買ってきた甲斐があったよ」
「はいっ! また一つ新しい楽しみに出会えました」
ホクホクと喜色満面な彼女を見ながら思う。
君と一緒に居ると、喜びや楽しみに出会えた時の新鮮さをいつも思い出すことができるな、と。
彼女の側に居られることは、俺にとって些細な日常の中の一番の贅沢なのかもしれない。
その喜びを噛み締められる瞬間を運んでくれたたこ焼きに、今日は感謝したい。