娘のケーキ
娘がケーキを作っている。
普段料理はおろか、家事手伝いもほとんどしない娘が。
台所に立っている。
物珍しくて、私は入り口のガラス戸ごしにそっとのぞいた。
どこから買ってきたのか、簡単手作りセットなる大きな箱から、ごそごそと材料を取り出している。
紙でできた型を丁寧に組み立てながら、鼻歌なんか歌っている。
娘は高校1年生だ。
そして今は2月。
それが何を意味しているのか、鈍感な私でもわからないはずがなかった。
あまり見ていると怒られそうなので、私は台所をあとにした。
しかし今はお昼だ。
台所にカップ麺があったはずなのだが、どうにも入りづらい。
2階から息子がどたどたと降りてきた。
「父さん、腹減った」
息子は受験生だ。
毎日部屋にこもってずっと勉強している。
私はともかく、がんばっている息子にカップ麺じゃあまりに不憫だ。
「何か買いに出るか。春樹何がいい」
「モス食べたい」
「よし、行くか」
冬美に何がいいか聞いてきて、と息子に頼んで、私は出かける準備をした。
息子と車に乗り込んで、発進させる。
「冬美は何がいいって?」
「フィッシュバーガーだって」
フィッシュバーガーか。昔、小学生くらいの頃は、必ずテリヤキチキンバーガーだったのに。食べ切れなくていつも残していたが。
いつの間にそんなヘルシー志向になったんだ。
「冬美、何作ってた?」
さりげなく息子に聞いてみた。
「ケーキだった。チョコケーキ。見んなって怒られた」
息子は苦笑した。
「鈴木くんにあげるんだな」
意外にも息子は事も無げに言った。
「鈴木くん?」
私は一瞬助手席の息子を見た。車が少し揺れた。
「冬美と同じ吹奏楽部の。部内でめっちゃ噂になってるらしいよ」
「冬美の同級生?」
「いや、俺の同級生」
赤信号に差し掛かって、私は車を停めた。
「1年のとき同じクラスだった」
「どんな人?」
野暮だな、とは思いながら、つい口をついて聞いてしまった。
「いい奴だよ。女子にはもてないけどね」
「・・・いい奴は概してもてないもんだ。父さんももてなかった」
息子は笑って、確かにそれはある、と言った。
信号が青に変わって、再び車を走らせた。
しばらくして息子が口を開いた。
「・・・でも、もうすぐ卒業なのにな。早く告っちゃえばよかったのに」
「え、付き合ってはないのか」
「ないよ。だってあいつあの性格じゃん」
確かに冬美はおとなしいというか、おっとりしているというか、ぼーっとしている娘だ。
だけどその性格は父親譲りなのだから、私は何も言えなくなってしまう。
あの子も、自分と同じような苦労をするのだろうか。いや、女の子は多少おっとりしていても許されるはず。それとも今の時代はもう違うのだろうか。
悶々と考えていると、バーガーショップに到着した。
息子はチーズバーガー、私はテリヤキチキンバーガーを買い、2人で帰路に着いた。
家に戻って、台所をのぞくと、ケーキが焼き上がっていた。
ふっくらと丸い形に仕上がっている。
しかし、美味しそうなケーキを前にした娘の表情は強張っていた。
さりげなさを装って、台所に踏み入った。
「ただいま。買ってきたぞ」
「あ、うん」
返事はそっけないものだった。
「ちょっと混んでてな、遅くなった」
「うん」
「ここ置いとくから」
「うん」
「冷める前に食べなよ」
「うん」
うん、の声が段々苛立ってきたのを察して、私はそそくさと台所から去っていった。
戸を閉める瞬間、
「まずい」
冬美がつぶやいたのがはっきりと聞こえてきた。
テリヤキチキンバーガーを食べ終えて、しばらくテレビを見ていたが、やはりどうにも気になって私は再び立ち上がった。
台所をのぞくと、娘がケーキを食べていた。
立ったままで、紙の型に入ったままのケーキにフォークをざくざくと突き刺して、黙々と食べていた。
その姿は殺気立っているような、泣いているような。
やはり失敗作だったのだろうか。あんなに美味しそうだったのに。
しかし、娘の後ろのオーブンは稼働していて、何やら焼かれているのが目に入った。
「何してんの父さん」
背後から息子の声がした。
「あ、いや」
息子は気にせず台所に入っていった。
娘は驚いて、ケーキを頬張った口元を手で隠した。
「何食ってんの冬美。立ったままで」
「ん、む」
「ケーキ?これ全部ひとりで食うの?」
「むぐ」
娘はどうにか飲み込んで、
「別に、欲しいならあげるよ」
「まじで」
さっきハンバーガー食ったからちょうど甘いもん欲しかったんだよね、そう言って、息子はケーキに手を伸ばした。
おいおい、いいのか春樹、冬美が好きな人のために作ったものを。
「お父さんも欲しいならあげるよ」
私に気付いていたのかいないのか、娘は廊下で立ち尽くしていた私に向かってそう言った。
「いいのか?」
「いいよ。失敗したやつだし」
娘はナイフを取り出して、残りのケーキをきれいに2等分にして私と息子に与えてくれた。
「これでバレンタインは無しね」
そう言って娘は散らかした台所をせっせと片付け始めた。
娘の手作りのケーキ。
なんだか目頭が熱くなるのをこらえて、フォークを刺した。
なんだ、どこが失敗なんだ。美味しいじゃないか。
娘にそう告げようとしたところで、オーブンが鳴った。
さっきの暗い表情はどこへ行ってしまったのか、娘はいそいそとオーブンを開けた。
「また何か作ってんの?」
息子が聞いた。
「クッキー焼いた」
ケーキを失敗したから、クッキーに変更したのだろうか。
「随分がんばるなあ」
息子の苦笑いを、娘は真っ赤な顔で睨んだ。
「ごちそうさま」
食べ終えて、空の皿を台所に置くと、娘はクッキーをかじっているところだった。
「今度はどうだ」
試しに、聞いてみた。
怒られるだろうか。うるさい、とか、別にいいでしょ、とか言われてしまうだろうか。
娘は咀嚼しながらちょっと考えて、
「いい感じ」
と笑った。
笑った顔は妻に似ていた。
水玉模様の小箱に、鳥、人、花、熊、そしてハート形のクッキーを詰めている。
リボンを結ぶ手は相変わらず小さい。
幼い頃から不器用で、靴紐すら結べなかった娘の手が。
誰かを想って、リボンを結っている。
全く、大きくなったものだ。
いつかこの手を離れてしまうのだろうか。
「行ってきます」
14日の朝、娘は元気に学校に出かけていった。
「・・・結果分かったらさ、報告するから」
娘が玄関を出たのを見計らって、息子はにやりと企んだような笑みを残して出かけていった。
なんでもないはなしです。