待合室
霧のような雨は傘をさすほどでないように感じられるにもかかわらず、意外と濡れる。
私は不承不承さしてきたこうもり傘をかじかんだ手で畳み、診療所の扉を開けた。
扉を開けた途端、暖かいが妙に甘いような淀んだ空気が鼻にぶつかってきた。病人やら不潔な者やらが集まったことによるお馴染みの不快なにおいで、思わず空気の入れ替えをしたくなるやつだ。
しかし私がもう一度扉を開けようとしたのを見計らったように、大きな咳払いが聞こえた。扉近くのソファに座る老婆が大仰に、といっても私にそう見えるだけなのだろうが、頭を振り振りストールを巻きなおしている。
私はおとなしく受付に向かうことにした。
「受付番号は203番です」
「今からどのくらい待ちますか?」
「そうですね、30分から1時間くらいでしょうか」
なるほど。混んでいそうに見えても意外と回転の早い病院らしい。
そのくらいならば午後の商談にも十分間に合うな、などと思いながら私は中央に空いていた席に腰かけた。
今日は木曜日、現時刻は午前9時30分だ。本来の私ならオフィスの机で資料をまとめていたはずである。
私は今年24歳、そこそこ大手の企業に勤めるサラリーマンだ。意志の強そうな目ですね、とよくお褒めの言葉をいただくくっきりした二重の目にきりりとした眉、はつらつとした喋り方。
一人称も大学の時の「俺」から「私」に変えてバリバリ働いている。本日も日々の成長を認められ、他の同期よりも少し大きな商談を任せていただいたところだ。
しかしどうにも一昨日から続く胃の不快感が気になる。飲みすぎたわけでもないし、変なものを食べた記憶もない。……思い当たることといったら、家の近くの川から物凄い異臭のする日があったことくらいだろうか。
ちょうど胃に不快感が訪れる前の晩、家とこの病院とを隔てて走る川から強烈な何かの匂いがしたのだ。あれは一人暮らしを始めたころに腐らせてしまったひき肉と、同じく腐らせてしまった卵と、さっき扉を開けた時に鼻をぶっ叩いた病気の香り、これらを混ぜたような匂いだった。思い出すだけで身震いがする。
次の日の朝には何事もない川に戻っていたが、もしこの所為で半休を取る羽目になったのだとしたら市に原因を突き止めてもらわなければ。
まあ、そういうわけで今日は仕方なく午前の休みを取り、近くの病院に来たというわけだった。ちなみにこの辺には2年前に越してきたばかりで、この病院は徒歩5分の距離にも関わらず存在すら昨日調べるまで知らなかった。
席に腰かけると、ふと向かいのソファに心細そうに座っていた青年に目がついた。歳は私より少し若いくらい、おそらく大学生だろう。擦り切れたジャージのズボンに、中学時代から同じものを着ていそうな、ずらずらと謎の英字が並んだ黒いTシャツを着ている。手元のダウンジャケットを落ち着かなさげに弄っているのを見て、私は他人事ながら情けない気持ちになった。
まったく、気を使われるべき病人になってまで他人の目を気にしておどおどしているとは。友達もおらず夢もないタイプで、これまでの人生で負け組の意識が染みついているのだろう。そう生きるしかなくなってしまったいわゆる「社会の底辺」を目の当たりにすると、彼の自業自得とはいえ気の毒だな、などと老婆心のようなものが湧いてくる。
そんな気持ちが視線で伝わったのだろうか。青年の揺らめく目がこちらを向く。
と、青年の顔は恐怖に歪んでいた。
茄子のように青ざめ、哀れなほど冷汗にまみれている。
私は、不思議なことに、彼と目があった瞬間、全ての音も匂いも感じなくなった。世界には深い理解で結び付いた私と青年しかいない。
彼は私と目が合うと、ゆっくりと瞬きをし、こわばっていた口を動かそうとした。私には、彼が伝えようとしているその言葉が何かとても重要なことだと分かった。
「受付番号200番の方、診察室へお入りください」
受付の女性の無機質な声が流れた。
瞬間、私と青年を包んでいた殻の中のような静かな世界が崩壊し、待合室の雑音が戻ってきた。彼は手元のダウンジャケットを両手でつかみ、頼りない足取りで診察室に消えて行った。
なんだったんだ、今のは。
私は今しがた訪れていた不思議な感覚を恋しく思った。ついさっき小馬鹿にしていた彼に、たしかに初対面のはずなのに、ずっと同じ場所で生きて来たような親しみを感じたのだ。
胃だけでなく頭までおかしくなったのか?
私は雑念を追い出すために頭を軽く振った。きっと、あまりに体調の悪そうな彼に同情の心が湧いたのだろう。もう診察を受けているのだから気を回してやるひつようもあるまい。
今考えるべきなのは午後の商談をいかにして成功させるかだけだ。
しっかりと正気を奮い立たせ、商談の資料へと目を落とす。
外では雨が上がり、小鳥がさえずりながら枝から枝へと飛び回っている。
午前の受付は終了したのか、新たに来院する患者はいない。
一体いつまでかかるんだ!
私は資料を乱雑に鞄につっこみ、診察室の扉をにらみつけた。待てど暮らせど私の番が来ない!30分から1時間程度とは何だ、もう2時間くらい経過している。
そもそも先ほどの青年は帰ったのだろうか。私が資料に集中しているうちに診察を終え、会計を済ませて帰ったのなら良いが。
ガチャリ
タイミングよく診察室の扉が開き、青年の姿が現れた。
黒いスニーカーに黒いジャージ、黒いTシャツ、黒い上着。入って行く時とまったく同じ真っ黒な姿。そこに、真っ黒な目が追加されていた。
彼は私を真っすぐに見つめたが、その瞳からはもう何も読み取ることが出来ない。
一瞬知己のようにさえ思われた彼は、全く知らないものになっていた。
私は病院にたったひとりだった。
青年の、待合室に踏み出した一歩がぐにゃりと曲がる。
青年は形をなくした足でぐにゃりぐにゃりと歩き、目の前のソファに腰を下ろした。
私はたったひとりだった。
右隣に座っていた子連れの女性、左隣に座っていた職人風のおじいさん、今やすべてが彼らではなくなっていた。顔も年齢も身長も認識できない。曖昧にぶれて少し透けている黒い物体。
私は無意識に資料の入った鞄を抱えていた。唯一の味方に思われる鞄は、随分と脆い。
懸命に立ち上がると、周囲の物体が、私が彼らの仲間になるのを待ちわびているかのように周りを圧迫してきた。
不快な匂いが強くなり、耳鳴りがする。身体の全体がひんやりとし、何か柔らかいものに触れられている。
「受付番号203番の方、診察室にお入りください」
私は歩いていない。ただ、もはや力の入らなくなった足を物体が運んでいる。
あの青年も同じだったのだろう。「社会の底辺」、馬鹿馬鹿しい言葉だ。私も青年も揃ってちっぽけな世界でちっぽけな病院に行き、わけのわからない大きな物体に食いつくされるのだから。
診察室のドアノブは凍るように冷たく、中には闇が広がっていた。
2019.12.4