拳銃を手に扉を進む
………………脳髄が痺れていた感覚がした。けれども氷が解けるかのように五感を塗り潰していた何かが晴れていく。土と血の臭いがした。吐き気を催すような腐臭にも等しい香りだった。
「アイラ……!!」
ジェイルは我に還ると同時、少女の名を呻くように呼んだ。けれどもその声は反響するだけで答える者はいない。……ああ、そうだ。彼女は自分を撃ったのだ。手は間に合わなかったのだ。思い出すとまた虚無感に襲われて膝をついて嘆いた。
どちゃりと泥が跳ねるような音がした。この体は膿んだ肉の塊にも等しき醜悪な姿のままだった。アイラは命を掛けて助けてくれたのに、なんて自分勝手なのだろうか。
絶望の淵にたたずみながら、ジェイルは虚ろな瞳で周囲を見渡した。抉れるように広がった空間。空を振り仰ぐもあまりにも遠く、地上さえ見えない地の底にいた。しかし暗闇ではない。何かが光っていた。ぼんやりと神秘的な白の輝きがそこにあった。
それは巨大な扉だった。白く検討のつかない材質でできた扉だった。周囲は熱で揺らぐように空間に歪みが生じて、光が乱れて不気味な虹が出来ていた。
「フハハ……ジェイル・シルヴァー。面白いと思わないか…………? 天国の門は光の届かぬ地の底で造られたのだから。ハハハハハハ……」
かすれた声が聞こえた。視線を向けるとそこにメイザスは立っていた。まるでぼろ雑巾のように傷だらけで汚れていた。しかしそれ以上に、身体の大部分が消えていた。腕、顔の一部、胴体……さえも消失していた。今こうしている間にも魔素が小さな粒子となって離散している。死は免れない状態であった。
ジェイルは虚構を見るかのように、それを一瞥した。
「……お前は助かラない」
「そんなこと言われずとも承知だ。……だから消える前に言っているんじゃあないか。ジェイル・シルヴァー、アイラがいなくていいのか? この扉さえ開ければ元通りだ。それの何が悪い」
メイザスは依然として笑っていた。問わずとも分かるくせにこの男は最期まで全てを掻き乱そうとする。
「今俺の前にイる男はメイザス自身か? アイラはリティシアか? 違ウだろ。魔術なんテ完璧じゃない。俺のこの姿だって一つの証明ダ。この身体を構成シていた物質はどこか異次元に消え失セた。もはや俺が俺であるかスらだって怪しい」
「馬鹿な。お前はその拳銃を握る手だけが変わっていないことすら忘れたのか。それがお前である証明だというのに」
息が止まるようだった。ジェイルは醜悪な肉骨の兜の奥から赤く濁った目で自身のその手を見詰めた。アイラを、拳銃を握る腕だけが何もかもが化け物に成り果てたなか、人間性を保っていた。メイザスを消し去ろうとして、そのことすら自覚できなくなっていたことが動揺を促した。
「それに考えてみろ。確かに門は同じ別人を作り出す可能性はある。それどころか魔素と感情が不十分ならば何も起きすらしない。だが本当に蘇る可能性はある。大切なのは可能性に身を置くことなんじゃあないか? 彼女が望んでいたことを考えるんだな…………フハハハ、ははは……」
メイザスは乾いた笑いを発すると、限界を迎えたのか糸が切れたかのように倒れた。ついには魔素が完全に分散してしまい、そこには刃の折れた剣が一本残るのみであった。しかしその剣さえも硝子が割れるような音を響かせて、粉々に散ると霧散していった。銀の鍵が二本、重なり合うように地面に落ちた。
「…………可能性」
アイラは今からでも助かるというのだろうか。ゆっくりと、光り輝く門へ目を向けた。その手を伸ばし、門を開かなければ絶対に彼女はこの世界で死の眠りから覚めることはない。ジェイルは扉の目の前まで歩み寄った。門は言葉にできない力で満たされていた。魔素のみでは語れるはずのない……神々しさ、それこそ人間の超えてはいけない高みにまで近づいた感覚がした。
だがこの扉が奇跡を起こしアイラが戻ろうとも、アイラが前の彼女自身であることを見分ける術はない。……それでいいのか? 彼女は怖がっていた。涙を流して、死ぬことよりも恐れていた。
『いつかワタシの存在そのものが無かったことにされるような感覚が、全てが上手く行った先、そこに立つのがワタシであってワタシでないのが怖いのですよ』
一人の少女の声が、表情が、ノーサウでの光景が脳裏に浮かぶ。この体では涙も流すことはできなかった。ただ腐ったかのように黒々と流動性のない血が数滴ほど垂れて地面に浸みていく。
「俺ハ……俺はどうすればいい」
悩んでいる時間はあまり無かった。扉をこの次元に保つ魔素が少しずつではあるが流れていた。
『――――今日のワタシを忘れないでくれますか? 明日ワタシがいたとして、それが同じワタシだったとしても、それでも今日のワタシを忘れないでくれますか? いままでのワタシを忘れないでくれますか?』
再び彼女の言葉を思い出していた。……アイラはあらゆる可能性を考慮したからこそ、明日の自身についてさえも言い触れたのだろう。
「可能性……」
陰鬱な圧迫感と先の見えない未知が恐ろしく思え、この腕は、金縛りのように動けなくなった。死後膠着でもしたかのように、体全体が固まり、動けなくなりそうだった。それでもあの言葉を思い出すと、指先がピクリと動くことができ、必死の思いで腕を伸ばした。降り注いだ運命の終着点が見えていた。
眼前には玉虫色に輝き闇を照らす扉があるというのに、その扉に触れようとするのはまるで深淵を掴むかのように曖昧で恐ろしいものだった。……ジェイルは拳銃を手に持ったまま、もう片方の手で扉に触れた。天国の門は押し戸だった。
あと少しだけ力を込めれば、それで開く。決断は済ませた。
ゆっくりと扉が開かれ、足元から未知の霧が立ち込めていた。鋭く、先の見えない閃光が扉の向こうから入り込んでいた。だがもう躊躇いはしない。地獄から救われたのだ。何も恐れるものなどない。
ジェイルはアイラを握り締め、見えない背を追って、扉の向こうへと――――行った。




