新月の夜
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鉄道を数回乗り換えて、窓からの景色は段々と見慣れた街並みへと変わっていく。そのころには完全に夜の張が下りて、深い闇色が空を覆っていた。帰路の途中、朝は恐ろしいくらい騒がしかった街は今は閑散としている。
初めてこの世界に来たときと同じくらいに魔素が漂い、濃霧を形成して全てを朧げにしていた。道を照らすガス灯の明かりでさえもぼんやりと、曖昧である。幻想的で、どこか不気味な街並みを過ぎて、拠点にまで戻った。裏路地を通り壁を押して玄関に着く。するとすぐ目の前でチェイサーが待っていた。悠然とした眼がこちらを睨み、微笑んだ。
「よく帰ってきたね。魔素で分かるとはいえ、そのまま逃げないか不安だったよ」
それはアイラへの発言だった。口調、表情はチェイサーそのもののなのに、その声を耳にしただけで鳥肌が立ち、冷や汗が垂れた。
アイラは酷く冷たい声で淡々と答えた。
「……皆は無事ですか?」
「安心するといい。大丈夫だよ。アイラには見えているだろう? まぁ皆気付いていないのだけれどさ。辛かったね。じゃあ、場所を変えようか。巻き込みたくはないだろう?」
アイラは氷のように張り詰めて、感情を押し殺しているようだった。……蛇が首に巻き付くような不快感。どうしてかチェイサーに近づきがたいものを感じていた。
「……少し外に出ようか。今日は新月だ。ジェイル、君がこの世界に来たときと同じでね」
アイラは無言で頷き、重そうに手を引っ張った。
「チェイサー、ずっと思ってたんだが今日はおかしくないか? なんで今日だけは外に出ても平気なんだ? 確かに襲われなかったが…………」
「それを知るいい機会だろう。少し散歩でもしようか。街の広場まで」
嫌だと言うわけにもいかず、流されるままにまた外に出た。さきほど歩いていた道をまた歩き、魔素の霧なか広場へと着く。
石畳の地面が円状に広がり、中心にはこの世界での偉人とおぼしき者の石像が建っていた。その周辺を街灯がぼんやりと照らし、ベンチが淋しげに並んでいる。しかしそこに座るわけでもなく、チェイサーは何かに思いを馳せるかのごとく遠くを見詰め、ゆらりゆらりと歩き揺れた。
「それでアイラ? せっかく時間をあげたんだ。どうだったかい? デートの結果は」
緊張していたのに急にそんなことを言われるものだから、ジェイルは冷えた空気を勢いよく吸い込んでぶざまに咳込んだ。
一方、アイラは不快感からか目を細める。
「…………あなたには関係ないでしょう」
「そんなこと言わないでくれよ。君達がお互い深い所にまで歩み寄れたなら、それは想いの力が強くなったということだ。想いは、感情こそが真に不可能を可能にする魔法のようなものだからね。その様子だと上手く言ったみたいだね。よかったよ」
チェイサーは諭すように優しい声でそう言った。だがその表情は普段の彼とは違い飄々と言うよりはあまりに異質で、どうしてか一筋の涙を流し、微笑んでおり不気味であった。本能的なものか、ジェイルはごくりと唾を呑んだ。
「……なんで泣いてるんだ?」
「嬉しいからさ。ようやく全部が終わると思うと…………ああ、十七、いや、十八年か? 実に長い時間だったよ。ジェイル・シルヴァー……喜ぶといい。リティシアもエドワードも肉体が死んでしまっただけで魂は別のところにあるんだ」
……意味が分からなかった。あまりにも突然で、非現実的だという以前にただ恐ろしい執念のようなものを感じた。
「意味が分からない。死んだらそれで終わりだ。だから俺がジャックに殺されかけたときも怒ってくれたんだろ。……おかしいぞチェイサー。今日は特に……薄気味悪い。笑えない冗談はやめてくれ」
「意味? そうだろう。分からないだろう。理解してはくれないだろう。しかしつくづく思うのだよ。どうして死が別れなのかと。寝るという行為だって死んでいて、全く同じ記憶と性格を引き継いだ別人かもしれないじゃあないか」
ジャックは大空を振り仰いだ。朧げな光のなかでも星は輝いていた。乾いて凍えた風が通り抜ける。どこかで何かが軋む音がした。異質。これ以上この話題について追及することが怖くて、ジェイルは来た道を戻るように一歩後ろに下がろうとした。しかし、アイラはこちらの服の裾を強く握り締めたままその場を動こうとはしなかった。
「…………もういいでしょう。いつまで演技を続けるのですか」
アイラは酷く軽蔑するような、もしくは同情するような眼差しをチェイサーに向けた。ぴくりと、彼の表情が強張る。
「君もなかなかじゃあないか。その鉄面皮でもオレには感情が見えるぞ。魔素を伝ってな。怒り、悲しみ……。人間になったつもりか? まぁ、確かにこれぐらいでいいか。時間もちょうどいい頃合いか」
瞬間、濃霧が歪んだ。不自然な突風が吹き付ける。明らかに魔術が使われていた。理性が目の前の男を危険だと訴えていた。ジェイルは顔を歪め、どす黒い憎悪を押し隠せずにいた。
「そんな顔をするんじゃあない。どうした? 何か言いたいことがあるのか? 言ってみろ」
その男はもはや隠そうとはしなかった。口調、こちらを見下す双眸。目の前の男はチェイサーであって否であると理解できてしまった。
「お前は誰だ」
底冷えた声だった。ジェイル自身こんな声が出るとは思わなかった。琥珀の両眼が刃のごとく鋭くチェイサーを睨み付ける。自然と、全身に力が篭る一方で手が震えた。
「そうか。まだきちんとした自己紹介をしていなかったなあ。もう二週間か、短くそして長い時間だった。なかなか楽しかった」
沈黙が張り詰めた。時限爆弾を前にしたかのように心臓が鳴動し、血脈が激流のごとく全身を巡った。
「オレか? ……【金の十字架】を背負った者さ。メイザス・ダロウェイとでも名乗ろうか?」




