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狭間の国のメモラビリア  作者: 終乃スェーシャ(N号)
五章:狭間の国のメモラビリア
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テセウスより愛に泣く

 それからは激流に流されるかのようだった。地下鉄の切符を購入しようと苦戦するアイラを手伝い、発車しようと動きはじめた蒸気機関車に飛び乗る。それから改めて劇場の酷さについて話しているうちに、まるで魔法にでも掛かったかのように胸奥にあったはずの黒い渦巻きは無くなっていた。


「上流階級の人ほど生活は自由でも服装はまるで牢獄です。コルセットなんてまるで拷問です。そのくせに振る舞いは海賊のようで素晴らしいでしょう。ワタシがどれだけマシか実感するべきです」


 鉄道の一等車両の座席で、アイラはうんうんと頷きながらそんなことを言った。顔をこちらに向けながら手はというと器用に籠を開け、どこに隠していたのか洒落たティーカップと紅茶まで用意し始めていた。籠のなかにはさほど大きくはないサンドウィッチが六つ入っていた。


 ジェイルは好奇の眼差しをそれに向けながら、期待をもって尋ねた。


「作ってくれたのか?」


「ええ。籠とティーカップとポット以外は」


 それは言われずとも分かる。


「アイラが料理できる印象ないな。何を挟んでるんだ? まさか本当に骨粉とか鉛白とか混ぜてないよな?」


「ワタシを馬鹿と同列扱いするのは止めなさい。それとも欲しかったのですか? はい、パンは明礬と粘土それに貝殻の粉、挟んでいるものは鉄と硫酸ソースに黒鉛です。紅茶は硫酸第二水銀と酸化銅を隠し味に入れております」


 アイラは軽蔑するようにジロリと睨み、不満げに頬を膨らませながら恐ろしいことを言い始めた。けれどもジェイルが慌てて悪かったからと謝ると、すぐに機嫌を戻してクスリと笑い、やや早口で本当の説明をし出した。どうやら言いたかったらしい。


「先に言いますが挟んでるものはたいしたものではありませんよ? ええと、右からエシャロットを炒めたものと焼きラム肉、それにマスタードを挟んだもので、真ん中のがピクルス、チーズ、ハム。最後に紅茶で煮た林檎と少量の溶かしたチョコを挟んだデザートです」


 アイラは説明を終えると、早く食べろと目線を送った。威圧的にその童顔をすぐ近くにまで寄せて、評価を寄越せと言わんばかりに貧乏揺すり。


 緊張が走った。なぜだか漠然とした恐ろしさが喉元をくすぐったが腹を切る勢いで口に入れてみると、意外なほどに美味で、それこそ店で出されてもなんら遜色もないくらいだった。


「旨い……!」


 素直に感想を述べると、アイラは突然、机を勢い良くたたき付けた。乾いた空気のなかそれは発砲音のようなもので、乗客の視線が集まる。


「お世辞ではありませんよね? こういうところで気をつかわれるのは好みません」


「俺がお世辞を言うタイプだと思うか?」


 アイラは返答はしなかった。ただ目と鼻のさきまでに近付いた顔を素っ気なく戻し、白銀の髪を弄る。そして心底嬉しそうに笑った。


 …………その後は狂ったようにこの世界を堪能していた。アーチェリーでアイラが精密機械のような精度を見せて自慢してきたりだとか、路上で曲芸を披露していた男に無理矢理楽器の演奏をさせられたりだとか、優美なクラシック音楽が流れるなか踊ってみたりだとか。


 今日この一日は一瞬のように時間が過ぎて行った。けれども何十時間、いや、何年もの時を圧縮したかのような一生を刻む時間だったと断言できる。


 今は、最後に一カ所行かなければいくべきところがあると言うので再び鉄道のなかでガタゴトと揺られていた。線路は地下ではなく地上にあるおかげで窓から景色は暇にはならない。


 中心街を離れ、広大な田園を縫うように進んでいた。青々とした平野に石を積み上げただけの壁が走っている。夕日に染まり淡いオレンジ色になっていた。遠くでは巨大な山岳が連なっている。


 履き慣れていない靴で、一日中遊び、歩き回って疲れたのかアイラは小さな寝息を立てて眠ってしまっていた。その華奢な身体が寄り添って、ひんやりとした心地が伝わってくる。


『次はー、【銀の十字架と金の日没駅】。【銀の十字架と金の日没駅】です』


 その奇妙な名前をした駅はアイラのいう目的地であった。駅が近くにあるというのに、街が見えるわけでもなく、長閑な田園が広がっていた。


「アイラ、目的地に着いたぞ」


「……んむぬぅ。ハッ!? いえ、その、あの、寝てなどいません。とにかく下りますよ」


 駅に出るとそこは本当に何も無い……平凡な農村であった。広大な畑に点々と小さな民家が建っているだけの、そんな場所だった。小麦は既に収穫されてしまったからか、一面のクローバーが広がっている。


「この村には何かあるのか?」


「……ええ、楽しいものではありませんが、ジェイルは知るべきです」


 アイラは真剣な表情を保ち、砂利道を歩き出した。それは小高い丘の上まで伸びていて、石の階段を上がって行った。最後の一段を上り切ると周囲を一望することができた。


 地平線まで伸びる畑、線路。蒸気機関車がゆっくりと遠ざかっていた。黄金色の太陽が沈み出し、空は絵に描いたように幽玄な色合いで、長閑だが美しい光景だった。……草原の香りがした。同時に、どうしてか見ているだけで言いようのない懐かしさと愛郷の念が募る。


「――――ここは、一体?」


「ここはノーサウ村です。宿敵であるメイザスの生まれた村で、【黄金の夜明け】が結成された地で、あなたの両親が眠る地です。エドワードの棺桶が空で無くなったのは最近ですが」


「ああ……だから、銀の十字架」


 ジェイルは無意識のうちにそんな言葉を呟きながら、亡霊のような足取りで草の上を歩いた。空を振り仰ぎ、太陽を見つめる。アイラは手を引っ張られ、それに付いて行ったが、不意にクイクイと引っ張り返した。


「……ワタシには記憶があります。生まれたときから、エドワードの悲しみから生まれました。彼の思い出が鎖のように縛りついて、どうすればいいか分からなくなっていました。それでもジェイル、ワタシはあなたに救われました。ワタシの存在理由…………!! ジェイル、ジェイルのおかげで自分に嘘をつく卑怯者にはなれなくなりました。でも自分に正直に嘘をつく卑怯者になりました」


 その言葉の真意は理解できなかった。それでも心臓をえぐり取られるような力があって、忘れていた不安が舞い戻る感覚がした。耐え切れず、ジェイルはその顔に陰を差した。


「ワタシは、ワタシのために、ジェイルに辛い想いをさせるでしょう。どうか怒ってください。恨んでください。ですが…………お願いがあるのです。冗談ではなく心の底からの、それこそ一生に一度の。聞いて……くれますか?」


 ふわりと一陣の風が吹いた。葉を散らすような寒く、力強い風で、少女の髪が大きく揺れた。純白が黄金の光を反射し煌めいた。


 ひたむきな想いが向けられていた。……向け返した。どうして断れるだろうか。いや、断れるはずがなかった。ジェイルは深く頷いた。


「――――今日のワタシを忘れないでくれますか? 明日ワタシがいたとして、それが同じワタシだったとしても、それでも今日のワタシを忘れないでくれますか? いままでのワタシを忘れないでくれますか?」


 少女の蒼い瞳が燦然として、声は潤んでいた。吹き荒む風のなか、やがて雨のように涙が手のひらに流れ落ちた。少女の手はいつだって冬の空気のように冷たかった。けれどもこの涙だけは焼けるように熱い気がした。次の瞬間、蠢いていた不安が限界を向かえて、ジェイルは恐る恐る尋ねた。


「なんで……そんなこと聞くんだ?」


 次の刹那、アイラは手を後ろに回し力強く抱きしめた。無造作に顔を押さえつけられ、成されるがままに少女の唇が重なった。


 柔らかで、全身が愛おしさに包まれていく。ジェイルも同じように少女の体に手をやった。まるで今生の別れのごとく長い……長い時間そうしていた。一生の全てがそこにあるかのような時間だった。


 やがて、夕日のなかゆっくりと口付けは終わった。アイラは惜しむように一歩後ろに下がり、この長い一瞬に想い馳せるように指を唇に当てた。


「――――ワタシが弱くて、愚かで、ジェイルが好きで堪らないからです!」


 一瞬、その声が誰のものか分からなかった。草原のなか裏返った声が響く。アイラの声はまた萎んで、それでも段々と大きくなっていく。


「…………好き……好き、好き。好きなんですよ。ジェイル、ジェイルのことが。それで、傷つくのを分かって、こんなことをして…………それでも怖いのです。いつかワタシの存在そのものが無かったことにされるような感覚が、全てが上手く行った先、そこに立つのがワタシであってワタシでないのが怖いのですよ…………」


 アイラは震えていた。どうして彼女がそこまで自身の存在を不安視しているかは分からない。自分に何ができるだろうか。信じてと言った彼女に対し、どうしてやるべきなのだろうか。


 ジェイルは一歩近づいた。そして――――少女の苦痛が少しでも鎮まるようにまた抱き締めた。力強く、優しく。


「誰が忘れたりするか……! 誰が忘れたりするか!!」


 魂を吐き出すように言った。アイラの小さな肩が怯えるように縮こまった。ジェイルは少女に寄り添うように顔を近づけ、燃え盛る激情のままに言葉を続けた。


「アイラはアイラだ。弱くて馬鹿だったとしても、本当は誰よりも感情豊かで、それを押し隠す心の強さがあって、こんな俺を救ってくれて、変えてくれたアイラだ。俺はそんなアイラが好きだ。一生を賭けてもいいと、言えるくらいにはだ」


 いつから自分はこうも熱血漢になってしまったのだろうか。恥ずかしい台詞だ。けれども言わずにはいられなかった。


「…………ありがとう。……嬉しい、です。その言葉は、今この瞬間は永遠にワタシのもの……。ワタシは、やはり悪人ですね。……ありがとう、ジェイル、優しいジェイル。…………許してとはいいません。ごめんなさい」


 アイラの涙で服が濡れていく。不快感はなく、むしろ清々しいものだった。体に掛かる重さ、冷たさ……感覚の全てから愛おしさが込み上げてくるのだ。


「大丈夫だ。……何を怖がる必要ある。言っただろ。アイラは何も悪いことはしてない。謝らないでいい。大丈夫、大丈夫だから……」


 ジェイルはその華奢な背中を摩り、すすり泣く少女を支え続けた。……小さな嗚咽が消えて、瞳から流れ落ちる涙が止まったとき、太陽は雄大な山岳の影に落ちて、夜の訪れを示していた。空を占める夜色が増していく。新月だからか月は見えなかった。


 アイラは、ありがとう、もう大丈夫ですとだけ言うとゆっくりと立ち上がった。頬を伝う涙の跡を拭い取り、満ちた笑顔をこちらに向ける。


「……帰りましょうか。シンデレラのように、全てには時間が伴うものですから」


 少女はそう言って手を伸ばした。ジェイルは自然とその手を握り返す。


「灰かぶりはどっちかっていうと俺のほうだけどな」


「そうですか? 恰好いい銀色だと思いますけど」


 薄みがかった橙と段々と濃くなる群青の空の下で、白銀と銀が靡いた。お互いが互いの光景を見詰めるなか、アイラは名残惜し気に線路を見下ろして、目を閉じながら言った。


「…………チェイサーが待っていますから」


 どこか機械的な声だった。

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