滑稽な運命
――――建物は荘厳で、広々としたロビーと三枚の重い扉の先に席があった。舞台を中心に円状に広がっており、五階建てで、一階や最上階は映画館のように席が並んでいた。けれども自分達が座る場所はボックス席という特殊な席で、いくつかの椅子がある小さな個室であった。壁には鏡や棚さえあった。
「こういう場所は行ったことないからあまり分からないけど、こんな個別の席……というか部屋か。まであるんだな」
ジェイルが感慨深くそんな感想を口にしながら椅子の一つに座ると、アイラはどこかしたり顔を浮かべた。その幼げな頬にクッキリと自慢が描かれる。
「この席は二階の中央で最も見やすい席です。一階の平土間ですと、最上階の天井桟敷からゴミが落ちてくることがあるらしいですから、同情致します」
ゴミが落ちてくるというのはにわかに信じがたいものの、確かに、楽々と舞台を見ることができるうえに、隣に見知らぬ人が座って不快感を覚えるようなこともなさそうであった
「高かったんじゃないのか? その同情すべき席とやらにいる奴、全員正装してるし」
「この劇場はエドワード式魔術使用許可を得ています。その対価の一つとして、【暁の星】の団員はタダ同然です。素晴らしいでしょう。それに――――」
アイラは不意に顔を俯け、そこで黙り込んだ。少女はそのまま無言ですぐ傍まで歩み寄って、予想だにもしないことに椅子ではなく、さも当然の権利であるかのようにジェイルに座ったのだ。
次の刹那、絹よりも白く艶のある髪が手や頬をくすぐった。甘く優しい匂いが嗅覚をどうしようもなく刺激するなか、アイラの柔らかな感触が座られた脚から伝わって、ジェイルは顔を真っ赤にして硬直した。
「それに、多少甘えても……誰も口笛を吹く者はいないでしょう」
アイラは蠱惑的な声で耳元に囁いた。しかしジェイルの脳は恥ずかしさやらで軽いパニックを起こしており、とてもではないが現実を許容できなかった。
……アイラがこんなに甘えたりだとか、わざわざ歩きにくいヒールを履いてまでお洒落をしようとしてくれるだとか、あまりにも願望が滲み出ている。が、夢ならば説明がつく。いわゆる明晰夢なのではないだろうか。
「……夢ではありませんよ? 確かに普段のワタシは好き好んで笑ったりだとか意欲的に行動することはないですが、今日は違います。いままでが無自覚な怠惰だったのです。できるときにしなくて、一体何ができるのかと思ったのです」
その声には明確な遺志が、言葉には困惑した思考を呼び戻すだけの力があった。
ジェイルは我に還って一言だけ詫びの言葉を発すると、アイラのことを見詰めた。顔と顔がすぐ近くにあった。少女の身体は想像以上に軽い。……冷静になればなるほど五感は鋭敏になって見惚れざるをえなかった。
同時に、危機感にも近しい感覚が沸き上がり、強引にでもアイラを引き剥がさなければと思った。
ジェイルは惜しい気持ちや恥ずかしさを隠しながら、降参するかのように声を発した。
「あー……えっと、なんだ。参った。さすがに恥ずかしいというか、堪えられない」
てっきりアイラは馬鹿にしてくるかと思ったが、どうやらその考えは違ったようだった。少女は余裕を保とうと頬を引き締めていたが、生娘のごとく耳を赤くして、素直に隣の席に着いた。どうやら彼女も無理をしていたらしい。
「仕方ありません。ジェイルはお子様ですから、刺激が強すぎたようですね。ふふふ……。それにちょうど始まるみたいですよ?」
その言葉通り、舞台に降りていた赤地の幕が上がった。そこには中世ヨーロッパを彷彿とさせる衣装に身を包んだ役者達が立っており、観客に一礼をすると主役らしき男が代表として挨拶をし始めていた。
――――いざ劇が始まると酷いものであった。観客は皆ドレスコードをしていたものだから、それこそ英国紳士のような人なのかと思ったが、役者に対して遠慮なく野次を飛ばしたり、騒ぎ立てたりする。まさか本当に上の席からゴミが落ちてくるとは思わなかった。
話の内容は『ロミオとジュリエット』そのものだった。登場人物の名前と、最後のオチ以外はだが。どうしてこういう劇は必ず歌を挟むのかだけは理解しかねるものの、恋人が死んでしまい、悲観に暮れる場面などは特に考えさせるものがある。
なによりアイラが劇にのめり込み、ぶつぶつと怒りを呟いたり、涙を拭っているのを見るのは新鮮だった。
今はというと、劇も終わり街の広場に出たところだった。時刻は昼頃で、彼女の言うがままに歩かされている。
今日のアイラはもはや不気味なほどに機嫌が良く、快活であった。劇で言葉にしがたい話の結末を観てもであった。
「アイラはあのオチどう思うんだ? 正直、俺には理解できそうにない」
『ロミオとジュリエット』といえば悲劇だ。ロミオはジュリエットが死んだと思い込み自殺してしまい、ジュリエットも後追いをしてしまう。この劇もそこまでは同じだった。違うのは二人が死んだあと神様が現れてゾンビとして二人を蘇らせてハッピーエンドという滑稽な喜劇に一瞬で成り代わったということだ。客には大ウケであったが、随分と酷い大衆化だ。
そのことにアイラも若干の疑念は抱いていたのか、僅かに言葉を詰まらせた。けれどもすぐに優しく微笑んで、未来を見通すような双眸がこちらをジッと正視した。
「確かに滑稽でした。まるでジェイル、あなたのようです。ですが嫌ではないです。……好きです。だって、もしワタシがあの話のヒロインであったならば……滑稽でもいいから一緒になりたいです。死んでしまっても、また会えるなんて、素晴らしい奇跡ではありませんか?」
こそばゆさより危うさが上回った。なぜか途方もない喪失感がしてドクンと心臓が跳ねた。緊張が伝わってしまったのか、アイラが不安げに見つめながら手に爪を食い込ませる。
「痛っ! なにすんだよ」
「いえ、センチメンタルが転移してしまったかと思いつい」
「アイラが急に怖いこと言うからだろ。自分のことみたいにさ。冗談として捉えられるほど俺は楽観的になれない」
今日に限らず時折、今にも消えてしまいそうな表情に重い言葉を残して、そのたびに心臓が止まりそうだった。アイラは怯えるように肩を竦めていた。
「殺させはしない。命に代えてでもだ」
次の瞬間、アイラはまた安らかに微笑んで、何かを呟いた。しかしその声はあまりにも小さく、ジェイルの耳には届かなかった。
「っ? なんて言ったんだ? アイラ」
「なんでもありませんよ。ジェイル、それよりも早く駅に向かいましょう。次なる目的地はだいぶ遠いのです。ちなみにですが最近はパンを白く見せるために骨粉や鉛白を練り込むのがブームらしいです」
この話はこれ以上続けないでくれと懇願するかのごとく、瞳のなかの光が蝋燭の火のように揺れ動いていた。
「……卑怯だと思うぞ。その顔。それとちなみにから話題が変わりすぎだろ」
「前にも言ったでしょう。ワタシは元より卑怯者ですよ。それとも忘れておりましたか? ワタシが卑屈でもあることを。それとワタシに関していえば鉛程度無毒です。鉛玉込められた時期もあったからでしょうかね。どうにせよ安心です。ワタシは」
ジェイルが深く溜め息をつくなか、アイラは何事もなかったかのようにクイクイと手と袖を引っ張っていった。




