麻の花のように
窓から長らく見ていた景色がすぐ目の前にある。いままで街を出たときといえばジャックを追ったときやこの世界に来たときぐらいで、まともに見て回るのは初めてのことであった。
夜のときとは違い、多くの人々や馬車が行き交い、街は活気に満ち溢れていた。煉瓦作りの建物が連ねる街並みは美しく、大通りにある屋台もまた情緒があった。
正直な話、この街そのものについてはあまりいい印象は無かったが、改めて見ると素晴らしいものに思えた。ジェイルが無意識のうちに感嘆の声を零すと、アイラはまた微笑んだ。
「どうです? 辛いことも多いですが、ワタシはこの街は嫌いではありません」
少女の吐息が白く霧散していく。しかし天気がこの上なく快晴であるためか、特別寒い感覚はなかった。太陽の光に照らされながら、ジェイルは笑みを返した。
「……悪くはないかもしれない」
「こうして街を歩くのは初めてでしょう。気をつけてください。油断しているとスリに会うので」
輝かしいまでの活気とは裏腹にそうした暗部があることは既にこの目にしたことはあった。半分はジョークなのだろうが、あながち冗談でもないのだろう。
「アイラもさらわれるなよ?」
「守ってくれるのでしょう? ワタシを使って」
アイラは大袈裟なくらいに手を握る力を強めた。ただそれだけで馬鹿みたいに驚いて、バクバクと心臓が高鳴った。けれどもこの反応は彼女の狙い通りだったらしく、少女はしてやったぞとばかりに瞳を妖しく輝かせていた。
「はは……悪い奴だな。それで? 成すがままに街を歩いているような気もするけど、行きたい場所とかはあるのか? さすがにこの街のことは分からないぞ」
辺りを見渡して見るも、建ち並ぶ建物が店か民家なのかも分かりづらい。時折、パブのようなものもあるが、判断材料は看板以外なにもない。食べ物にしてもそこいらにある屋台を見る限りやや衛生面に不安を覚えた。
「安心してください。この通り今日の予定は全て構成済みです」
アイラはどこからともなくメモ帳を取り出して、誇らしげに見せ付けた。そこには小さく丁寧な文字で今日のプランが書かれていたが、よく見ずとも幾度となく書き直したであろう二重線の痕跡や加筆があった。
……何日も掛けて考えてくれたに違いない。そう思うと愛おしさがより一層込み上げて、ガッツポーズの一つでもしたいくらいに嬉しかった。
顔がニヤけてしまうのを隠せずに、もどかしさから頭を掻くと、それが嬉しいのかアイラはまた笑みを浮かべた。
「まずはコヴェントガーデン劇場に行きます。迷子にならないように、…………手を、手を離さないでください」
「……はいはい」
アイラと共に街を進んで行く。ただでさえ混沌なまでに活気に満ち溢れていた町並みはより一層騒音めいて、脳を痺れさせるような情報量を抱いていた。
高さ数メートルはあろう帽子に広告チラシを大量に貼り付けて店を宣伝する者や、路上でトランペットを演奏する男の滑らかで喧しい音が五感に入る。
「なんというか、商売根性逞しいな」
「だからこそ注意してください。いつチョコレートに粘土が混ざるか油断になりません」
それが冗談なのか本気なのかジェイルには分からなかった。まもなくして、視界に大きな建物が入った。白く塗られたレンガ造り壁に淡い緑の装飾。円柱状の柱がまるで遺跡のようだった。堅固で壮麗な雰囲気を漂わせている。
その周囲は街のなかでも特に賑やかで、上流階級らしき人が優雅にドレスを揺らしながら歩いていたり、はたまた、歩いているだけで次々と物売りが寄ってきた。
こういうのは一つ買えばたかられるものだと思い、ジェイルは気付かないフリをしていたが、一人のまだ幼い少女が売り物である真っ赤な林檎を見せ付けるとアイラはそちらに興味を示した。しめたとばかりに林檎売りは一歩前に出る。
「コヴェントガーデン劇場に行かれるのですよね? でしたらこの林檎を買いませんか? 素晴らしい役者様の劇を観ながら食べる林檎は格別ですよ!」
次の瞬間、アイラは白銀の髪をご機嫌に揺らして、こちらに爽やかな笑顔を向けた。まただ。今日に限っていえばアイラは年頃の、快活な少女にしか見えない。
「いいですね。臭いも正常です。では二つ貰いましょうか」
「ありがとうございます! 合計4ペンスになります!」
アイラがガサゴソと財布から金貨を一枚渡すと、少女は大袈裟なまでに驚いてそのお金をすぐさま返した。
「お、お釣りが払えません!」
「釣りはいりません」
淡々と一度は言ってみたい台詞をアイラが言ってのけると、林檎売りの少女は団栗眼を大きく開いていたが、やがて小躍りして喜び何度もお礼を口にしていた。
アイラはしばしその様子を見ていたものの、不意にまっすぐとこちらを見詰めた。
「……ジェイル、あなたがジャックに情けないくらいにやられて、ワタシがみっともないくらいに醜態を曝したときのことを覚えているでしょうか」
その瞬間、さきほどまで見せていた笑顔を無くして、真剣な顔付きへと変わった。ジェイルは胸のざわつきを抑えつつ、真摯に答えた。
「……覚えてるとも。人生で初めて本当に殺されそうになったんだからな」
「あのときのことはずっと感謝しております。……あのとき、ジャックに殺されてしまった少女のことを覚えておりますか?」
「覚えてる」
忘れられるはずがない。ジャックのことを思い出すとすぐに垣間見ることができる。何も出来無かったことが今でも心苦しくて、夢に出てしまうときさえあった。
「あのときワタシは何も出来ませんでした。そしてどうしてかそのことを思い出してしました。気付けばあんなことをしていました。でもこれは殺されてしまったあの少女のおかげで、林檎売りの子の生活が助けられたと――――死んでしまっても誰かの役に立てたと思っていいのでしょうか。それともワタシだけが奉仕したことになるのでしょうか?」
その姿はまるで亡霊そのもので、手を握っていても透き通ってしまいそうな儚さがあった。太陽の逆光が、少女を照らし輝いていた。
……最近の、特に今日のアイラはやはりどこかがおかしい。けれども『信じてくれ』という言葉が喉元の奥深くにまで突き刺さってそのことを言及するに至れない。胸中で不安は蠢き続けている。
ジェイルは答えを言い淀んだ。何かこのことが巨大な運命を変えてしまう気がした。
「……俺は」
「いえ、いいのです。忘れてください。ここ最近感傷的になってしまいまして」
アイラはぶんぶんと首を振ると劇場へ向かわせようと手を強く引っ張った。ジェイルは彼女の手に従いながらも、我ながら何を言っているのだろうかと思うが、アイラの問いに答えた。
「俺は、物事には原因があるんだからあの子のおかげでと考えていいと思うけどな。まぁアイラが行動したおかげでもあるのは間違いないけどさ」
アイラはぴたりと動きを止めた。手を握る力が弱まって、ジェイルは咄嗟にその手を離さないようにした。すると少女は僅かに肩を震わせながら、強張っていた表情を緩ませた。青い瞳うっすらと涙を浮かべ、優しげな笑みをこちらに向けた。
「ジェイル、ジェイルはやはり優しいですね。……ジャックのときから知っておりましたが、あなたは本当に人を駄目にする天才です。まるで阿片です」
心臓がまた跳ねた。しかし、彼女の言い回しは独特で照れよりもおかしさが勝った。
「それは褒めてるのか? けなしてるのか?」
「さぁ?」
少女は道化のように首を傾げた。その笑顔は花のようで、彼女の言い方を真似るならばケシの花のように綺麗で、邪悪なまでに魅力的であった。




