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狭間の国のメモラビリア  作者: 終乃スェーシャ(N号)
五章:狭間の国のメモラビリア
54/68

『無題』

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 メイザスという人が襲撃してから五日ほど経ちました。これを書いている今はもうその日の夜で、窓の外は陰鬱なまでに暗い夜で、雨がドシャ降りでした。すぐ隣で水の流れ落ちる音が絶え間なく続いています。


 私は、ジャックという人に襲われたことがキッカケでこの世界、昔のイギリスみたいなところに来ました。怖かったけれどおかげでジェイルとまた会えて凄い嬉しかった。けど、私は告白もまともにできずフラれてしまいました。


 平気なフリをしてジェイルとチェイサーの訓練の様子を見ていたりするけれど、上っ面から心の底まで、人前では必死に泣き顔を溌剌はつらつな笑顔に変えているけれど、限界が近いのでこうやって普段はサボるばかりの日記を書く。誰にも読まれないように、日本語で。この世界の言語も訛りはあれで英語ですから、私以外には読めません。


 私が彼を好きになったのは、子供みたいだけれども、心身をズタボロにされていたときに助けてくれて、手を差し伸べてくれたからでした。私にとっていわば王子様みたいなものでした(恥ずかしいからあとで消すかもしれません)。


 けどジェイルも私と同じくらい、それ以上に辛い思いをしていて、だから今度は私が助けなきゃと思った。でも、ダメだったみたいです。「ありがとう」って何度も言われたけれど乾いていたし、むしろ私の所為で余計な罰を食らったときさえあった。   だからです。


 きっとあの子が、アイラが彼を本当の意味で助け出せたからジェイルは好きになったんです。でもズルイじゃないですか。卑怯じゃないですか。生まれたときからそんな深い関わりがあったなんて。


 私のほうがずっとずっと長くいたし、好物とか仕草とか細かく見てるし、一緒に話してたのに。たった二週間で、なんで、こんなことになるんでしょうかね。  ああ、  心を落ち着かせようと 思っ て書いて ぃたのに、涙が、こみ上げてくる。寂しい。むなしい。諦めたくない。

 でも、もう決着はついている。分かっている。だから泣きたくなるんだ。


 ――――『無題』



 ユイは音を立ててペンを机に置くと同時、漆黒の髪を掻いた。身体の奥底から大きな溜め息を吐き出して、ゆっくりと席を立つ。……風に当たりたかった。いや、頭を冷やしたかった。そうでもしないと誰にでも八つ当たりしてしまいそうだったし、泣きじゃくりってしまう確信があった。


 窓を開けて涼もうとも考えたが、雨が降っていたので止めた。廊下が涼しかったと思い、部屋を出ることにした。夜も遅く、廊下の照明は既に消されており、足元もおぼつかないほど夜と同化していた。気温も同様で、鳥肌が立つ程度には寒かった。ガラスのように透き通った空気が喉に突き刺さる。皆もう寝てしまっているのか聞こえてくるのは雨音だけで、酷くわびしい。


 ユイは特に何かをするわけでもなく、ただなんとなく壁に寄り掛かった。背中にひんやりとした感覚が伝わってきて、熱の篭った体が心地よさを覚えた。同時に腹の底からこみ上げる寂しさに耐え切れなくなって、とめどなく涙が出てしまい、少女はその場に座り込んだ。膝を立てて、そこに頭を埋める。


 それでも嗚咽だけは抑え続けた。声が聞こえたら恥ずかしいし、何よりジェイルにだけはバレたくなかった。余計な心配を掛けさせたくなかった。いや、確かにそうではあるが実際はそうやって、頼らないでも大丈夫だという優越感を得たいだけだったのかもしれない。余計なプライドだ。考えてみると吐き気がするくらい滑稽で、なんとも惨めな気分になる。


 そうしてしばらくの間、だんまりと体育座りをしてすすり泣いていたが、不意にすぐ近くで人の気配がして、ユイはハッとして顔を上げた。そこにいたのはチェイサーだった。怪異のような赤い瞳と、猫のような緊張感のない眼。いびつに変質した頬で、彼は朗らかに笑みを浮かべていた。


「やぁ、……何かあったのかい? よければ僕が話を聞くよ」


「……ちょっと涼みたくなっただけです。私のちっぽけな悩みなんてあなた達が抱える問題と比べたらミジンコ程度のことですよ。本当に」


 自分で言って、自分で傷ついて涙腺がまた緩んでしまい、ユイはそれを隠すように服の袖で涙を拭った。そんな彼女にチェイサーは手を伸ばした。


「無理はしないでいいよ。誰にでも辛いことはあるだろう? それにこんなところにいたら風邪を引いてしまう。向こうの世界と違ってここでの病気は深刻だ。ほら、来るといい。お茶を用意してあげるから」


「……はい」


 ユイはその手を握って立ち上がった。真っ暗な階段を降りて、二階のリビングにあったソファの一つに腰を下ろす。柔らかな布地が深く沈んだ。


「ほら、どうぞ。砂糖とミルクは好きに入れてくれ」


 カチャリと小さな音を立ててティーカップが置かれた。紅茶の香りと湯気が空気を漂う。口にすると暖かなそれが体の芯にまで伝わって、心が安らいだ。それが表情に出てしまったのかチェイサーがどこか嬉しそうに微笑んだ。


「よかったよ。落ち着いてくれて。なんだか昔の僕を見ているみたいで辛くてね」


「心配をかけてすみません……。ただ、なんだかどうしてもああせずにはいられなくて…………」


 ユイは揺れるような細い声でそう言うと、恥ずかしさやら悲しさが入り混じってどうしようもなく顔を逸らした。


 そんな少女を、チェイサーは心底懐かしむように見ていた。その手は微かに震えていた。


「よければ話してみるといい。そういうのを溜め込んでいくと、本当に取り返しのつかないことになる。大切なものを自分から遠ざけて、自分を見失ってしまうからね」


 そのときは掴みがたいような笑顔はなく、真摯な瞳がこちらを見据えていた。――――言えば、楽になるのだろうか。でもそれは完全に諦めるということで、言葉が詰まった。


「私は、私は、……失恋しました。ずっと、ずっと、ジェイルのことが……ぇぐ、好きだったけど…………ほら、くだらないでしょ。――馬鹿みたい」


 そうやって自嘲してやると、なんだか歯止めが聞かなくなってまたボロボロと涙が出た。嗚咽を堪えることもできなくなって近くにあったクッションを力強く抱きしめた。まるで子供みたいに声を出して泣いた。


「……辛いだろう。オレもそうだった。ああ、本当に昔の自分を見ているみたいだ。存分に泣くといい。そうすれば空っぽになる。そうすれば前に進めるはずだ。…………本当に、本当によく似ている。でも君には、やってもらわなければならないことがあるのだから」


 その最後の呟きは、むせび泣く少女の耳には届かなかった。

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