穿かれた溝
どれほどの時間が経過したかは分からない。さほど経っていなかったかもしれない。それなりに落ち着きを取り戻したアイラと共に、ジェイルは二階の広間でコーヒーを一口ばかり啜った。
心地よい香りと不快な苦味が嗅覚味覚を刺激する。……正直、ミルクを入れたとしてもコーヒーは好きにはなれない。しかしアイラがあまりにも悠々と飲むので、断れなかった。
――――気まずい。メイドやチェイサー達のことは不安で、下手に話題にすることもできず、かと言ってただ話をするとなると、さきほど彼女の背中に手を回し、その華奢な身体を抱きしめたことを思い出してしまい、会話が続かなかった。
カチコチと、時計の針が刻まれる。耐え難い沈黙が流れ、部屋を漂い続ける。ソファに長い時間座るものだから、熱が篭って居心地が悪い。もう一度、あの冷たさを感じたい。そんなことを考えていたときであった。
不意に上の階から慌しい足音がして、珍しく狼狽した様子でウォッチャーが階段を降りてきた。何事かと思い、視線を向けると、彼は年季の入った相貌に喜びの笑みを浮かべて声を発した。
「メイドが起きたぞ。目を覚ました……!」
「本当か!?」
――――絶望的だと思っていた事を知らされ、ジェイルは条件反射的に立ち上がった。持っていたカップからコーヒーが零れ服に掛かる。それは不意に湧いた期待と同時に熱でもって痛覚を刺激した。さきほどまで泣きじゃくっていたアイラがほんの少しだけ笑っていた。
「すぐに向かおう」
ジェイルは適当なハンカチで零した跡を拭き取ると、アイラの手を掴んだ。……よかった。あとはチェイサー達が帰ってきてくれればまたやり直せるはずだ。無表情の仮面を外した少女が、本当に笑ってくれるはずだ。
ジェイルは無意識のうちに空いている方の手で握り拳を作りながら、メイドのいる部屋へと向かった。……暖かな雰囲気を醸し出す幾何学模様の絨毯と壁紙のある部屋で、その少女はベッドの上で眠たそうな表情をしながらも、赤い活発的な髪を整えていた。
……本当に生きて、動いているのをこの目で見ると、どうしても目頭が熱くなった。ジェイルはひとまず安堵しながらも、顔色を伺いながら不安げに尋ねた。
「怪我とか体調は大丈夫なのか?」
「はい! ウォッチャーのおかげで身体はこの通り。お腹の傷は少し残っちゃいましたけど、私なんて見せる機会ありませんし」
メイドは軽やかに笑顔を浮かべて、残ってしまった傷跡さえも笑い飛ばした。しかしアイラはそんな彼女の姿を見て、顔を真っ青にして手を震わせた。
「……魔素がない。…………1ミリも。空っぽになってしまっています。呼吸で僅かに入っても、穴の空いたコップのように、漏れてしまっている」
何か取り返しの付かないことをしてしまったような子供が、言いあぐねた末に搾り出したかのような声だった。あまりにも小さくて弱々しい。
彼女の発言を誰も理解できずに、奇妙な沈黙が走った。やがて我に返ったメイドが魔術を発動させようと、腕を振るう。それは彼女のトリガーだったのだが、……何も起こらない。
ジェイルは思考し、自身の身に起きたことを思い出す。
「お、俺も怪我をしてしばらくは魔術を使えなかった。きっと、きっとそれじゃないのか?」
が、アイラは即座に首を横に振り、淡々と、否、苦しんだ上でそれを当たり前のように押し隠して声を発した。
「魔素の流れが違う。何かが【治癒】できていない。どんな物体だろうと魔素を持っているから魔術ができる。けれどそれがない。入っては零れて…………魔素が蓄積できていない」
メイドは放心して自身の両手を眺め、メイザスに貫かれた場所である腹部を優しく撫でると悲しいようなやるせないような表情を浮かべた。
「…………そう、……ですか」
それは長いため息のような声だった。それでも彼女はすぐに大袈裟に声を出して、自身の力不足を自責していたウォッチャーに、感謝の言葉を発した。
「いいんですよ! でも、だって生きてるだけで奇跡じゃないですか!! 私、本当に死んじゃうかと思って、それで、その……だからいいんです! 命と引き換えって考えたら安いくらいですよ! だから、その、その!」
メイドはあらん限りの笑顔を保ちながら、嗚咽して、涙を流し始めた。魔術はある種の繋がりだったのだ。たとえそれが無くなったとしても誰一人だって彼女を追い出すなんて真似はしないが、その繋がりを断ち切られた心情は到底理解できるものではない。
……皆を傷つけないようにと、メイドは必死で快活な笑みを浮かべるていたが、その姿はあまりにもいたたまれなくて、ジェイルは歯を強く噛み締めた。
――――元に戻れると思った。メイドが目を覚まして素晴らしいいままでの生活を期待した。無論、メイザスの存在を忘れたわけではない。死んでしまった人たちのことを忘れるわけではない。ただそれでも、幸せだったのだ。
しかしその砂上の楼閣は、僅かに出来た狭間の時間は、確実に終わりを迎えようとしていた。




