剥がれ落ちた仮面
ジェイルも一人、階段を上がって行った。これほどまでに一段一段が感慨深く思えるのは、初めてこの世界に来たとき以来かもしれない。……思えば、始まりはアイラの差し伸べた手だったのだ。だから、だから――――。
階段を踏みしめる足が段々と力強く、速くなっていく。アイラは、アイラはどこにいる。二階の広間にはいなかった。食堂にも、ならば三階へと足を進め、鍵が閉まっている部屋の前へと辿り着く。シャワー室だった。部屋の向こうからくぐもった雨音のような水の流れが聞こえた。
「っうぅ――――――」
その水音に溶け込んで、苦しげに痛みを堪えるようなうめき声が確かに聞こえた。あまりにも弱々しい。今にも潰れてしまいそうな声で、ジェイルはより一層顔を険しくする。だが声は荒らげない。今ここで声を出してしまえば、彼女は決して部屋から出てこなくなってしまうだろう。そんな気がしたからだ。だからただ部屋の前で、廊下の中央で待ち続けた。
アイラと交わすべき言葉を考え、考え、思考して、周囲の空間や音のほとんどを遮断して、ただずっと空虚な手が空気を掴み、握り拳を作っていた。
時間の感覚は分からなかった。ただある時になって、――――ガチャリと目の前の扉が開いて、視界にアイラの姿が入った。絹糸よりも純白で柔らかな髪はポタポタと雫を落としてながら艶やかに揺れていていた。普段着ている胴衣はその華奢な腕のなかにあり、今は白い飾り気のない白いシュミーズのみを着ていた。広がった襟から露出する肩には拭き取れていない水が残っており、外気との温度差によって少しばかり湯気が立っていた。
彼女は慌てる素振りを見せたりはしなかった。ただ青黒い空のように虚ろな双眸がこちらを見上げていた。だんまりと、無表情。あまりにも精巧に造られていて、本物に見えた鉄面皮。なんて儚げで、脆いものだったのだろうか。
「アイラ、……話してくれ」
緊張の糸が四方八方に張り巡らされ、五感に障る。それでもジェイルは意を決した面持ちを保ち続け、厳粛な態度でアイラに目を合わせた。
「――――何をです? ワタシに話すことなどありません。どいてください」
少女は刹那、目を見開くもすぐに無表情を取り戻し、鋭利な刃物のような目付きを向ける。だがジェイルは臆することなくその場に立ち続けた。
「俺は頼りないか? 教えてくれ。話してくれ……!! なんでそんな表情をするんだ。泣くのを堪えて、何も傷ついてないって誇示しようとして、……なんて言えばいいか分からないけどさ、頼ってくれよ。俺は、俺はお前のそんな表情を見たくない」
「ならば見なければいい。ワタシはずっとこの表情で生きてきた。何も問題はない。だから道を開けてください。あまりワタシを怒らせるなら容赦はしません」
アイラは拳銃を抜くかのごとく、その小さな手の指先をこちらの頭部に突き向けた。それはただの素振りではなくて、その手が発砲の仕草を真似れば即座に弾丸が飛ぶ。……アイラの魔術のトリガーであった。
だが彼女の攻撃は見慣れたものであり、ジェイルにとってそれを受け止めるのは容易なことだった。淡々と【硬化】を唱えて、少女の指先から放たれた弾丸に類似した何かを受け止め、どこかへ弾き返す。
そして、アイラが二発目を撃ち放つ前にジェイルはその手を強く、優しく握り締めた。ビクリと、少女の肩が震える。手は底冷えていて、どうにも頼りなかった。思えばこの世界に来るときも、彼女の手を握っていた。――――その手に助けられたのだ。だからどうにかしたかった。
「頼む…………!! 頭のおかしな奴だと思っていい。俺は……アイラを、助けたい。支えになりたい。この手を握っていたい。離したくない!」
いつからだったかは分からない。ただ気付いたらそんな想いが溜まっていき、膨れ上がっていた。手を離せば風が過ぎ去るようにどこかへ行ってしまいそうな気がして、もう振り払われないようにもう一方の手も掴んだ。
再びアイラの肩が揺れる。蒼い双眸はこちらの手を交互に見つめ、やがて顔を俯かせると、か細い糸のような声を発した。
「…………ごめんなさい。……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……ワタシは――――卑怯者です」
瞬間、彼女自身も予想していなかったことに。その偽りの表情はあまりにもたやすく崩れてしまって。
「うぅ……っ。う」
その感情の奔流は涙となって、手に落ちて流れて、狭い廊下に嗚咽が響いて、アイラは脱力するようにその場でへたり込んで、すすり泣いた。
ジェイルは膝立ちしてその場に居続けた。アイラが頭を寄せて、泣き続けるのを手を握って、指を交えたまま支えた。自責、悲しみ、怒り。どれほどの激情が満ちているのか。だが魔術の暴走は起こらない。
けれども彼女の涙が、声が、剥がれ落ちた仮面の内側にあったか弱い少女の姿が偽物だとは断じて思わなかった。




