遺書
リボルバーの銃口は硝煙のようなものが漂っている。おそらく最初の二発はその拳銃が撃ったに違いない。そんなことを自分自身ありえないくらい冷静に観察していると、男はステッキを壁に立てかけると、こちらに手を伸ばした。
「初めまして……ではないんだけど、多分覚えてないよね。ハハ。僕はチェイサーって偽名だ。よろしく」
「……ジェイル・シルヴァーだ」
誰だこいつは。初めましてではない? 嘘だ。こんな時代を一世紀以上間違えたような服を着た男を、それも深夜いきなり発砲するような奴と知り合いになった覚えはない。
しかし、なんと突っ込めばいいのか分からず、ジェイルはとりあえず自分の名前を発しながら、チェイサーと名乗った男の手を掴み、立ち上がった。
「やいジェイル! てめえか!? こんな不審者呼びやがったのは! この恩知らずめ! てめえが親に捨てられたのを誰が拾って育て――――」
バイロンの母がヒステリックに怒鳴り散らし、ショットガンを持ったままのしのしとこちらに歩み寄った。そのときである。ゾクリと、背筋が凍るような感覚がしたかと思うと、バイロンの両親がその場で風船のように浮かび始めた。あまりにも現実離れした光景だった。
ジェイルは唖然として目を見開いてそれを見詰めていた。しかし、すぐ隣に立っていたチェイサーが、これまでの人生で見て感じてきた怒りや激情とは比べ物にならないような、それこそ人殺しも厭わないような恐ろしい形相に変化したのを感じて、背筋を凍らせた。
「……エドワードが、捨てただと? 冒涜も大概にしろ。彼がどれだけ子供のことを心配したと思っている!!」
瞬間、バイロンの両親は天井に叩きつけられ、地面に自由落下した。二人の巨体が床に落ちた衝撃がビリビリと足を伝っていく。チェイサーはこの超常現象をさも当たり前のように眺めると、床に這い蹲る彼らの手を踏み躙った。
「ジェイル・シルヴァーの手を握ったとき分かったぞ。お前らまともな食事をやってねえだろ? それどころかストレス発散のためにサンドバックにしてやがったな?」
「ひ、ひぃぃ!」
チェイサーが刃のような双眸で二人を見下ろすと、彼らはみっともない悲鳴をあげて蹲った。
「幾らの金を渡したと思ってる。ジェイルの生活費として豪邸が何軒も買えるような金は渡したはずだ。世話代としてお前ら二人にその倍額は渡したはずだ。なぜ、彼は栄養失調になりかけている。なんでスラムに捨てられた餓鬼と変わりないような目をしてやがるんだ! アァ!? 言って見やがれこの豚畜生が!」
チェイサーが腕を振り上げると、バイロンの両親は再び天井に叩きつけられ、床に自由落下した。相当な衝撃が全身を襲ったためか、二人は白目を向き、泡を吐いて気絶していた。
「なぁ! おい!」
ジェイルは大声で呼びかけた。チェイサーは優しげな笑顔でこちらを見ると、なんだい? と尋ねた。
「……俺の親が俺を捨ててなかったとしたら、両親はどこにいるんだ。なんで俺がこんな目になっても何もしてくれなかった。俺は親の顔だって知らねえんだぞ。親の遺伝でこんな灰みたいな髪になった所為で、ずっと苛められもした。なのに父さんも母さんもどうして――――!!」
「君の母……リティシア・シルヴァーは君を産んだときに亡くなった。君の父は……君を守るために何十年間と戦い続け……ついこの間、殺されてしまった……。だから僕はここに来た」
……亡くなった? 両親共々? 戦い続けた? 誰と? ……まだ一度も顔も見たことないのに? 冗談じゃない。そんなことがあってたまるか。皆は仲良く楽しく家族と暮らしているのに、何故こんなわけの分からない異常事態の中、両親が死んだなんて言われなければならない。
ジェイルは自分を捨てた親を恨み、バイロン達への怒りをほぼ全て自分の両親に向けていた。しかし、いざ死んだと言われると、どうしようもないくらい胸中に焦躁感が渦巻いて、無意識のうちにだらだらと冷や汗を掻きながら、恐る恐るチェイサーの顔を覗いていた。
彼の顔はさきほどまでと一見すると変化がないように見えた。だが言葉は震えており、喪失感と怒りに満ちていることが理解できた。今の発言が冗談だとか嘘には到底思えなかった。
「信じられないと思うが、君の両親はこの世界の人間じゃない。あ、僕もね?」
「……意味が分からない」
「今は分からなくてもいい。けど数日中に分からなければ駄目だ。君は今この瞬間も、命を狙われているのだから」
「誰にだ。お前にか?」
「君の父親を、エドワードを殺した奴にだ。僕はエドワードに頼まれてここに来たんだ。そしてこれが……彼の遺書だ。君だけが読むことを許可されている」
チェイサーは世界の命運でも握っているような、深刻で影の差した表情をして、丁寧に畳まれた一枚の紙を手渡した。
ジェイルはしばらくの間、その紙を握り締めたまま呆然として見つめていたが、意を決すると折り畳まれた紙をそっと開いた。
『――――俺が死んだとき、この紙はチェイサーが渡すことになっている。どうか彼を信じてほしい。彼が言う異なる世界も、科学を無視した現象もすべて現実だ。そして、これからお前に困難が降り注ぐだろう。けれどどうか、生きてくれ』
紙を持っている手がひどく震えた。指先の感覚が棒のようになっていた。目はろくに瞬きもできずにいた。
――――こんな遺書を見せられたからといって、いままでずっと蓄積し続けた怒りが晴れることはない。だが父に、母に激情を向けて、17年間もの間心の中で罵り続けていたのが馬鹿みたいで、何も知らされなかったから知らずにいた自分に対して、吐き気がするくらい嫌悪感を覚えた。ビリビリとひりつくような臭いがした。
じっと読み進めていると、段々と涙腺が熱くなり、歯を食い縛っても涙が零れてしまった。ぼたぼたと、水滴が紙に落ちて、広がっていく。
チェイサーは何も言わなかった。この小さく薄暗い物置はさきほどまでの銃声が嘘みたいに物静かで、双眸から流れ落ちていく水滴が、紙にポツリと落ちていく音はよく響いた。
「なんで泣く……糞みたいな親じゃねえか…………」
『――――もしこの戦いを解決することができたら、俺が残した遺産で自由に暮らすといい。決して飢えることも、寒さに凍えることもないように準備してきた。賭博には使わないでくれよ? しかし、こんなことを書いていると、できることならばお前の彼女と挨拶をしてみたいだとか、孫の顔でも見てみたいだとか、ジジイみたいなことを考えてしまう。遺書を書いているのに、生きて楽しく過ごせる未来を考えてしまう』
「死んだら見れないだろうが…………。それに、金なんて自分で稼ぐから、余計な……お世話だ」
ジェイルはそれこそ家族に話しかけるように、優しげに、しかし深い悲しみのなか、遺書に向けて言葉を発した。その紙が声を発することは決して起こりえないことであるが、想いの込められた言葉が、文字が五感全体を伝って脳に回っていく。
『――――愛している。この想いが貧しくなることも、純粋さを失うこともありえないだろう。だが、駄目な父親ですまなかった。どうか嘆かないで欲しい』
「糞みたいな親だ。自分勝手過ぎる。愛してただ……? いっそ吐き気がするくらい嫌な奴でいてくれよ……。自分勝手過ぎる……。なんでこんなもんを用意しやがったんだ。俺のことを捨てた。何も思ってないって……書けよ。いまさらこんなことを言われたって……迷惑だ」
ジェイルは震える声で、一人心地に呟いた。得体の知れぬ喪失感が、会ったこともない親に対して渦巻いて、悲しげに嗚咽の混じった深いため息をつくほかなかった。チェイサーは何も言わずに、少し離れた距離で見守っていた。
どうすればいいか分からなくなった。まだ理解が追いつかなかった。親に捨てられたと言われ、糞みたいな毎日を送り続け、今日になって突然、お前は捨てられたわけではなかった。
父親はお前を守るために戦い続けて殺されただの、違う世界だの、命が狙われているだのと……挙句にこんな訳の分からない遺書を読まされて――――。
「俺は……俺は…………どうすればいいんだ。敵討ちでもすればいいのか?」
『こんな自分勝手な俺を許して欲しい。因果を引き継がせるような真似をして本当にすまない。そして最後に一つ、俺の弱い心が生み出した形見をどうか守ってほしい。彼女にも随分と辛い思いをさせてしまった。彼女に俺は負の感情を押し付けた。これはお前にしか頼めないことだ。どうか、 頼む。そして何度でも言おう。愛している。 我が息子よ。』
文章はそこで終わっていた。