腕交じえ血舞う
「ありえない。……エドワードはもう眠りました。ワタシはすぐ近くにいたのです。ハッキリと感じ取った」
アイラは顔を引き攣らせ、何かを恐れるように後ずさると、こちらの手を強く握り締めた。ひんやりと柔らかな感触が広がる。
「死んだと思わせる必要があった。メイザスの目から逃れるために」
「いままでどこにいたんだい?」
チェイサーの問いに対し、エドワードは諭すように答えた。
「農村のとある家で匿って貰っていた」
「本当にエドワード……エドワードなんですか?」
弱々しい、期待と不安の混ざった声だった。エドワードがしっかりと縦に頷くと、彼女は緊張のなか僅かに顔をほころばせる。
本当に……本当にエドワードなのだろうか。疑問は依然として払拭されていなかった。だが、信じたかった。それは全員同じ意見に違いない。
「ジェイル、喜ぶのは早い。彼は何かがおかしい。魔素の気質が変わっているような感覚がします」
アイラは指で銃の形を模してその先端をエドワードに向けた。
「チェイサー、魔術は幻を見せたり変身したりとかは……できないよな」
「同じ幻を見せるのは不可能だよ。変身も……例外はあるけれど無理だね」
それはアイラのことを言っているのだろう。つまり、よほどの暴走をしなければ無理ということだ。
「エドワード……俺が誰か分かるか?」
ジェイルは震えるような声で尋ねた。疑念は抱き続けていたが、それでも言葉を交わし、秒単位の時間が経過するたびに焦燥が巡った。願望が高まっていく。
「ジェイル・シルヴァー……忘れるはずがないだろう」
エドワードの言葉が満たされていた心により深く沈み込んだ。ただ名前を呼ばれただけで、涙腺が緩み、体の芯が熱くなっていく。
瞬間、手に強い痛みが生じて、意識が平常に戻された。痛む手に意識をやると、それはアイラが握っている手だった。
今も彼女は目の前の存在に怯えていて、爪を皮膚に食い込ませ、過呼吸気味に息をしていた。それでも表情は決して変えることなく、震える手でいつでも魔術を行使できるようにしているのだ。
「…………アイラ、」
――――何かが引き戻されるようだった。
ジェイルはアイラの手を握り返す。彼女の手は冷たくて、冷静になれと言われているようだった。
「……ありがとう」
アイラは小さく呟いた。ジェイルは返事の代わりにこくりと頷いて、より一層その手を離さないようにした。……もし離したら、もう会えなくなるような気がしてならなかった。
「困ったな、どうやったら信じてもらえるだろうか。アイラにそんな顔をされると悲しいじゃないか……」
エドワードは額に皺を寄せ、顔に薄暗い影を差す。その表情は嘘には見えなかった。
「――エドワード、僕は君を信じたい。君に助けられたから。生きる意味をくれたからね」
数秒の沈黙をおいて、不意にチェイサーが口を開いた。その言葉に足音を紛れさせ、異変に気付いたウォッチャーとブロウワーがエドワードの背後、廊下の壁の死角に潜む。
「私も仲間に疑われるのは嫌だな。どうやったら信じて貰えるだろうか」
チェイサーは鋭利な双眸で見据えながら、一つの問いを投げかけた。
「……僕の本名を言ってもらえないだろうか。それで…………それで信じられる。たったそれだけでいい」
ピシリと頬に刺激が走った。そこから血が流れていく感覚もした。いままで幾度か感じたこの感覚……魔術の暴走だ。
ジェイルは半ば反射的にチェイサーの顔を覗いた。彼はいかにも冷静そうな表情を保ち続けていたが、アイラほどの鉄面皮はなく、だらだらと汗が流れていた。
エドワードはしばし黙っていた。が、やがて懐かしむように訓練部屋の傷を見ながら口を開いた。
「――――ロレンス・クラーク。もちろんだ。覚えているとも」
チェイサーはその言葉を聞いて、朗らかな笑みを浮かべた。それはまるで安堵するようでもあった。だがその表情に反して、彼が発した言葉はあまりにも鬼気迫っていて、激昂と底知れぬ哀哭が溢れ出ていた。
「離れろ!! こいつはエドワードじゃない!」
エドワードは穏やかな表情のまま額に悲痛な曇りを覆わせた。
次の刹那――――瞬きをする時間よりも一瞬の間に、エドワードとチェイサー、両者の片腕が宙を舞っていた。遅れて、その断面から洪水のごとく鮮血が噴き上がり、部屋の壁や床を赤く染める。
ジェイルにはその瞬間に何が起きたか理解できなかった。ただアイラの手を離さないようにすることしかできなかった。
ユイが呆然と、顔についた血飛沫を拭い、目の前の光景を信じられないと言った目で見つめる。ジェイルも同様にその瞬間何が起きたか理解できなかった。
ただ痛いまでにこちらの手を掴む少女のことを離さないように意識を向け、そしてユイへの注意を少しでも逸らすように一歩、ただ一歩前に出るのが限界だった。
初撃から僅かに遅れて、死角に潜んでいたブロウワーとウォッチャーはエドワードを敵として認識し、すぐさま攻撃に出た。少女は祈るように両手を合わせ、男は結婚指輪をはめている左手を前に突き出す。
それが二人にとっての魔術のトリガーであった。空気が歪み、エドワードの体に無数の切り傷が生じる。が、それだけであった。二人は唖然としながらもエドワードの攻撃を警戒し、一定の距離を保つ。
「変わらないな。リディア、フォッグ。残念だが最初から隠れていたことは知っていたんだ。おかげで対策は容易だったよ……フハハハ」
エドワードは二人を本当の名前で呼ぶと、勝ち誇ったように目の前の全てを嘲笑った。
「二手だ。……二手遅れた。その代償は大きいぞ。ロレンス」
その言葉の意味を分かってしまうことに時間は有さなかった。一体いつ彼がそこにいたのか。その男は金の髪を靡かせながら悠然と、さも当たり前のようにメイドのすぐ背後にいた。
――――逃げろ。
ジェイルがたった一言を発する前に彼は、メイザス・ダロウェイは狂気に満ちた笑みを浮かべながら腕を伸ばした。ただそれだけだった。
……ただそれだけで、剣が貫くがごとく、彼の腕は華奢な少女の胴体を貫いた。生暖かい血が飛び散っていくなか真紅に輝く双眸は、まるで怨念に囚われた亡霊のように邪悪でおぞましいものであった。




