逃撃 その3
――――やってやった。これでだいぶ時間を稼げる。なんならこのまま逃げてしまってもいい。敵は病院直行コースだ。今のうちに自分の部屋から銃を……いや、外に出るべきか? 落ち着け。とにかく最初は警察に連絡すべきだ。
ユイはリビングを出ようと駆け足で廊下を目指したが、数歩進んだところで前触れの無い鋭い痛みが足に走ったのを感じた。
「痛っ!?」
それは皮膚を切り裂き神経にまで達するような激痛で、足に掛かる体重がさらに痛みを強めるがために彼女は態勢を崩し転倒した。
すぐさま異変を発した部分を確認する。……足の裏にあの男の所持品と思われる医療用のハサミが深く突き刺さっていた。鋭利な二本の刃が器用に、深く入り込んでいる。どくどくと血が出て、その血が傷に染み入り、いままでに無いような痛みだった。
「痛い……痛いよ。畜生、なんてことしやがるんだ…………。そこを動かないでくれよ……? ここまで抵抗されたのは君が初めてだ。ただなぶり殺すだけじゃあ満足できない。この傷は君の人間としての尊厳と生命を犯して始めて消毒しようじゃあないか」
男はいまだに顔を押さえていたが、ゆったりと立ち上がった。
……殺虫剤の直撃を顔に与えた。男だったら絶対に悶え苦しむような一撃も与えた。にも関わらずこの男はそんなものは些細な傷だと言わんばかりに立っている。メスで鎖を切ったときにも感じた違和感、異質さ。ありえないとしかいいようがなかった。
不可思議への畏怖が募り、隙間なく心を埋め尽くそうとする。駄目だ。余計なことを考えるな。集中しろ。
「私は……!! 絶対に殺されたりなんか……しない!」
ユイは振り絞るような声で自らを奮い立たせる。
逃げるのは不可能だ。あの男は痛覚が鈍っているのか知らないが、痛みから回復するのがあまりにも早すぎる。こちらも傷を負った以上、外に逃げれば追いつかれる。2階へ……銃を取る時間ならあるはずだ。
「うぐっ……痛い…………痛い」
少女は必死の思いでハサミを抜き取って行く。ミリ単位の動きでさえ地獄のようだった。しかし、時間は掛けられない。
「ああああああああああッ!!」
ユイは痛みを掻き消さんと猛獣のごとき叫び声をあげ、渾身の力でもってハサミを引き抜いた。真っ赤に染まった傷口からドクドクと脈動に合わせて血が流れ出る。涙が止まらなかった。だがこれは恐怖の涙ではなく痛みを堪えるためのものだ。
「向かわなきゃ……」
一歩、また一歩と進むたびに鋭い痛みを神経が伝え、脳がぐらりと揺れそうになる。それでも死に物狂いで階段を上がっていく。まだ廊下にあの男が来ている様子はない。だが、声は聞こえた。
「ガキが…………まったく屈辱だよ。……ククク。フハハハハ! ここ最近は最低な事ばかり起こる。愉快なくらいだよ……。ああ、まずは右腕にしよう。乱暴な右腕を解剖してあげよう……二階に逃げたのかい? 今行くからね…………」
気の遠くなるような数段の階段を上り切って自分の部屋に入った。大した意味は無いが少しでも時間を稼ぐために鍵を閉める。足音が下から聞こえていた。……あの男は歩き出している。心臓が凍りつきそうだった。全身が慄然として震え上がり、体が硬直してしまう。
――――落ち着け。慌てるな。次は戸棚の銃を取り出すんだ。
少女は息を整えようと深呼吸をした。嗚咽交じりで深く息を吸うことは叶わなかったが、なんとか行動をするだけの冷静さを取り戻す。痛む足での移動をやめ、膝歩きで戸棚まで向かうと、開錠に取り掛かった。
――ダイヤル式の鍵で4桁。パスワードは自分の誕生日……「0403」分かっている。覚えている。
しかし手が震えて上手くまわせない。カチャカチャと人差し指が不要な番号をいじり続ける。
「くそ……あ、開いた!」
苦戦しつつも鍵を開け、戸棚に入っている中古の散弾銃と買ったままの状態になっていた弾薬を取り出す。
「ほらほら……階段を上り始めてるぞ。わたしを殺すんだろう? 見せてみたまえ。ああ糞…………もし痛みを無くす術がなかったら大変なことになっていた。だが所詮はポーンがやられた程度。逃げ場の無いところに行って、いや、外に逃げても詰んでいるな。分かるかい? チェックメイトだ」
優しく諭すような、しかし殺気を帯びた不気味な声が近付いているのが分かった。対してユイは素直な恐怖心を曝け出し、震えるような声を発した。
「嫌……! お願い…………こないで」
だがその顔にあるのは生への執着心だった。散弾銃に装弾する時間を作るために、あえて押し殺していた畏怖を吐き捨てた。しかし口にすると、唇が震えているのが分かった。
「こないでか……そうだよなぁ。どうして2階に逃げたんだい? 逃げ場がないじゃあないか。ふはは……それとも窓から逃げてみるか? それこそ絶望の淵に落ちるだろうね……」
男の声は扉のすぐ向こうから聞こえた。立ち止まってくれている。――――チャンスだった。
「お願い…………殺さないでくださ……い……神様」
時間を作れた。少女は銃に弾薬を込めるなか、改めて覚悟を決めた。
――――あいつが扉を開けようとした瞬間、撃つ。
……銃身をあごの高さにまで持ち上げ、銃口を部屋の扉に向けた。右肩に銃床を押し付けるように、両脇を締めて構える。
……一秒が長く感じれた。バクバクと緊張の鼓動が血を伝わって全身に張り巡らされる。唾が胃酸の味がした。ピタリと呼吸を抑え、全神経を扉の向こうに研ぎ澄ます。肩や手、腰、喉の奥が鉛のように重く感じれた。
ガチャリと――――ドアノブを動かす音が静寂の中響いた。それはもはや条件反射であった。少女は黒い双眸で扉を見据えるなか、引き金を振り絞る。
直後、全身に衝撃が伝わり、既に怪我をしていた足は特に悲鳴を上げた。室内で轟いた銃声が耳の奥に針でも刺されたかのような耳鳴りを生み出し脳を揺らす。だが、それ以上に目の前の光景が脳を揺らした。
――――理解が出来なかった。
粉々になった木片、放たれた銃弾が物理法則を無視して空中で停滞していたのだ。そして……あの男はさも当たり前のようにその場に立っていた。
「そんな……! どうやって…………」
ユイは現実を疑った。しかし、目の前の非現実的な光景が夢まぼろしには思えない。バイロンの両親が言っていたのはこの事だったんだ。全部事実だったんだ……。
そう理解したときには、手に持っていたはずの散弾銃を落としていた。吹雪に晒されたかのように歯ががちがちと音を鳴らし、体の震えが止まらなかった。
不意に腰が抜けて、尻餅をつく。だが後ずさる気力もなかった。
少女は黒い眼で目の前の男を見上げる。男はニンマリと……おぞましいケダモノの相貌をしていた。
「すまないが…………銃は無意味なんだ。どうした? わたしを殺す努力はおしまいか? ……いや、それでも褒めてあげよう。あのスプレーの一撃は強力だった。ああ……思い出すだけでむかっ腹が立つよ。まったくね」
男は少女の細いの首を掴み持ち上げると、一発、二発と無防備な腹部に拳を叩き込んだ。
「んグっ……!! げほッ、痛い……いたいよ…………!」
遠慮のない一撃が臓器を揺らし、しかし痛みに声をあげると圧迫されている気道が軋み、手足が痺れるような感覚がする。……苦しい。痛い。頭のなかがそれだけでいっぱいだった。
「ほらほら……。首を締められながら殴られる気分はどうだ? そろそろ脳内麻薬でも分泌されてるんじゃあないか?」
男は恍惚として笑いながら、拳を振るい続けた。そのたびに少女は小さな悲鳴と嗚咽を漏らしていく。
「…………」
もう声は出せなかった。殴られ続けてお腹がじんわりと熱を帯びて痺れている。視界が朦朧として、五感が鈍る。
少女は虚ろな瞳で目の前の男を見詰めた。手足は糸の切れた人形のように垂れ下がり、口は閉じる力もなく胃液混ざりの唾液が垂れる。
男はユイを物か何かを扱うように床にどさりと投げ落とすと、落ちていた散弾銃を拾い上げた。
「さあ約束だ。臓器は傷つけたくないから……腕を撃とう。それだけでも充分失血死できるからね。最期に言いたいことはあるか?」
ユイは倒れ付したまま、小さな口を動かそうとした。
「…………私は」
――――だが次の瞬間、全てを打ち壊すような爆音が耳をつんざいた。




