逃撃 その2
信仰する神などいないにも関わらず、狐塚ユイは神に願った。そうやって自身に言い聞かせるのだ。ピンチになったところで誰かが助けに来てくれるなんて信じない。
「殺すか……。いいだろう。やってみるといい。そのほうが君も満足して死ねるというのならな。確かに……抵抗したほうが殉職者らしく逝けるだろう」
男はじりじりと歩み寄っていた。廊下を一歩また一歩と進み、移動可能な部屋をなくしていく。このままだと袋小路だ。
「悪いけど、神なんて信じない。だから殉職者なんてまっぴらごめん。あんたこそ祈れば!?」
ハンティングライセンスを取っていてよかった。そうでなければ抵抗の手段さえなかった。……銃があるのは自分の部屋。最悪なことに二階だった。厳重に鍵を閉めて保管してある。弾も装填しないといけない。時間がいる。
廊下から……今行けることができる部屋はリビングとキッチン。二つの部屋は幸いにも繋がっている。階段を上がって部屋へ行き銃を得るには何かをしなければ無理だ。鍵を閉めたって玄関みたく破られる。
考えろ。時間はない。追い詰められれば詰みだ。怖い。これまで生きてきた18年間のなかでこれほどまでに全身が緊張したことはない。それでもやらなければ。
少女は血が出るほどに唇を噛み締めながらもリビングに逃げる。部屋はさほど広くはなく、中央には低めのテーブルとソファが一つずつ。部屋の角には低めの棚に薄いテレビが置かれており、床には本や衣服が散らばっていた。
「何か……! 何かないの!?」
駄目だ。あるはずない。工具は外だ。包丁はキッチンにあるが遠すぎる。あの男はすぐ背後まで迫っている。刃物を取ろうとしているのが分かれば本気で押さえつけられるだろう。力では叶わない。
「どうしたんだ? わたしを始末するんじゃあなかったのか? それとも前言撤回か? それもいいだろう。悪いことだとは思ってるんだ。痛みはなくしてあげるよ? ……ああ。にしても上玉だ。君みたいな子は久しいよ。あの白い髪の女はわたしと同類だったからなぁ」
あの男の視線を感じるだけで皮膚が悲鳴を上げた。悪寒がして、体の芯が凍りつく。歪な臭いが鼻に障る。視界がぐわりと歪んだ。あいつは遊んでいるのだ。いつでも殺せると思っている。けれどそれは……油断しているということだ。
ユイは咄嗟に床に散らばっているものを男に向けて投げつけた。衣服、本。辺りにあるものは無差別に投げていく。だがそれは時間稼ぎにもならなかった。男は防ぐ動作すら見せず、子供のおふざけでも眺めるかのような目線をくべる。
「これで? わたしを殺す? 残念だがそれは難しい。もしわたしの体がプディングで出来ているなら可能性はあっただろうが…………」
「くそ! この! 近付かないで!!」
少女はじりじりと追い詰められ、やがてテーブルに足を引っ掛けて尻餅を付いた。じわりと、黒い瞳に涙が滲む。それでも何とか涙腺が決壊するのを耐えるようにして、抵抗を続けた。
散らばった物を投げ、テーブルを引っくり返していく。が、無意味。男は小蝿でも追い払うかのようにそれらの物をメスで切り刻んでしまった。
あまりにも非現実。だが驚きや疑念よりも別感情が勝り、そこまでを思考するに至らない。
やがて、追いやられた。後ろに逃げ続けた結果、背中に壁の感触が伝わる。部屋の隅に追い詰められたのだ。
「……ッ!! こ、来ないで!!」
ユイは黒い髪を乱しながら、一心不乱に声を上げた。顔を蒼白させガタガタと脚を震わせる。男はそれを見ると、嗜虐心を満たし酷く恍惚とした表情を浮かべた。
「ククク……。ああ、ここに来てよかった。何か新しい発見をした気分だよ、まったく。君……コヅカユイと言ったかい? いい名前じゃあないか。両親に感謝するといい。大丈夫、わたしも君の名前は忘れないであげよう。さぁ、体の力を抜くといい……」
男は1メートルも無い距離にまで近付き、中腰になった。両腕を広げ壁につけ、まるで檻のように逃げ道を塞ぐ。
「んん~? おかしな奴だ。君の瞳が急に変わったように見える。……恐ろしくはないのかい? なぜそんな……」
――――ピシリと空気が軋んだ。男が不思議そうに首を傾げる。今が最初で最後のチャンスだ。
次の刹那、狐塚ユイは右手を男の顔に向けた。その手に円柱状の道具を持った状態で。男にはそれが何をする道具か分からなかった。
だが彼は反射的にメスを持つ手を伸ばした。それは少女がこの道具を使用するよりも、一瞬ばかし早かった。銀の刃がたやすく金属のソレを切り裂かんと中に突き刺さる。
直後、僅かに出来たその傷から白い霧状の液体は凄まじい勢いで噴射された。嗅覚、視覚をつんざくような強烈な刺激臭が充満する。
その一撃をモロに受けたのは自ら発射口を作り出してしまった男のほうで、彼は顔を押さえて悶えながら、痛みに声を荒らげた。
「があああああアアアア!! なんだこれは! なにをしやがった!! このクソガキがァ!!」
「殺虫剤よ! わざと追い込まれたフリをしたの。役者志望の演技はどう? 上手でしょ。そしてッ! 今から覚悟するのはあんたの方だって教えてあげる!」
少女はすぐ傍にあったドライヤーを両手で持ち、まるでハンマーのように目の前で倒れている男の急所に振り下ろした。
肉を潰すような、軟骨を間に挟んで叩きつけたかのような感触が手に伝わる。男は狂ったように目を見開き、今度こそ声にならない悶絶をした。




