暗雲の兆し
三章:魔術師は冷徹に笑う
信じがたいかもしれないが、世界とは幾つも存在しているものである。わたしがその存在を確認できたのは合計で三つ。一つはわたしが元いた世界だ。魔術に支えられた社会体制ゆえに、魔素の枯渇が原因で、今頃人類は滅んでいるかもしれない。
もう一つは魔素が一切存在しない世界だった。ところが人間は科学の力を発展させ、発展めまぐるしいく、見ているだけで頭が痛くなるようなところであった。
最後に、この世界。わたしは【狭間の国】と名づけることにした。上記の世界二つを繋ぎとめ、両立させるための緩衝材。しかしこの世界も大きな問題を抱えている。まるで潮の満ち干きのように魔素と空間の安定性が変化し、満月と新月のとき、高度が低い場所に高密度の魔素は充満し、上記二つの世界で神隠し、転移などが起こりうる度合いにまで世界と世界の隔絶性は消え失せるのだ。
――――エドワード・シルヴァー『世界観測録』
メイザスは幾つものしおりを挟み、加筆されたその本を改めて読み終えると、近くにあったテーブルに置いた。彼のいる場所はとある建物の一室で、窓はカーテンで閉ざされ、薄明るい蝋の明かりが揺れ動き、シックな家具と映写機を照らす。
「……ジャック。貴様の大好きな女の腎臓を食べ終えたなら答えるがいい。お前は家族を支えるために仕方なく体を売ってしまった少女を嬉々として殺しておいて、仕事も満足にこなせないのか? 随分と見っともない姿じゃあないか?」
メイザスは少し離れた場所で血の滴る臓器を口に運ぶ殺人鬼に尋ねた。ジャックは特別反論する様子もなく、実に落ち着いた口調で答える。
「ああ……見っともない姿さ。こんな赤っ恥は久々だよ…………。だがもう一つの仕事は完了しただろう? あれはメイザス、君にだって出来ない魔術さ。それで今回は勘弁してくれないか?」
「その点に関しては本当に感謝しているさ。……いいだろう。だがもう少し手伝ってもらおうか。もうじき世界の繋ぎ目が緩くなり、移動が可能になる。そのとき貴様には向こうの世界でジェイル・シルヴァーと親しい人物を皆殺しにして欲しいんだ」
メイザスは赤ワインをグラスに二人分注ぎ、その一つをジャックに手渡した。彼はそれを受け取ると、にこやかに笑い、軽やかに乾杯の音を響かせる。
「その人物に女がいたら……『食事』してもいいんですよね?」
メイザス眉間に皺を寄せたが、すぐに歪んだ嘲笑を頬に刻んだ。
「下衆な奴が…………。いいだろう。勝手にするがいい」
「ありがとう。それと……不快に思っているかもしれないが、事実、彼女達は絶命する瞬間まで美しい容貌で恐怖を描くけれど、こうは思わないだろうか。願望と現実に挟まれて中途半端に世界に苦しむくらいならいっそ、おちるところまで落ちてしまったほうが、落ち着くだろう? ……落ちる。どん底に…………ククク」
「ああ……順調だ。エドワード、貴様はどこかで見ているか? 世界がいくつもあるのなら、死後の世界はあるのだろう? ……ジェイル・シルヴァーは成長しているぞ。オレの目論見通りだ。もうすぐだ……もうすぐで全てが叶う。ゲームはオレの勝ちだ」
メイザスはワインを一気に飲むと、悠然としてカーテンの外を覗いた。夜闇のあぎとが街全体を食らい、ガス灯が道に沿ってぼんやりと周囲を照らしているのがよく見える。
「……【黄金の夜明け団】、【暁の星】。これが消えてしまえば魔術は実質消滅だ。生み出した者は尻拭いをすべきだ。そうだろう? エドワード。強い力が無ければノーサウ村の悲劇は起こりえなかった」
メイザスは部屋の隅にあっ木製の新聞ラックから、浮遊の魔術を用いて一つの記事を取り出し手に取った。その新聞紙は酷く痛んでおり、力強く握った痕のようなものも残っていたが、一面に張り出された白黒の写真は皺の一つさえ無かった。
そこには燃え上がる村と人間の惨殺死体が大量転がっている光景が映し出されており、ノーサウ村で起きた凄惨たる虐殺事件について書かれていた。
「……ジャック。オレの家族はエドワードが魔術を教えた誰かに焼き殺された。オレは確かに悲しくて、激怒したはずだったんだ。……今でも、悲しくなるはずなんだ。怒ろうと思って怒りの対象を想うのだ。だがどうして魔術の暴走が起きない? なぜ暴走できないんだ。お前は元医者だろう? 分かったりしないのか?」
「わたしは外科なんだ。精神のことは分からない。だが一つ言えるとすれば、暴走していないということは怒りや悲しみがないということだろう。魔術師として素晴らしいことじゃあないか」
ジャックの発言を聞き、メイザスは寂然として眉間に深い皺を刻むと、大袈裟に酷薄な双眸を見開いて涙を流しながら、歪な笑顔を作った。
「ああ! つまりはそういうことだ! オレは怒りも悲しみもない。否、なれないのだ。だからジェイル・シルヴァーを殺す。【暁の星】を殺す。真なる目的を達せ無ければ! 怨念という焔は消えることは無い!! フハハ……! フハハハハハハ! フヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャイーヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!」
無意味な笑い声が部屋に響く。一連の様子を見ていたジャックは一筋の冷や汗を流し、笑い声に掻き消される程度の小さな声で呟いた。
「本当に大した奴だよ…………。笑いながら泣いて、激昂するように皺を露わにしておいて、まったく暴走の気配さえない。……化け物は君じゃあないか。喜怒哀楽も無くした死人が何をしようとしているんだろうかね」




